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巫女さんの昭和古民家なつかし暮らし ~里山歳時記恋愛譚~  作者: さけおみ肴


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44.あかぎれと手当て

「じゃ、本題ね。手を出して」

「え?」


 泰明さんは診察台の足側に腰を下ろすと、白衣のポケットから小さな容器を取り出した。

 指ですくい取られた中身は白色でやや硬そうな見た目をしている。どうやら軟膏のようだ。


「あかり、手が荒れちゃってるでしょ。これつけてあげるね。どっちの手からでもいいよ」

「あ……」


 彼の思惑がわかって、わたしは反射的に両手を後ろに隠した。

 もはや当たり前すぎて気にもとめなかったけど、わたしの手は毎日の水仕事ですっかりガサガサに荒れていた。


 一応屋敷にも保湿用の軟膏はあるけど、四六時中水を扱うのでついつい塗り忘れてしまうことが多い。

 ぬか床を毎日手入れしているときはいつも手はしっとりすべすべだけど、冬はぬか床を休ませているのでどうしても荒れやすくなってしまう。

 もう少しすればひび割れやあかぎれがひどくなって、皮膚の色ももっと変色してくるだろう。


 つまり、あまり人様にお見せしたい手ではない。

 しかも好き……だった人には、特に。


「ありがとうございます。じゃあ、その軟膏少しいただけますか? 自分で塗るので――」

「それはダメ。ほら、僕も医者の端くれだし、ちゃんと観察したいんだ。状態によっては違う軟膏の方がいいかもしれないでしょ? きちんと診るためにも、僕にやらせて」


 笑顔でそう言われてしまうと、素人のわたしには抵抗する術がない。


「う……。それじゃあ、すみませんが、よろしくお願いします」


 そろりと右手を出すと、彼はうやうやしく手のひらに載せてじっと見つめ、小さくうなずいた。

 長い指がわたしの手の甲に軽く触れてゆっくりと滑っていく。

 ガサガサで少し赤紫になっていた手はやがて指の先まで白く塗りつぶされて、それは泰明さんの手の白さがわたしの手に移ったかのようだった。


 嬉しいような悲しいような、そんななんとも複雑な気持ちになって、自分でも困惑してしまう。


「あ、はは。もっとちゃんと気をつけなきゃいけないのに、ついつい手入れするのを忘れちゃって。わたしったらほんとずぼらですよね」


 なんだか黙っていられなくて思ったことを口にすると、泰明さんは静かに首を振った。


「そんなことないよ。それだけ毎日忙しくて大変ってことじゃない」

「でも、こんな手……醜いですよね」


 醜いのはそれだけじゃない。

 横一文字に走る、ふくらはぎの傷。

 罪人の証といわんばかりの背中の焼印。


 ふくらはぎの傷はすっかり薄くなったものの、焼印の痕は二十年ほど経った今でも血のような赤で線を描き自己主張している。


 こんな傷をわざわざつけた上で山に捨てたのは、わたしの存在自体が醜い――忌まわしいものだったからかもしれない。

 ぐっと喉の奥が詰まる感覚がして、わたしは慌ててそれを飲み下した。


「あかりはさ。お母さんの手、嫌いだった?」


 思わず顔を上げると、泰明さんはすっかり白くなったわたしの手に目を落としたまま、軽く力を込めてさすり始めた。

 すり込まれる軟膏がゆっくりと皮膚になじんで半透明になっていく。


「お母さんの手だって、いつも冬は手荒れしてたんじゃないかな。醜いなって思ってた?」

「そんなこと思ってません!」


 反射的に大きな声が出て、慌ててすみませんと続けた。


「お母さんの手は、みんなのために一生懸命働いてくれた手です」


 お母さんが床に伏せがちになってからは、わたしがすべての家事をするようになった。

 だからこそお母さんの大変さが、偉大さが身に沁みてわかる。


 もちろんお父さんもいろいろ手伝ってくれていたけど、世話役には姫様のお相手や野良仕事の手伝い、拝み屋の仕事に煎じ薬諸々の作成もあったから、やっぱりわたしたち家族の面倒を見てくれていたのはお母さんだという印象が強い。


「お母さんの手はいつもみんなの面倒を見てくれた優しい手なんです。……確かに、手荒れしているときは痛そうとかかわいそうと思ったことはありました。でも醜いなんて、そんな風に思ったことは一度もないです」

「そうだね、働き者の素敵な手だ。醜いわけがない。だから僕もこの手が大好き」


 大好き。

 泰明さんが、わたしを?

 あ、わたしじゃなくてわたしの手か。


「自分にも、お母さんと同じように思ってあげることはできない?」

「………………それ、は」


 泰明さんは手を止めると、わずかに身をかがめてわたしを見つめてきた。


「あかりは自分のことになると、途端に厳しくなるね。君はもっと自分を大事にしていいんだよ」


 わたしの右手が彼の両手に包み込まれる。

 握られた手が、温かい。


「君が自分に劣等感を持っているのは知ってるよ。そのせいで自分を大事に思えなくなってるのもわかる。でも僕はそれがすごく……」


 泰明さんはわたしの手に目を落とすと少し黙り、やがてぽつりとつぶやいた。


「寂しいんだろうな」


 シンとした診察室にその小さな声はとてもよく聞こえた。

 思いもよらない彼の言葉に、わたしはただ瞬きすることしかできなかった。

 目の前の青年は自分が言ったことに納得するようにうなずく。


「うん、そうだ。僕もみんなも君のことが好きなのに、君が君を好きになれないことがすごく寂しくて、悲しいんだ。僕のことは温かい場所へ連れ出してくれたのに、君は冷たい場所にいるだなんて……そんなの耐えられないよ」


 そこで彼はふっと笑みを浮かべた。


「そんなの許さないから」

「許さないって……そんな」


 ようやく声が出たけど、それ以上なにも言えなくなってしまった。

 そんな風に言ってもらえて嬉しいような、でも悲しいような。

 照れくさいような、後ろめたいような。


「ごめんね。僕はわがままだから、あかりにもあかり自身を認めてあげてほしい、大事にしてほしいって思うんだ。もしも自分を大事にすることに引け目があるのなら、どうかこんな風に考えてみて。君が自分を大事にすると喜んでくれる人もいるんだって」


 低くて柔らかな声が耳から胸に伝わって、言葉が熱を持ってじわりと広がる。

 心の中であきらめと悲観の声が聞こえてくるけど、でもそれはどこか遠くに感じられた。


「………………わたし、は」


 黙っているつもりが、気がつけば口を開いていた。


「自分を大事にしたくないわけじゃ、ないんです、多分。でもわたしは……わたしより大事にしたいものがあって」

「うん」

「姫様に拾ってもらえたから。お父さんお母さん、それに村の人たちによくしてもらえたから。だから恩返しがしたいんです。……ううん、そうじゃなくって。ええと、なんていうか」


 ずっと感覚として持っていたものを言葉にするのが難しくて、わたしは必死に頭を働かせた。


「恩返しとか、そうじゃなくて……みんながわたしを幸せにしてくれたから。わたしもみんなが幸せになれるようにしたいんです」


 ようやく言いたいことが言えた気がした。

 優しい人たちに囲まれて、平穏な毎日を過ごすことができて。

 わたしは今のままで十分幸せだと思っている。

 自分を大事に思えなくても――そして自分自身を好きになれなくても。

 わたしは幸せなのだ。


「だから、自分のことはいいんです。わたしは自分よりも周りの人を大事にしたいです。それって……おかしいですか?」


 今までずっと、漠然とそう思って生きてきた。ずっとこのままでいいと思っていた。

 なのに、どうしてだろう。

 彼の言葉はまるで優しい雨のようで、おかげで自分が渇ききっていたことに気づいてしまう。

 きっと、気づいてはいけなかったのに。


 耳元でどくどくと血の流れる音が聞こえる。

 急に足元が竦むような心細さにとらわれて、呼吸の仕方を忘れそうになった。

 ――ふいに右手をぎゅっと強く握られる。

 たったそれだけで、どこかぼんやりとしていた景色が再び鮮明になる。


「どうか誤解しないで。僕はあかりの生き方を否定しているわけじゃない」


 泰明さんはまっすぐにこちらを見つめてくる。

 その瞳には同情も憐れみもなく、乞い願うような真摯な色があった。


「でも今僕が言ったことは、時々考えてみてほしいんだ。君が自分を大事に思うことも、みんなの幸せになるってことを忘れないで。それでいつか、君が君を好きになってくれたら……僕はすごく嬉しい」


 泰明さんはふわりと顔をほころばせて柔らかく微笑む。

 春の陽射しのように穏やかで優しい笑みは、彼の心からの笑顔なのだとわかった。


 あぁ。

 本当に、なんていい人なんだろう。

 どこまでも優しくて思いやりがあって、こんな自分にもまっすぐに向き合ってくれて。

 胸の奥底が、火がついたように温かい。


「あっ。でもさ、あかりは僕を大事するから僕があかりを大事にするって話だったよね」


 ふいに彼はからりとした口調で言い、悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「へ?」

「ほら、七草の日の朝に話したでしょ。だから軟膏も、これから毎晩屋敷から帰るときに僕が塗ってあげるね。あーでもそのあとお風呂に入ったら落ちちゃうから――」


 彼は首を軽く傾けるとにっこり笑う。


「これからは毎晩泊まらせてもらって、あかりが寝る前にマッサージしながら塗ってあげる。手だけじゃなくて全身ね」

「っ……あ、の。それは」


 想像するだけで恥ずかしくなるようなことを平然と言わないでほしい。

 でも、そんな冗談のおかげでわたしもいつもの自分に戻れた気がする。


 胸のざわつきはまだ残っていて、そこだけが熱く、熾火のようにほの明るい。

 きっとわたしは、それから目をそらしてはいけないのだ。

 あとで言われたことをちゃんと考えてみよう……すごく大事なことだとわかるから。


「ありがとうございます。マッサージ、すごくいい考えだと思います」


 わたしの言葉に泰明さんが笑みを消した。


「え、いいの? 本当に?」

「はい! でもそれはわたしじゃなくて、ぜひ姫様にしてあげてください。きっとお二人がもっと親密になれると思います」


 そんなお姫様待遇は本物のお姫様にこそしてあげるべきだ。きっと二人の仲もいいものになるはずだし。

 泰明さんは口を開けたまましばしわたしの顔を見つめ、ふと視線をそらせた。


「…………ごめん、やっぱりやめておくよ。父親も怒り狂うだろうし」

「あ……そうですか。残念です」

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