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巫女さんの昭和古民家なつかし暮らし ~里山歳時記恋愛譚~  作者: さけおみ肴


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45.これは医療行為です

「じゃあ今度は左手ね」


 わたしのもう片方の手を取った泰明さんが座ったまま少し距離を詰めてきた。

 なんとなくその分距離を取ると、今度はそれ以上に近寄られてしまう。

 自然とわたしは診察台の端――部屋の角に追いやられて、それ以上移動できなくなってしまった。


「あの」

「ん?」

「いつも患者さんとこんなに距離が近いんですか?」

「まさか。そんなわけないよ」


 泰明さんはわたしと膝が触れあっているのを気にした様子もなく、丁寧に軟膏を塗っている。


「だってあかりは僕の大事な……未来の家族だからね。家族なら他人より距離が近いのは当たり前。おかしなことじゃないよ」


 未来の家族――なんて甘やかで幸せな響きなんだろう。

 そうなんだ、泰明さんはわたしのことをもう家族のように思ってくれてるんだ……。

 思わず胸がいっぱいになるけど、でもそこでもう一人の冷静な自分が待ったをかける。


「でも泰明さんは、その、ゆくゆくは姫様の……夫になるわけですよね? あまりわたしと距離が近いと、ちょっと、どうなのかなーというかなんというか」


 泰明さんは姫様と夫婦になりたいと思っているのだから、姫様以外の女性とあまり至近距離で接するのはいかがなものか。

 それに家族であっても若い男女が不用意に触れあうのはよろしくないと九摩留にも日ごろから注意している。

 今の状況を彼に見られたら間違いなく怒られてしまうだろう。


「だって今は治療中だし、こればっかりはね。それに話はちょっと変わるけど」


 泰明さんは顔をあげると、どこか遠くを見るような目になった。


「この前の宴で、姫様は今でも泰治様を心底愛しているんだってよくわかったんだよね。他の男なんかこれっぽっちも興味がなさそうというか。だから、ね? まずは姫様と仲の良いあかりが僕ととっても仲良しなんだってわかったら、姫様も僕に興味持ってくれるんじゃないかなって思ったんだ」

「あー……。なるほど、それは確かに一理あるかもですね」


 この前の宴では夜が深まるほどに姫様の惚気のろけが炸裂し、立ち上がって身振り手振りの大演説のあと、最終的には夜明けの里に向かって泣きながら「泰治好きだ―! 愛してるぞー!」と叫ぶほどだった。

 あれを見たら心がバキボキに折れそうなものを、めげずに別の攻略方法を考えられる泰明さんはとてもすごいし偉い。


「それともあかりは、僕が正式に屋敷の一員にならない限り……家族だって認めてくれない?」


 彼の寂しそうな笑みに、わたしは慌てて首を横に振った。


「まさかそんな! 泰明さんは家族です。少なくともわたしはそう思っています」

「ありがとう、そう言ってもらえてすごく嬉しいな。あ、頬も少しだけ乾燥してるね。こっちにも塗っておこうか」


 左手を離れた大きな両手がわたしの頬を包む。

 そのまま軽く上向かせるように顔を固定されて、わたしの身体も固まった。

 親指の腹が頬骨のあたりでくるくる円を描いているけど、さすがにこれは……この体勢はまずいのではないだろうか。

 それに近い。近すぎる。


「あ、あの、やっぱりちょっと距離が……」


 顔があまりにも近くて、視界には彼の目のあたりしか入ってこない。

 濡れ光るような黒曜石の瞳の、なんと綺麗なことか。


「普段はなにかつけてるの?」

「あ、朝晩はへちま水をつけてます。泰明さん、だからあの、ちょ、近」

「へちま水か。うん、それでも全然だめじゃないけど、冬は少し保湿もした方がいいかもしれないね。今塗ってるのは手とか顔にも使えるやつだから、あとで少し分けてあげる」


 ささやくような声で語られるのはお肌のアドバイス。

 滔々と話を続ける彼に対して、取り乱しているのは自分だけなのだと気づく。相手の普段と変わらない様子にちょっと落ち着きを取り戻した。


 そうだ。変に意識する方がどうかしているんだ。

 泰明さんは至極真っ当に診察や手当てをしてくれているだけなのに、不純なことをしているように考えてしまう自分はおかしいのかもしれない。

 ……もしかしてこれが欲求不満というものだろうか。


「顔が赤いね。熱でもあるのかな」

「んっ」


 急におでことおでこをくっつけられて、反射的に目をつぶった。

 数秒後にはおでこから微かな熱が離れたけど、まだ目と鼻の先に気配を感じて瞼を上げることができない。


「ぴ!?」


 ふいに首筋に指が触れて変な声が出てしまう。

 瞼を上げそうになるのをぐっとこらえて、緊張と恥ずかしさに声を殺す。でも心の中ではワーワーギャーギャー大騒ぎだ。

 硬直したままでいると、ややして気配が離れていった。


「ちょっとだけ微熱かな。脈も速いし。ちょっと待ってて」


 ようやく目が開けられるようになると、泰明さんはそばにある机の引き出しからなにかを取りだすところだった。どっと疲れが押し寄せて思わず壁にもたれかかる。

 安堵したのはほんの一瞬だった。

 泰明さんが再びわたしの真横に腰を下ろす。首には銀管から黒いゴムチューブらしきものが伸びる器具をかけていた。


「じゃあ胸の音聞くから、上の服脱いでくれる?」

「は……え!?」

「念のため診るだけだから安心して。自分で脱がないなら僕が脱がしてあげるけど、どっちがいい?」


 淡々ととんでもないことを言う彼に、わたしは慌てて後ろの壁に張りついた。


「ちょ、ちょっと待ってください! これはあの違うんです、どこも具合は悪くないですし別に風邪とか引いてるわけじゃなくてですね、熱もないしあってもたまたまというかだから」

「具合が悪いわけじゃないの? じゃあなんだろう。恋煩いにでもかかってるとか?」

「こっ!」


 思わず絶句する。

 泰明さんはなぜかくすくす楽しそうに笑っているけど、わたしは顔が引きつってしまう。

 なんでそれを――まさかバレてるとか? え、姫様どころか本人にまで?

 どっと変な汗が噴き出すけど、でもそれはすぐに杞憂だとわかった。


「もしかして当たり? わぁ、本当に? ねぇねぇそれってどんな人?」


 泰明さんは、それはそれは無邪気に目を輝かせて身を乗り出してくる。

 どうやら自分がその本人であるとは気づいていないらしい。

 後ろから光が差してるんじゃないかと錯覚しそうなほどキラキラワクワクしている様子に、意外にもひとの恋話が好きなんだなぁと新しい一面を見た気がした。

 これなら、なにか言っても大丈夫かもしれない。


「ええと、その人は……いつもにこにこしてて、物腰が柔らかくて。とっても優しいんです。一緒にいると胸の奥があったかくなって……冬のひだまりにいるみたいなんです」

「うんうん」

「それに手足がすらりと長くて色白で、ハッと目を引くような美貌というか。涼し気で端正なお顔なんですけど、でもいつもにこにこしているから冷たい感じはしなくって」

「それでそれで?」


 意気込んで先を促す姿は好きな人の話に盛り上がる同級生の女の子たちにも似てほほえましい。


「声をあげて笑うときは幼い感じもして、最近では小さな子どもみたいに見えるときもあって。そこがまた胸をくすぐられるというか、かわいくて素敵なんです」

「へー、そっかぁ」

「一緒にお喋りしてると楽しくて、喋ってなくてもそばにいるだけで嬉しくて。……離れてるときは、今頃なにしてるのかなぁって。つい気になっちゃうんですよね」


 彼は口元を両手で隠すとぶんぶんうなずいた。


「わかる……すごくわかる」


 わかる、の一言で胸がずくりと痛んだ。


「でも、今ではその人に好きな人がいるってわかったので。今はわたし、その人の恋を応援してるんです。この気持ちも……早く収めないとって」

「……………………うん? 収める?」


 泰明さんの動きがぴたっと止まる。


「だって、好きなままでいたら思い切り応援できないじゃないですか。それにこのままじゃ――自分も辛くなるだけですから」


 へらりと笑ったつもりでも、うまくいっていないのが自分でわかる。

 目の前の青年から表情が消えた。

 さっきまでの華やかな空気が一瞬で無になっている。


「そんな顔しないでください。その人の恋がうまくいったら、わたしにもいいことがあるんです。別の形で近くにいられるとは思うので、それだけでもう十分幸せというかお腹いっぱいというか」


 そこで区切ると、わたしはお腹に力を込めてその言葉を宣言した。


「だから頑張って、好きをやめます」


 あの宴で泰明さんの告白を聞いて以来、だいぶ気持ちに折りあいをつけられるようになったけど、それでも毎日自分に言い聞かせている。

 おかげで最近ではすぐそばに彼がいても、多少触れることがあっても、過剰に反応することはなくなった。

 さすがに今みたいに目と鼻の先にいられると動悸がすごいけど、もっと時間が経てばそれも落ち着いてくれると思う。


「……なんで? なんでそんなこと言うの?」


 止まっていた時間が動くように、泰明さんの顔にも表情が戻ってくる。

 それは先ほどまでとはまるで違う――ひどく傷ついたような表情だった。


「ねぇ。あかりの好きってその程度なの? 頑張ったら好きじゃなくなるの? 自分の意志でどうにかできるものなの?」

「それは……」

「僕は違う。全然相手にしてもらえてないってわかってても、たくさん我慢しなきゃいけないことがあっても、好きをやめようと思ったことは一度もなかった。やめられるようなものじゃなかったから。好きだから、絶対手に入れたいと思ったから、どうすればいいかをいつも考えてる」


 泰明さんは言葉を切ると、ゆっくり息を吸い込んだ。


「あのね、人の恋路を応援するのはいいことだと思うよ。でも応援してもうまくいくとは限らないんだから。そうなったらあかりにだって――」


 わたしは首を振って否定する。


「いいんです。それに、この方がいいんです」


 わたしは一生を姫様に、そしてその伴侶となるであろう目の前の人に捧げるつもりだ。

 家族としての愛情はおおいに抱いても、女としての愛情は抱かない。

 そもそも大事な主の夫君に恋慕するなど絶対にあってはならない。


「君って子はほんとに……」


 泰明さんはずっと眉間に手を当てたまま黙り込んでいたけど、やがて深い深いため息をついた。

 多くを語らずともこちらの言いたいことをわかってくれたらしい。

 こちらを向いた顔にはどこか吹っ切れたような笑みが浮かんでいた。


「いいよ、わかった。あかりのしたいようにすればいいよ。僕もしたいようにするから」

「泰明さんならきっとうまくいきます。わたしも今、姫様に泰明さんをうんと宣伝してますから。屋敷に来る方にはわたしがお見合い反対であることを伝えていますし」

「わーそっかーありがとう。それじゃあかり、はいっバンザイ!!」

「!?」


 突然の号令とともに泰明さんが両腕を高く上げ、わたしもつられて両腕を上げてしまう。それとほぼ同時に視界が遮られた。

 セーターの裾が首の上までまくられたのだとわかるまで、わたしはただぽかんと口を開けるしかなかった。


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