46.殻にヒビ
「や、泰明さんっ?」
突然のことに頭が混乱する。
慌ててセーターを引き下げようと奮闘するけど、バンザイをしたせいで裾が脇のあたりまでまくられてしまい手を使うこともできない。
仕方なく顔をあちこちにぐりぐり動かして、なんとか襟元から頭を出すことができた。
「ぷぁっ。もう、いきなりなにす…………」
抗議しようとした口が勝手に閉じる。
うかつに声をかけられない空気が相手から漂っていた。
「なにって、診察」
暗い目をした青年はぶっきらぼうに言いながらわたしの頭上で手を動かしている。
気づいたときにはセーターの裾が頭上で風呂敷包みのごとく縛られていた。
「診察って、な――」
ブラウスの一番上のボタンに彼の手がかかり、ぶわっと全身の毛が逆立った。
「待ってください! 診察は大丈夫ですって! なにも問題はないんですってば!」
手が出せないのでセーターの中から肘で彼の頭をぐぐっと抑える。
すると今度はセーター越しに両手を一括りにして後ろの壁に押さえこまれてしまう。
「あかりは面白いよね。ほんとは全部わかってて僕のこと試してるんじゃないかって思うときがあるもん。ねぇ、あんまりひどいと僕も仕返ししたくなっちゃうよ?」
「なに言って……待って、ほんとにやめてください、診察なんていいですから! わたしはめちゃくちゃ元気ですから!」
「あはは、そんなの信用できないな。大事な家族の健康だもの、とりあえず胸の音を聴いてみて……他にも問題ないか、全部、きっちり、確認していこうね」
ボタンが二つ、三つと外されて、わずかに開いた前身ごろから肌着がのぞく。
泰明さんの指が肌着の袷部分をなぞった。
今日の肌着はブラウスのように前開きでボタンが並んでいる。外すには少し時間がかかるだろうし、今のうちに診察を回避しなければならない。
百歩譲って診察を受けることになったとしても、今日だけはどうしてもだめなのだ。
このままだと何年か前に作ったボロボロのみっともないブラジャーを見られてしまう。
それだけは絶対に嫌だ。なんなら素肌を見られるよりずっと嫌だ。
というかよりにもよってどうして今日はこのブラジャーをつけてしまったのか。
こんなことになるなら葉月ちゃんにもらった綺麗なやつをつけてくるんだった。
「泰明さん! わたしもう時間がないので今すぐ帰らないとなんです朝食の時間に間にあわなびゃあああああ!! だめですだめですだめ――」
「おーい泰明ー。なんかにぎやかだけど誰か来てるのかー?」
扉の開く音が聞こえたかと思うと仕切りの壁からボサボサ頭の眠たそうな目をした男性がひょいと顔をのぞかせる。
それは泰明さんの叔父さん――倉橋医院の院長先生だった。
彼がわたしに顔を向けた瞬間、その目がカッと見開かれる。
すぐに鬼のような形相で駆け寄ってくると泰明さんの頭に拳骨を落とした。
ゴッという鈍い音に思わず首をすくめる。
「お前! なにやってんだこの馬鹿!」
「なにって診察ですけど」
泰明さんは頭を殴られても顔色一つ変えず、きょとんとしたように浴衣姿の院長先生を見上げた。
院長先生はそんな彼の首に腕を巻きつけて後ろにずるずる引きずっていく。
わたしはその隙にセーターの裾をほどこうと躍起になった。
「患者を壁に追い詰めて診察とか聞いたことないわ! 本職がお医者さんごっこをしてんじゃないよ馬鹿たれッ。一応聞くがこれは未遂なんだな? まだやらかしてないんだな?」
「やらかすもなにも。あかりの手に軟膏をつけて、あとは少し心音を確認しようと思っただけです。どうやら熱がありそうだったので」
「熱ってお前」
院長先生がわたしをちらりと見る。
「……この子は本当に熱があってうちに来たわけじゃないんだろ? 彼女の無垢につけこんで自分を正当化するなたわけめ。紳士の風上にも置けん奴」
忌々しそうな声とともに泰明さんの首に巻きついた腕がギリギリ締まっていく。
泰明さんはすました顔で院長先生の腕を叩いた。
「叔父さん落ち着いてください。僕は彼女におかしな真似はしないと加加姫様にも誓いを立てています。もしこれが叔父さんの考えているようなことだったら、僕は今頃神罰が下って無事ではないと思います。つまり無事ということはあの方がこれを正しく医療行為だと認めてくださっているわけで――」
「加加姫様はお前に甘いだろうが! 判定ガバなんだよドアホ! もういい、このことは誰にも言わないからお前はもう出ていけ」
院長先生が彼を入口のほうへ引きずっていく。
「あかりちゃんは俺が責任もって本家に帰す。お前じゃまたどこかで悪戯しかねないからな」
「悪戯じゃないのに」
「いいからお前は早くあっち行け。しっしっ!」
二人の姿が見えなくなったあと、少しして足音が診察室から遠ざかっていく。
「あいつはまったく、とんでもないな」
院長先生はため息をつきながら戻ってくると、何度も謝罪しながらわたしのセーターの結び目をほどいてくれたのだった。
「ごめんねーあかりちゃん。ほんとに大丈夫だったかい?」
背広に着替えた院長先生が、こっちの方が早いからと自動車で本家まで送ってくれることになった。
助手席に乗ると彼はエンジンをかけつつこちらをすまなそうに見てくる。
その髪は梳られているもののいつものように固めてはいなくて、こちらこそ急な支度をさせたことに申し訳なくなる。
セーターはすっかり伸びてしまって大丈夫とは言い難かったけど、毛糸にほどいて編み直せば問題ない。
「はい、大丈夫です。こちらこそお騒がせしてすみませんでした」
「なーに、あかりちゃんが謝るようなことはなにもないさ。しっかしあいつ、あんな強引な奴だったかな……。ま、いざとなったら俺がチョンと去勢してやるか」
わはははは! と豪快に笑う院長先生に、わたしは引きつった笑いしか返せなかった。
車窓を流れる景色に目を移し、小さくため息をつく。
「電話で本家には事情を話してあるから、多分怒られたりはしないと思うよ。だからそんなに落ち込まないで、元気出しな」
「あ、えっと、違うんです。これは……」
さすがに泰明さんとのやり取りを言うのははばかられて口ごもる。
試すとか、仕返しとか。
泰明さんに言われた言葉がぐるぐる頭を駆け巡る。
もしかしたら、わたしは知らないうちに泰明さんになにか酷いことをしていたのだろうか。
もしそうだとしたらどうしよう。一体わたしはなにをしたんだろう。
どうしたら許してもらえる?
もし嫌われたら、わたしは――。
「……ちゃん、あかりちゃん」
「へ!? あっ、すみません。ちょっとぼんやりしていました。なんでしょうか?」
「あかりちゃんはさぁ。泰明のこと、好きかい?」
ぎょっと隣を見ると、院長先生は口元に笑みを浮かべて運転している。
「あ――兄的な存在として……好き? です」
ぎこちなく答えると、院長先生は笑みを深くした。
「ふぅん。男としては好きじゃない?」
「それは……どういう意味ですか?」
「どういう意味だと思う?」
こちらににっこり笑いかける顔はちょっとだけ泰明さんに似ていた。
「わたしは、そんなふうに見たら、だめなので……」
「へぇ。なんで?」
「それは……」
その資格がないから。一言で言えばそれに尽きる。
それに泰明さんがわたしを好きになることはないのだから、自分が傷つかないためにも好きにならないほうがいい。
……実際にはまだ好きだったとしても。
「なるほどね、あいつがイラつくのもわかるわ。ちょっとだけ同情するよ」
その言葉はスパッと胸を切る包丁のようで、あまりの切れ味のよさに痛みよりも驚きの方が大きかった。
「わ、わたし、イライラさせてます?」
「うん」
「なんで……ですか? 教えてください、お願いしますッ」
「例えばさ、あかりちゃんは加加姫様のことが大好きで、でもって彼女もあかりちゃんのことが大好きじゃない。でも加加姫様は、自分は人間じゃないし……それどころか魔性のものでもあるからってあかりちゃんに及び腰になっているとしよう。そして加加姫様はあかりちゃんを好きにならないよう努力していたとしよう。どう思う?」
言われたことを想像してみる。
想像して、血が沸騰するかと思った。
「そんな努力、絶対にしてほしくないです。わたしは姫様が人間じゃないことも魔性のものだということも承知の上です。それでなにかあろうとも、わたしは後悔しないし嫌いにもならないです。わたしがどれだけ姫様のことを好きだと思ってるんですか」
硬い声は思いのほか低くなってしまった。
これはいけない、と深呼吸を何度かして自分の気持ちを落ち着ける。
それでもこれだけは言いたくて、わたしは前を見すえたままつぶやいた。
「わたしの『好き』を見くびらないでください」
我が裔を見くびるでないぞ――。
少女の鈴の音のような声が聞こえた気がして、ハッとした。
と同時に隣で愉快そうな笑い声があがる。
「ね、イライラするでしょ? あーよかったそう思ってくれて。じゃあ今の話、あかりちゃんを泰明に、加加姫様をあかりちゃんに変換してごらん」
変換してごらん、と言われて目が点になる。
それとこれとは話が違う、と思うのだけど。
「………………いや、それは、だってそれじゃあまるで……そんなわけが」
「さて、おじさんのお節介はここまでにしておきましょう。外野が教えるのは野暮だもんね。あ、もう遅いってか? だははははは! はい、着いたよー」
自動車が本家の門の前に到着する。
でもわたしは呆然と座っているしかできなかった。
「はっはっは。悩め悩め若人よ。青春は悩んで苦しんでみっともなくもがいて、でもだからこそ人生のなんたるかを知るのだ。そしてそれを乗り越えた人間はみな研磨されて美しさを増すのだよ」
院長先生が自動車を降り、助手席のドアを開けてくれる。
わたしは震える息を吐くとゆっくりと地面に足を下ろした。手を借りて外に出ると、向かいあった院長先生を見上げる形になる。
村の誰よりも背の高い院長先生は、いつものひょうきんな笑みを消すとわたしの肩に手を載せた。
「ところで、泰明は倉橋医院の後継者でもある。だから俺も今回の見合いには反対だ。話を聞く限りどうしたって向こうに婿入りになるからな。うちの馬鹿息子にはもう期待のしようがないし、ここで泰明を取られるわけにはいかないんだよ」
院長先生の一人息子である真人さんは東京で落語家をしている。
もともと医院の後継ぎになるべく英才教育を受けていたのが、あるとき勝手に落語家さんに弟子入りしてしまったのだそうだ。
二人は戦後に和解したけど、その当時はとんでもない大騒動ののちずっと絶縁状態にあったと聞いている。
「みんなの噂になってるけど、あかりちゃんはこの見合いに反対なんだろ? おじさんも応援してるから、どうか頑張って兄貴をやっつけてくれ」
院長先生は笑いながらわたしの肩をぽんぽん叩くと、颯爽と自動車に乗り込んだ。
「それじゃ、さようなら。今度はうちに飯食いにおいで。待ってるよ」
土煙をあげて走り去る自動車を見ながら、わたしは気を引き締める。
そうだ、倉橋様は今夜戻って来る。
なんとかしてお見合いの中止を検討してもらわなければならない。
――診察室でのことや院長先生の例え話はいったん、無理やりにでも脇に置いておく。
わたしは本家の大きな門を見上げると、足を前に進めた。




