35.小正月(2)
「いや見事見事! 座敷がぱっと明るくなったのう。さ、花見で一献やろうではないか」
姫様が鼻歌まじりに座敷の押し入れから座布団を人数分出して長火鉢の周りに並べる。
わたしは酒器や肴を準備しようと台所に向かい、途中で足を止めた。
なぜか泰明さんもうしろからついてきていた。
「泰明さん、こちらは大丈夫ですから。姫様のお相手をお願いします」
「姫様のお相手は九摩留がしてるから大丈夫」
えっと思って耳を澄ますと、姫様と九摩留の喧嘩するような声が聞こえてきた。
それは大丈夫とは言い難いのでは?
「本気じゃないから大丈夫だよ。姫様が九摩留を足止めしてるだけだから」
「足止め?」
「そ。僕たちのために」
思わず横に並んだ泰明さんを見上げると、彼はどこか照れくさそうな顔をしていた。
目があうと、まるで大事な人を見るかのような愛情深い笑みに変化する。
物凄い美人さんの甘い笑顔は恐ろしい。
こちらは失恋して気持ちを切り替えているところなのに、新しく恋してしまいそうな破壊力を持っている。
「え、と。じゃあ一緒に準備しますか」
うっかりのぼせそうになって、無理やり視線を引きはがす。
そそくさと台所に立つと、彼はこちらがお願いする前に食器棚を開けて器を持ってきてくれた。
夕食後なので肴は軽めに、作り置きのお煮しめと白菜漬けを人数分の小鉢に盛りつける。
お煮しめはゴボウ、にんじん、レンコン、シイタケ、結びコンニャクを濃い目に甘辛く煮含めてある。
白菜は浅漬かりのものに数滴ほど醤油を垂らした。
「そうだ、これもつけとこうかな」
ふと思い立って小さな橙を横半分に切り、それを薄いくし切りにしてそれぞれの白菜漬けに添える。
橙は甘さ控えめで酸味がとても強い。
お酒とお煮しめで口の中がだらっとしてきたら、白菜漬けに橙を絞って食べるのもいいと思ったのだ。きっと鮮烈な爽やかさが加わっていい口直しになるはず。
「あ、いい香り」
お箸やお猪口を載せたお盆を持って泰明さんが流し場にやってくる。
「この時期は柚子が一大勢力ですけど、橙もいいですよね。いつも皮は干してくす……お茶に、果肉は絞って橙酢にしてるんです。ちなみに姫様はナマコには絶対橙酢だそうですよ」
さりげなく姫様情報を盛り込むと、泰明さんはへぇーとつぶやきながらわたしの手を取り上げた。
その何気なさにこちらも反応が遅れる。
「残念、僕はナマコに柚子酢の方が好きだな。あかりはどっちが好き?」
橙の果汁と香りが染みた指に形のいい鼻が近づいて、慌てて手を引く――けど引けない。
包丁を置いた手で手首を持ち力いっぱい引っ張ってみるけど、びくともしない。
「泰、明、さんっ。手を、離しましょう!」
ぐぎぎ、と歯を食いしばりながら引いても青年はわたしの手を持ったままにこにこしている。
彼が反対側に持ったお盆はカチャリとも鳴らない。
「ね。姫様と僕、どっちが好き?」
「橙酢と柚子酢ですよね!?」
「ほんといい香り。舐めていい?」
「駄目ですけど!?」
「つれないなぁ。完全に二人きりの時じゃなきゃだめ? でも照れてるところも――」
「だっしゃぁぁぁあああ!」
ダダダダダと大きな足音が聞こえたと思ったら九摩留がお勝手に走りこんできて泰明さんに向かう。
ぶつかる直前、彼はわたしの手を放してひょいと身をかわした。九摩留が音を立てて流し台に直撃する。
「いやーすまんな、これ以上は伸ばせんかったわ。さて準備はできたかえ?」
声に振り向くと、居間の縁側から姫様の首が生えていた。
「今お持ちします!」
わたしはお盆を出して肴とお手拭きを載せると、なるべく泰明さんを見ないようにして大股で座敷に向かう。後ろでは、今度は九摩留と泰明さんの喧嘩するような声が聞こえていた。
それにしても――。
「おかしいな、晩酌したのは姫様だけなのに……」
長火鉢の猫板と呼ばれる台に姫様と泰明さんの小鉢を並べつつ、わたしははてと首を傾げる。
泰明さんは一滴もお酒を呑んでいないのに、この前の宴会のような行動はなんだったのだろう。
まさか酔ってなくても無自覚の女誑し、とか?
でも今まではそんなこと――。
「あかり、その考えは胸の内にしまっておくのが吉だぞ」
「え……あっ、声に出てました!? あのぉー今のはですね、ええと」
いけない、姫様には泰明さんのよろしくない部分は伏せておきたいのに。
どう釈明しようかと口に手を当てると、姫様も同じように口に拳をつけて難しそうな顔をした。
「あれもだいぶ浮かれておるな。嫌われぬうちに正してやるべきか、でも勘違いさせたままの方が面白いし、うーむ」
つぶやきの意味はよくわからないけど彼女もなにか悩んでいるようだ。
「あかり、ちょっとの間でもこいつと二人っきりになるな。なにしてくるかわかったもんじゃねえぞ」
ドスドスと足音も鼻息も荒く九摩留が、そして泰明さんが座敷に戻ってくる。
九摩留にうっすら思っていたことを言い当てられてぎくりとした。
「そ……そんなことは……ないと、思うけど」
つい歯切れの悪い言い方になってしまうと、泰明さんがお盆から箸を取り上げた状態で動きを止めた。
そのままギギギと音がしそうなぎこちなさでこちらに顔を向けてくる。
そこに浮かんでいるのは――不安と怯えのようで。
なぜ? と思っていると少女が青年の背中を叩いた。
「なぁ泰明よ。けじめという言葉、わかるかえ? 近頃どこかで耳にしたことは?」
「…………そうでした。気をつけます」
「わかればよい」
姫様が微笑むと、泰明さんもちょっと笑顔を取り戻す。
よくわからないけど二人だけに通じ合うなにかがあるらしい。
いいことだと思いつつも、胸がちくりと痛んだ。
「ささ、座れ座れ。気分を変えて呑もうではないか」
姫様に促されて、囲炉裏を長火鉢に置き換えたように自然といつもの座に落ち着く。
わたしと九摩留の小鉢は量的にも位置的にも猫板に載せられないので、お盆に載せて畳に置いた。お酒に弱い彼には緑茶を用意してある。
「ん~、好いのう。まるで月明かりに浮かぶ夜桜のようだな。風情があるのう」
泰明さんのお酌を受けながら姫様が嬉しそうに目を細める。
視線の先では吊るしランプのわずかな明かりに真っ白な餅花がよく映えていた。
樫の伸ばす細かな枝に沢山の花が咲いて、いつもは暗い部屋がパッと明るく華やいでいる。
お花見を楽しみながら差しつ差されつのんびり会話をしていると、姫様がしみじみとつぶやいた。
「昨年は静の年であった分、今年は動の年。みなのもの、悔いなく行動するのだぞ」
悔いなく――できるだろうか。
手元のお猪口に目を落とすと、底の蛇の目がもの言いたげにこちらを見ている。
わたしはそっとお猪口を揺らしてその模様を紛らわせた。




