38.姫神様のおこもり
屋敷の正面から見て右側の敷地。
少女はみかんの木や物干し台、薪割り場を通り過ぎて納屋と生垣の間をとことこと歩いていく。
そうして敷地の角まで来ると、彼女はくるりとこちらを振り返った。
「では行ってくる。出かけるときはちゃんと戸締りするのだぞ?」
「はい。姫様も道中お気をつけて」
挨拶をすませると目の前の可愛らしい少女の輪郭がじわっとぼやけた。
瞬きひとつで加加姫様の姿が消え去る。
かわりに彼女の立っていた場所には――それはそれは大きな白蛇が鎌首をもたげて佇んでいた。
朝の日差しを受けて白い鱗の一枚一枚が金とも銀ともつかない輝きを帯び、神々しく煌めいている。
まばたき一つしない赤の瞳はひと抱えもありそうな宝玉のようで、どこまでも美しく澄んでいた。
背丈は頭から尻尾の先まで測れば、家屋よりずっと高くそびえる火の見櫓ほどもあるかもしれない。
華奢な少女姿のときとは打って変わってその胴回りも大樹のように太くなっている。
見るものすべてに膝をつかせ、畏怖と崇敬を一身に集める山の神。
妖しくも艶麗な蛇身の女神。
それが加加姫様だった。
「いってらっしゃいませ、姫様」
あらためていってらっしゃいを言うと、姫様の閉じた口先から二つに割れた舌がしゅるっとのぞく。
なんだか急に寂しくなって大蛇姿の彼女に抱きつくと、姫様も同じように思ってくれているのか、わたしの身体に尻尾がくるくると巻きついてきた。
「九摩留も、気をつけていってらっしゃい」
姫様と短い抱擁を交わしたあと、今度は彼女の横に立つ狐姿の九摩留と目があうようにしゃがみ、彼の首回りを掻いてあげた。
すると彼は黄褐色の身体をわたしの膝にすり寄せてこちらの手をカプカプ噛んではべろべろと舐めはじめる。
わたしの手と白蛇の尻尾が同時に狐の頭部をべちっと叩いた。
ひとしきり彼を撫でてから立ち上がると、二人は言葉なく屋敷裏の急な斜面へ向かった。
姫様は木をするすると登り、その身体を伸ばして木から木へと伝って。
九摩留は跳ねるように駆けながら彼女のあとをついていく。
これから一週間、姫様は九摩留を伴って山奥深くに籠り静養する。
どこでなにをしているのかはわたしも倉橋様でさえも知らない。
知っているのは山のどこかにある秘密の霊場でその身に溜まった穢れを落とし、力を補うということだけ。
九摩留は姫様に霊力を分けてもらっている状況なので、少しでも早く自力で人に化けられるように――姫様の負担を軽減できるようにと、一緒に霊場に籠ることを許されている。
彼にとっては修行期間といえるだろう。
姫様の本性は、山に棲み長い年月を経て魔性のものと化した大蛇だ。
そこへ戦国末期、人から忘れられ朽ち果てようとしていた山の神と融合し――紆余曲折あって今に至っている。
つまり彼女は魔性と神性併せ持つ特殊な存在で、生粋の神様よりこまめに祓をする必要があるのだという。
このおこもり期間は今でこそ毎月七日間だけど、九摩留が来る前は五日、そしてそれこそ最初は数か月に三日程度ですんでいたものらしい。
おこもりの頻度や期間が増えているのが少しだけ気がかりだった。
「さてと。わたしも準備しなきゃ」
養父母が亡くなってからは、彼女のおこもり中は倉橋様のお宅に滞在させてもらっていた。
自分としては屋敷の毎日の掃除などもあるし、なによりご面倒をおかけするのは申し訳なくて気が引けるのだけど、一人だと危ないからという理由で倉橋様と姫様から日中以外は本家にいるよう厳命されていた。
確かに新聞では近頃なにかと物騒だと書かれているけど、村で捕り物が起きたことは一度もないし、外から人が来ればあっという間に噂が広がる。
屋敷には盗られて困るような金品もないので心配しすぎな気もするのだけど……これも大事にしてもらえている証なのかもしれない。
三人分の食器を綺麗にして、洗濯と屋敷の掃除を午前中に終わらせる。
一人きりの昼食は洗い物が出ないように竹の皮に包んでおいたおにぎりとお漬物で簡単にすませ、日が暮れ始める前に干していた洗濯物を片づけてしまう。
最後は囲炉裏の火の後始末。
すでにあらかた燃え尽きている炭を囲炉裏の隅に半分ほど埋めてある火消壺へ入れ、さらに炭周辺の灰を目の細かい金ザルでそっとふるい、溜まった火種も火消壺へ入れる。
最後に炉縁の灰を火床に厚めにかければおしまいだ。
本家にお邪魔している間も掃除や囲炉裏の火熾しに毎日屋敷へ帰ってくるつもりなので、本当はここまでする必要はないのかもしれない。
それに囲炉裏の火は絶対に絶やしてはいけないものなので罪悪感があるのも事実。
それでも、留守中に万が一火事が起きて屋敷が全焼したらと思うと心配で夜も寝られない。
そこで姫様に許可をいただき、囲炉裏の火はランプに移して常にわたしが管理し、屋敷には一切火の気を残さないことにしたのだった。
「あとは着替えて戸締りして、と。四時過ぎには出られるかな」
屋敷にいるときは巫女装束だけど、外出するときは同世代の子と同じように洋服を着ている。
装束をすべて脱いだら下履きをズロースに履き替え、普段着けないブラジャーも忘れないように一番に着ける。
それから肌着のメリヤス、薄桃色の徳利セーター、腿まである厚手の長靴下、ペチコート、焦げ茶色のロングスカート、濃紺のテーラードジャケットを着ていく。
着替え終わると居間にある仏壇の前で正座し、手をあわせた。
「お父さんお母さん、いってきます。留守の間、屋敷をよろしくお願いします」
出発前なのでお線香はあげられないため、おりんだけ鳴らして位牌を見つめる。
わたしは姫様以外の神仏や幽霊、魔性のものをはっきり視たり声を聴いたりといったことはできなかった。
それでもその気配は他の人より感じ取れるらしく、わたしの声に応じるように座敷の空気がやわらかく揺れ動くのがわかる。
ふいに漂うお線香とは別の香り。
甘やかで香ばしいそれは好意的、肯定的であることを意味している。
つまり「承諾した」ということだろう。
わたしは囲炉裏の火を移した取っ手つきの卓上ランプを光源に、部屋中の襖や板戸をとじ、南と西の縁側の雨戸を閉め、ガラス戸に鍵をかけていく。
上がり端で靴を履いてコートとショールも身に着け、着替えや洗面道具を包んだ風呂敷を手に、台所や土間の窓、勝手口と玄関に鍵をかける。
念のため屋敷の外から窓や戸をガタガタ揺すってちゃんと開かないことを確認してからほっと息をついた。
これで出発しても大丈夫。
再び玄関の前に戻ると、わたしは風呂敷包みを手に下げて大きく声をあげた。
「いってきます!」




