52.青年の不安
今回は三人称です!
屋敷の塀沿いに自転車を停めた青年は口元に小さな笑みを浮かべた。
いつもなら青白い月明かりに黒く浮かぶ屋敷が、今日は玄関周辺が橙色に明るく照らしだされている。
どうやら無事屋敷にも電気が通ったらしい。
電球の小さな明かりがあるだけで結構ほっとするものなんだなと思い、そう思えた自分にまたほっとした。
昼間はそうでもなかったのに夜から風が出てきて耳を切りそうなほど寒い。
しかし泰明はすぐには屋敷に向かわず、外灯を見つめたままぼんやり立ちつくす。
加加姫や九摩留と会うのは当然一週間ぶりだが、あかりと会うのもほぼ一週間ぶりだった。
というのも医院で彼女と別れたあと、そこから泰明はあかりと会うことができなかったからだ。
理由は単純で、実家から加加姫のおこもりが終わるまではあかりに会うことも近づくことも禁止されたからである。
叔父は自分が彼女にしようとしたことは誰にも言わないと言っていたが、それはそれとしてあかりを本家に送り届ける前、医院に足止めしていたのは自分であると電話したはず。
戻った彼女のセーターがびろびろに伸びているのを見れば家族たちにもおおむね察しがつくというものだろう。
いつもあかりにべったりのお邪魔虫二人がいない最高の一週間になるはずが、逆に毎晩の夕食さえ共にできない最低の一週間になってしまった。
ようやく自分を意識してくれるようになった彼女と距離を縮める絶好のチャンスだったのに、唯一できたことは医院での短い逢瀬だけ。
彼女との会話を思い出して、泰明はそっと白い息を吐いた。
(僕の言ったこと、少しは考えてくれたかな)
はじめて聞けた彼女の本心は青年が予想していた通りのものだった。
信念に近いそれを簡単にどうにかできるとは思っていない。それでも、少しでも早く意識を変えてほしかった。
そこを変えない限り、彼女が自分との未来を考えてくれるなんて万に一つもないだろうから。
(残りあと十一カ月かぁ……)
泰明の今年の抱負は年内にあかりと結婚すること。
そのためにも彼女にはどうにか劣等感を払拭してもらいたいが、こちらの声を聞き入れてもらえたかはわからない。
というか、そのあとの出来事のせいで話したことが忘れられていなければいいが。
泰明は手袋をはめた右手を軽く握り、夢見る少年のような顔になった。
あかりの髪や手、そして頬の柔らかい感触がよみがえって、胸の奥がくすぐったい。
ハリのある綺麗な黒茶の髪はサラサラして気持ちよく、ずっと触っていたかった。
水仕事で荒れてしまった手は華奢で健気で、撫でるほどに愛おしさがあふれた。
目と鼻の先で上向かせた顔はほんのり赤く染まって色香がただよい、あやうくその唇を奪うところだった。ぎりぎりで理性を働かせたものの、この先数年分の自制心を使い切った気がする。
(やっぱり二人きりのときに触ると危ないな。気をつけないと)
頭ではそうわかっているものの、でもやっぱり触りたくて仕方がないのだ。
あれこれ理由をつけていざ触れることが叶えば、もうちょっとだけ、あと少しだけと欲が出て際限がなくなっていく。
年頃の男であれば、それは健全な欲望といえるだろう。
ただ泰明の場合、それ以外の欲まであふれそうになるのが問題だった。
彼女を独り占めしたい。
自分以外の奴が彼女を見るなんて、話しかけるなんて我慢できない。
それに彼女には自分だけを見て、自分だけと話をしてほしい。
孤立させて、選択肢を奪って、自分だけが唯一の相手なのだと思わせたい。
彼女の手足を断ち落としてその身を支配したい。
どうあがいても逃げられないように、その命の手綱さえ自分が握りたい。
自分だけを愛し、自分だけに依存し、そうして寿命の尽きるその日まで片時も離れずにずっと一緒にいてほしい。
その身勝手で歪な願いはいつも心の奥深いところで黒々と塒を巻き、隙あらば理性を呑み込もうとこちらをうかがっている。
それこそ幼い頃は底なしの欲に呑まれて――幸い加加姫や先代世話役、父親の警戒により死人こそ出なかったものの、結果的に怪我人病人を出す始末。
医師を目指したのも、理由は数あれどそのすべてにあかりが絡んでいる。どれもが短絡的で不純な理由だ。
泰明は屋敷にともる明かりから目をそらし、足元を見つめた。
本当は自分が一番よくわかっている。
こんな自分は彼女にふさわしくないのだと。
それでも、じゃあ諦められるかと己に問えば、答えは「いいえ」以外出てこない。
可能性がゼロでない限り、いやゼロであったとしても、自分から身を引くことは絶対にしたくないのだ。
(ちゃんと、変わらないと)
なによりも欲しいのはあかりの心。
それを手に入れるには自分自身が思いやりと慈しみの心を持って、大事な人から大事に思ってもらえるような人間にならなければならない。
そう、普通の人間にならなければならないのだ。
彼女も自分を好きになってくれた今、この好機を逃すわけにはいかない。
(ああ、でも、好きをやめるつもりなんだっけ……)
青年の目が急にどんよりと澱み、死んだ魚のそれになった。
彼女の「好きをやめます」という爆弾発言。
どの時点でそうなったのかはわからないが、それで腑に落ちることもあった。
屋敷で過ごすとき、さりげなく彼女に触れてはその反応を見ていたが、ちょっと指が触れただけでも飛び上がったり面白いくらい赤面していたのが収まっていたのだ。
少しは慣れてくれたのだと思い、もうちょっとだけ踏み込んでみようかと考えていた呑気な自分を殴りたい。
それに、彼女の言葉にうっかり焚きつけられて無理やり裸に剥こうとした自分が許せない。
あの時自分はなにをしようとしたのか。いや、そんなの答えはわかりきっているわけだが。
冷静になればなるほど、壁に頭を打ちつけたくなる。
(あーもうほんとやだ。僕ってどうして肝心なところで……もう全部台無しだ)
医院ではかなり強引に服を脱がせようとしたのだから軽蔑されているかもしれないし、なんなら嫌われていたっておかしくない。彼女のセーターだって駄目にしてしまった。
一応新しいセーターを市街のデパートで買ってきたものの、それも受け取ってもらえるかどうか。
泰明は手に下げた紙袋の中身に目をやってため息をついた。
が、おもむろに両頬をバチンと叩き、自分に喝を入れなおす。
とにかく自分が今やるべきは彼女にまた意識してもらうこと。
最近まで異性として好いてくれたのだし、まだ巻き返しも図れるだろう。
反省は大事だがそれで落ち込むのは時間の無駄だ。やってしまったことは仕方がないのだから、あとはもう挽回に向けて前進するしかない。
(あかり、怒ってるかな。怯えてるかな。それとも……また少しは意識してもらえたかな)
彼女が自分を見た時にどう反応するか。それが楽しみでもあり怖くもある。
泰明はようやく足を動かすと玄関の引き戸を開けた。




