43.倉橋医院にて
なにかが動く気配に意識が覚醒していく。
ぼんやり目を開けて身じろぎすると、枕や布団の感触に違和感を覚えた。
あれ? と思ったところで思い出す。そういえば昨夜から倉橋様のお宅に泊まらせてもらっているんだった。
目をこすりつつ身体を起こすと人影が近づいてくる。
「ごめん、起こしちゃったね。おはよ、あかり」
「んー……。おはよぅキミちゃん」
昨夜遅くまで一緒にお喋りしていた彼女は動きやすそうなワンピースに腰エプロンをつけてすっかり身支度を整えていた。
見れば横にあったはずの布団もすっかり片付いている。
「あたしはもう行くけど、あかりはゆっくり寝ててね。七時頃朝食の声がかかると思うから。あ、間違っても女中の真似事はしないようにね?」
「うん……」
あくびを噛み殺しつつ返事をすると、キミちゃんはわたしの頭をポンと優しく叩いて部屋を出ていった。
ここは台所や使用人部屋から離れているから人の足音や話し声はまるで聞こえない。でも遠くで人の動き回る気配が感じられて、家そのものが目を覚ましたかのようだった。
今の時間はいつもわたしが起きる五時頃かもしれない。
せっかくだし、お言葉に甘えてもうひと眠りしてしまおう。
二度寝の幸せににやけながら布団にもぐり込むけど、どうも目が覚めてしまったらしい。
お客様用布団はふかふかぬくぬくで気持ちがいいけど、何度寝返りを打っても眠気がやって来ることはなかった。
「もう起きようかなぁ」
つぶやいても、一人。
とはいえ起きても朝食がすむまではすることがない。
本当はわたしもキミちゃんと一緒に朝の仕事を手伝いたいけど、してはいけないこととして倉橋様と奥様から厳重注意を受けている。
いわく、世話役とは加加姫様のお世話をするのが仕事であり、屋敷に関わること以外で誰かの世話をしてはいけないとのこと。
つまり拝み屋と葉茶屋の仕事、それから田の神山の神たる姫様の代理として野良仕事をするのはいいけどそれ以外は基本しなくてよく、他の者の世話などもってのほかなのだそうだ。
ただし最近では世話役の現金収入源だった拝み屋が廃業したので、それに代わってお母さんがしていた洋裁の内職も世話役のわたしが引き継いでいた。
これがなかなか、なんならお父さんが受けていた拝み屋の依頼を上回るほど繁盛してしまっている。
持ってきた手仕事は姫様と九摩留の新しいマフラー作りだけど、今回は奥様から編み機をお借りする予定なので今するわけにもいかない。
借りた小説を読もうかと思うも、普段動き回っている時分に部屋に籠っているのはなんだか気が引ける。
「そうだ、お散歩しようかな」
これなら誰の邪魔もしないし気がまぎれるはず。
そうと決まれば、と身体を起こして布団をあげてしまう。
今日は徳利セーターではなくブラウスに若草色の丸襟セーターを着る。それ以外は昨日と同じ格好だ。
長襦袢を畳んで風呂敷に載せると、陶器の湯たんぽを持ってお客様用の洗面所に行き身支度を整える。散歩をするだけなので髪はまとめずに下ろしたままにしておいた。
普段は仕事の邪魔にならないように頭の上の方で縛ってしまうけど、冬場は下ろしておく方が耳元や首回りがあたたかくて快適だったりする。
「行ってきまーす……」
コートと真知子巻きにしたショールで防寒を徹底すると、わたしはこっそり部屋をあとにした。
無事に本家を抜け出して歩くこと三十分。
散歩途中で思いついた目的地に無事到着する。
板塀に囲まれたその建物は玄関先の赤い屋根つきポーチをはじめ板張りの外壁、二階と一階に等間隔に配置されたガラスの上げ下げ窓という、なんともおしゃれな洋風の造りをしていた。
カーテンが閉められた大きなガラス窓つきの玄関脇にはポーチの外灯に照らされて『倉橋醫院』と書かれた立派な看板が浮かびあがっている。
明かりがついているのはポーチだけじゃなかった。
もう誰か起きているのか、正面二階の左側の窓から明かりが漏れている。
泰明さんはいつも五時半に起きると言っていたから、もう目を覚ましているかもしれない。寝起きの彼を想像しようとしたけど、普段のきっちりした姿から思い浮かべるのはちょっと難しい。
その時だった。
暗がりからハトくらいの大きさの鳥が一羽、二階の窓辺に降り立った。
模様は暗くてわからないけど、照らし出された輪郭は丸っこい楕円形をしている。とても細長いくちばしが明かりを反射しながらカパッと開き、いきなりグワッグワッと鳴きはじめた。
声からしてヤマシギかもしれない。
そのヤマシギはしばらくグワッグワッと鳴いていたけど、ややして窓をくちばしで叩きはじめる。
なんとも野鳥らしくない行動に思わず見入っていると、ふいに二階の窓が開く。
ヤマシギはぱっと飛び去ってしまった。
「……泰明さん?」
逆光でわかりにくいけど、窓から軽く身を乗り出しているのは青年のようだった。
あちらもわたしの姿に気がついたようで驚いた気配が伝わってくる。
彼は窓に手をかけたまま動きを止め、次の瞬間音がしそうな勢いでいなくなってしまった。
なにか思う間もなく、すぐに医院の脇から泰明さんが小走りでやってくる。
「あかり! どうかした? なにかあった?」
綿入れ半纏に浴衣姿。素足には下駄。顔周りの髪はわずかに濡れて光っている。
しまった、朝の忙しいときに邪魔してしまったらしい。
「ご、ごめんなさい。驚かせてすみません。ちょっと散歩で通りがかっただけでして……」
本当は散歩の目的地にしていたわけだけど。
少しだけ誤魔化して答えると、泰明さんは安堵したように大きく息を吐いた。
「よかった、なにかあったのかと思った」
そう言うとふいに自分の恰好を見下ろして恥ずかしそうに笑う。
「見苦しい恰好でごめんね。おはようあかり」
「おはようございます、泰明さん。まぎらわしくて本当にすみません……。わたしはもう行くので、泰明さんも中に入ってお仕度を続けてください」
早く暖かい場所に入ってほしい。でないと風邪をひいてしまう。
でも彼はわたしをじっと見たまま動こうとしない。
「あかり、今急いでる?」
「いえ、特には。朝ごはんまで時間があったので、とりあえずあてもなく歩いている感じです」
「そっか。向こうも七時くらいに朝食だもんね。じゃあまだ時間はあるな」
ひとりごとのようにつぶやくと、泰明さんはにっこり笑ってきびすを返した。
「ちょっとだけ待っててくれる? すぐ戻るから」
そう言うとこちらの返事も待たずに医院の脇を抜けて行ってしまう。
待っている間、物凄く珍しい寝間着姿の泰明さんを思い返してはにやけていると、玄関のカーテンが引かれて扉が開いた。
「お待たせ。寒くさせちゃってごめんね、こっち入って」
白のワイシャツに黒いセーターとスラックスという姿に変わった泰明さんが現れ、こちらを手招きする。
いいのかなと思いつつも、足はすでに歩き出していた。
「叔父さんたち、まだ寝てるから静かにね」
「はい……お邪魔します」
ひそひそやり取りしながら中へ入ると、消毒液や薬品類の複雑な匂いに包まれる。
思えば院長先生――泰明さんの叔父さん一家の住居部分には来たことがあったけど、医院の中に入ったのはほとんど初めてと言っていいかもしれない。
というのも記憶がないくらい小さい頃に来たことはあるらしいのだけど、物心ついてからは健康で頑丈だったせいか一度も医院を訪ねることはなかったからだ。
ちょっとした体調不良や軽い傷くらいなら、お父さんがすぐにどうにかしてくれたというのもある。
玄関入ってすぐのたたきは石造りで、左の壁にアーチ型をした小窓があるのが珍しかった。
窓の上には受付と書かれた板がついている。ちょっと窓をのぞくと壁一面に天井近くまである棚が並んでいて、中には大量の瓶が所狭しと詰めこまれていた。
部屋中央の作業台には薬研や乳鉢、秤などが並び、受付だけでなく調剤作業もしているのだとわかる。
たたきから上がったところにはスリッパが端から端まで二列に並び、そこからまっすぐ長い廊下が伸びていた。
大人三人が横並びできそうなほど広さのある廊下になんだか小学校を思い出してしまう。
ふとショールを頭から被っていたことを思い出す。
慌ててそれを取ると、ぶはっと吹き出す声がした。
何事かと見れば、こちらを振り返った泰明さんがくつくつと愉快そうに笑っていた。
「あかり、髪が! すごいことになってる……!」
「み、見ないでくださいっ」
小声で会話しつつ急いで手櫛で髪を整えようとしたけど、効果はちっとも感じられない。
触れば触るほど静電気でケセランパサランのごとく髪の毛が四方八方に広がってしまう。
髪を結ぼうにも紐を置いてきてしまったのでどうすることもできず、わたしは仕方なくボサボサ頭のままスリッパに履き替えた。
泰明さんは廊下の左右に並ぶ扉のうち、玄関に近い右側の一つを開けて入っていく。
そこはどうやら診察室のようだった。
広い部屋の半分を仕切る板壁を境にしてそれぞれの空間に大きな机や棚、背もたれのない丸椅子、白いシーツと小さな四角い枕だけが載ったベッドが置かれている。
他にも器具や洗面器の載った支柱台などいろいろなものが備えつけられていた。
「そこの診察台に座ってて」
泰明さんはそう言うと窓の横にかかっていた白衣を取り、診察室から別の部屋へ続く扉を抜けて見えなくなってしまった。
パシャパシャと水音がするから手を洗っているのかもしれない。
診察台は――多分シーツのかけられたベッドのことだろう。
部屋の角に頭側がぴたりと収まった台に近づき、真ん中あたりへ腰を下ろす。
診察室に戻ってきた泰明さんは白衣を身に着けていた。
それは初めて見る彼のお医者様としての姿だった。
「ちょっとごめんね」
目の前にやってくると軽く腰をかがめて手を伸ばしてくる。
濡れた手に頭を撫でられて、あっと思ったときには髪の中まで手を差し込まれていた。
「今日は髪をおろしてるんだね」
「ぅ、は……い」
「いつものポニーテールも可愛いけど、下ろしてるともっと可愛いね。朝からいいもの見れたなぁ」
優しい手つきで髪を絡め取られては感触を確かめるようにゆっくりと指で梳き解かれていく。時々指が耳や首のあたりをかすめて、それがなんともこそばゆい。
意識しちゃダメ、と心の中で自分に渇を入れて、ともすれば過剰反応が出そうになるのをなんとかこらえる。
「うん、綿毛が落ち着いたね。フワフワがツヤツヤになった」
少しして泰明さんは満足そうに目を細めると、後ろにある洗面器で手を洗った。
「あ、ありがとうございます。お手数おかけしました」
自分でも髪を触ってみると、先ほどと違ってわずかに湿った髪がすとんと下に落ちているのがわかる。
よかった、髪は落ち着いた。
けど心は……困ったことに落ち着いているとは言い難かった。




