53.賭け勝負
今回も三人称です
「ただいまー……って、あれ?」
泰明は努めて明るく声をあげるが、肝心の人物が見当たらず首をかしげた。
いつも玄関を開ければ正面の台所で忙しくしているあかりの姿が見えるはずなのに。
今までにないほど明るい土間には彼女の姿だけが見当たらない。
「おかえり泰明。久しいの」
かわりに青年を出迎えたのは加加姫だった。
読んでいた新聞を畳んで囲炉裏からとことこと土間の上がり端までやって来る。
おこもり明けのためか小さな体躯には神気がみなぎっており若干目に眩しい。
肌艶もよくなっていて、全身はちきれんばかりの元気があふれていた。
「お久しぶりです姫様。あの、あかりは……もしかしてあそこですか?」
ふと襖の閉められた座敷からただよう強い怒気を感じて、そちらを指さしてみる。
「ああ。久しぶりにあかり山が噴火したぞ。それはもうドッカンドッカンとな」
「わぁ、それは見ものですね。一体なにがあったんですか?」
そういえば姫神と一緒に戻ったはずのうるさい狐がいない。
「ほれ、九摩留が勝手に葉月のとこで働いてただろう。あれがあかりにバレてな」
「なるほど。それでですか」
九摩留が姉の店で飲食し、対価として労働提供していることは知っていた。
姫神にそれを確認したとき、黙っているよう言われていたので当然あかりには話していない。
「もう一時間くらい説教しているかの。そろそろ終わり……うむ?」
加加姫がさっと座敷を振り返り、羽織った褞袍をたくし上げる暇もなく慌てたようにぱたぱた駆けていった。
「これあかり、おやめっ、そんな安い挑発に乗るでな……あーあぁ……」
襖が開かれ、あかりと九摩留の声が明瞭になる。
「じゃあ俺が勝ったらなんでも言うこと聞いてもらうからな」
「えぇいいわよ。どうせ勝てっこないんだから。そのかわりわたしが勝ったらちゃんとお姉ちゃんて認めてよね」
耳に飛び込んできた言葉に、泰明の表情が消えた。
ものすごく嫌な予感しかない。
「二人ともやめよ。この神聖な屋敷で賭け事なぞ認められぬぞ」
「……申し訳ございません。失礼いたしました姫様」
「あ、逃げんの? そっかそっか俺に負けるのがそんなに怖いんだ。わぁダッセー。そんな奴が俺の姉面しようとかちゃんちゃらおかしいわ」
「うっ、うるさいな! わたしが負けるわけないでしょ、勝負してもいないのにおかしなこと言わないでよ」
「じゃあ白黒つけようぜ」
「……ッ、姫様!」
訴えるようなあかりの声に加加姫がむぅと小さく唸り、ややして大きなため息をついた。
「仕方ないのう。だがこれっきり、この一度だけだぞ」
「お待ちください姫様」
座敷にあがった泰明が話に割り込む。
「や、泰明さん。どうもこんばんは……」
あかりは泰明を目にした途端、赤くなったり青くなったりと目まぐるしく顔色を変え挙動不審になった。
可愛くて愉快な彼女に抱きつきたくなるのを青年は必死でこらえる。
どうやら医院でのひと時は忘れられたわけじゃないとわかり、ほっとすると同時に不安にも駆られた。
今の彼女が自分にどういう感情を持っているのか、見た限りではちょっとわからなかった。
「姫様、僕は反対です。どういう勝負をするのかは知りませんが、ろくなことにならない気がします」
「わかっておる。だから、これきりだ」
姫神は赤い眼を意味ありげに細めると、従者たちに向き直り長い白髪を手で払いのけた。
「よいか二人とも。ぬしらは神に仕える者として清廉潔白であれ。以後は屋敷はもちろん屋敷の外においてもあかりと九摩留の賭け勝負を禁ずる。今ここで誓いを立てよ」
「はい。わかりました」
「おう、いいぜ」
「またこの賭けが日々に影響するものであっても困る。よって条件をつけさせてもらうぞ」
「はぁ? んだよそれ。あかりは負けねぇって言ってんだから、別になにを望んだって問題ねぇだろ。あ、ババアもあかりが負けるかもって思ってんだな。だからひよってんだ」
「姫様、わたしは負けません。だから安心して――」
「いいから黙りや」
声の大きくなる二人に加加姫がぴしゃりと言い放つ。
「まぁよい、とりあえず言うだけ言ってみよ。まずはあかり、おぬしの望みはなんだ?」
「はい。わたしが勝ったら九摩留にはわたしをお姉ちゃんと呼んでほしいです。ちゃんとお姉ちゃんとして扱ってほしいです。それにもっと仕事も増やしてお勉強の時間も――」
「さすがに多いのう。では九摩留はあかりを姉と呼び敬意を払うこととする。九摩留の望みはなんだ?」
「俺が勝ったらあかりは俺のものになれ。嫁にこい」
泰明が九摩留に向かっていこうとするのを加加姫が手で制した。
「却下。あかりの望みと釣りあいが取れぬ」
「じゃあ抱か――」
「殺すぞ。却下」
「キス」
「却下」
「デート」
「……まぁいいだろう。では勝者の望みを叶える期間は六時間とする。わかっておるだろうがわしの前で交わした誓いは“縛り”となる。破ることはできぬぞ。よいな?」
「はい」
「おう」
「では支度せよ」
「俺、葉月んとこ行ってくる!」
九摩留は座敷を飛びだすとそのまま外へ走っていってしまった。
一方のあかりは泰明のもとへ来ると、なにやら落ち着かない様子で緋袴の結び目を整えたり羽織った綿入れ半纏の表面を手で払ったりしている。
「こんばんは、あかり。なにがどうしてこうなったのかな?」
青年がなんとか笑顔を作ると、彼女はうっと小さくうめいて顔を伏せてしまった。
さすがに反省はしているようで少し肩を落としている。
「実は、台所仕事のことでちょっと言い合いになってしまって……気がついたらああなってました。恥ずかしいところをお見せしてすみません」
「いや、まぁ……賭けはともかく面白いものが見れたからそれはいいんだけど。ちなみになにで勝負するの?」
「勝負は包丁捌きで、大根の桂むきとジャガイモの皮むき、キャベツの千切りの三本勝負です。これでもわたしは七歳のときから包丁を握ってますし、葉月ちゃんのお店でちょっとお手伝いしてるだけの九摩留には負けるわけがありません。必ず勝ちます」
あかりはぱっと顔をあげると勇ましく拳を握る。
姉の威厳を見せつけようと息まく彼女にほほえましさを感じながらも、泰明は嫌な予感を払拭することができなかった。
九摩留はあの姉の――妥協知らずの姉の店で仕事を手伝っているわけで、煽り方からしても根拠なく勝負を申し出たわけではないだろう。
それでも泰明は彼女に不安を与えたくなくて穏やかにほほえみかけた。
「ん。信じてるよ」
自信に満ちた目でこちらを見上げてくる娘の姿に、青年の胸が甘く痺れる。
それは自己評価の低い彼女において滅多にお目にかかれない表情だった。泰明は崩壊しそうになる表情筋に力を入れてなんとか平静を保とうとする。
(文明開化万歳……明るいってほんと素晴らしい)
照明が石油ランプから蛍光灯になったおかげで彼女はいつもより輝いて見えた。
照らしだされたあかりの目鼻立ちは控えめで、逆さまにした卵にゴマをちょんと置いたような素朴な顔立ちともいえるだろう。
でもその小さなどんぐり目はくりっとして親しみやすさがあり、小さな鼻も、ふっくらと柔らかな頬も、いつもゆるやかに口角があがっている唇もーーとにかくすべてが可愛らしい。
愛おしくてたまらない。
「わ、あの……!?」
「あ、ごめん」
気がつけば手が動いていて、そのポニーテールに指を絡めていた。
慌てる彼女に泰明はぱっと手を離し、そういえば以前あかりに女誑しと疑われたのだと思い出す。家族だからこそ距離が近いと言ってみたものの、それに納得しているかは疑わしい。
ただでさえうかつな行動は自重しないといけなかったのに、完全に無意識の行動だった。
本当に箍が外れかけているとわかって自分でもひやりとする。
「いきなり触ってごめんね。髪にごみがついてたから」
明るいとよく見えるねーと取ってつけたような誤魔化しをすると、彼女はほっとしたようにうなずいた。
「ところで姫様、ありがとうございます。早めに対策していただけて助かりました」
二人の様子をにまにまと眺めていた少女に青年が頭を下げる。
加加姫が二人の賭け事を一切禁止にしていなければ、九摩留は今後もあかりに賭けをふっかけては無体を強いようとしただろう。
なにせあかりはちょろい。
それこそ不承不承だとしてもあかり同意のもと夫婦宣言でもされたらたまったものではない。
「対策、ですか?」
「ふふ。おぬしは気づかんでもよろしい」
あかりはよくわかっていない様子で首をかしげる。
そこへ玄関がバンと音を立てて開き、走り出た勢いのままで九摩留が戻ってきた。
「葉月んとこから道具借りてきたぜ! 早速勝負だ!」
男は台所近くの板間に牛革の包みを置くと巻物のようにくるくる開いてみせる。
内側のポケットに収納されていたのは小型の刃物であるペティナイフと菜切り包丁によく似た薄刃包丁だった。
それを見て泰明は唇を引き結ぶ。
どうやら嫌な予感が的中したらしい。
弘法筆を選ばずとはよく言うものの、道具のよしあしで作業者の能率が大きく変わるのもまた事実。
屋敷にも包丁は数本あるが、種類としては菜切り包丁と出刃包丁のみだった。
家庭で料理を作る者と店で料理を作る者とでは、その意識も技術も違ってくる。持ってきたものを見る限り、九摩留はそれなりに包丁を使えるということだろう。
ふと、姉の高笑いが聞こえた気がした。
(あ……これ多分駄目だな)
泰明の目の前が暗くなる。
デート。あのふざけた狐が、あかりと。
自分でさえまだしたことがないのに。
一方であかりは物珍しそうにペティナイフをのぞき込んでいる。
「へぇ、葉月ちゃんのお店ではそういうのを使うんだ。なんだかちっちゃくて可愛いね」
「他にも使ってるのはあるけどな。とりあえずこの勝負にゃこの二本ってとこだな」
「ふぅん。まぁ、お手並み拝見といきましょうか」
勝利を確信しているのか鼻歌でも歌いださんばかりに浮かれた様子のあかりは、割烹着を着つつ野菜を取ってくると言って勝手口を出ていった。
泰明は土間に降りて九摩留の前に立つ。
男は青年の怨嗟のこもった目を見るや、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「あかりってほんと単純で可愛いよな。ま、恨むんなら軽率なあかりを恨みな」
「お前、あまり調子に乗るなよ」
「ハッ。調子に乗るって、一体これのどこがだよ。お前だって俺たちがいない間あかりとじゅうぶん過ごせただろ。これくらい大目に見てくれてもいいんじゃねえの?」
「見れない。僕以外の男と出かけるとか冗談じゃない。今回は姫様の縛りがあるから我慢するけど、もしも出かけてる間におかしな真似をしたらただじゃおかないよ」
九摩留は一瞬目を丸くするとおかしそうにくつくつ笑い出した。
「ただじゃおかないって、なにもできねえくせにほざいてんじゃねえよ。ほら、お前はそこに正座でもして俺が勝つ姿を眺めとけって」
そう言って泰明の肩を叩き、すれ違いざまにささやかれる。
「さーて、あかりとどこに行こうかなぁ。葉月にいろいろ聞いとかないとなぁ」
「………………」
この狐は加加姫の眷属になったため護りがある。
実際、九摩留が屋敷にきた当初は何度か呪詛を仕掛けてみたが失敗に終わっていた。霊的な防御だから霊的な攻撃には強いのかもしれない。
では物理的にはどうだろうか。
「ちょっと試してみようか」
「は? なにを――ぉぁあああ!?」
泰明が肩にかけられた手を取り素早く後ろに捻じりあげる。
相手の態勢が崩れた隙にその背中を肩口で床に叩きつけ、即座にうつ伏せに抑え込んだ。
「んな……ッ、離しやがれこの野郎!」
一瞬の出来事にあっけにとられていた九摩留が暴れだすが、暴れるほどおかしな角度に曲げられた腕がひどく痛む。おまけに背中に成人男性を載せているせいで思うように動けない。
青年は無表情のまま後ろ手にした男の人差し指をつまみ上げる。
とりあえず一本、そう思いながら力を加えようとした時だった。
「――――ッ」
ザワ、と全身が総毛立ち反射的に九摩留から距離を取る。
「危なかったな。あとちょっとで綺麗な顔に火傷ができたぞ」
いつの間にか板間の縁に腰掛けて足をぷらぷらさせていた少女が愉快そうに教えてくれる。
「……やっぱり駄目なんですね」
「ああ駄目だ。こればっかりはな。諦めよ」
「泰明テメェ! いきなりなにしやがる!」
解放された九摩留が泰明の胸倉を掴むが、野菜を取って戻ってきたあかりがそれを見てまなじりをつり上げる。
「九摩留! 泰明さんになにしてるの!」
「だってあかり! こいつ今俺のこと――」
「僕はなにもしてないよ。見ていた姫様ならわかりますよね?」
「クカカッ。ああ、なにもできなかったな」
「九摩留、早くその手を放しなさい。さっさと勝負して晩御飯作らなきゃなんだから」
「ぐ……っ。泰明、テメェはいつか必ずボコる! 絶対泣かす!」
「あはは。いいね、楽しみにしてるよ」
眼光鋭く睨みつける九摩留に対して泰明は薄く笑ってみせるのだった。




