30.片想い
木々さえ息をひそめるように、あたりがしんと静まり返る。
今にも地中の霜立つ音がパキパキと聞こえてきそうだ。
「……なんで言ってくれなかったんですか。水臭いじゃないですか」
穏やかに聞こえるように、ゆっくりと慎重に声を出す。
照れくさかったかもしれないけど、できればそのとき教えてほしかった。
これだけ素敵な人なのだからきっと恋人はいるのだろうと思っていたし、その当時は泰明さんを兄のように思っていたから受け止め方も違ったと思う。
それに村の人伝いに聞いて初めて知るというのは、想像以上に寂しかった。
泰明さんの顔が暗がりでもわかるほど見る見る青ざめていく。
「今度その方とお見合いされると聞きましたけど――」
「ちょっと待って、それは違う。彼女は恋人……じゃ、ないことはないんだけど、これには事情があって。だから厳密には恋人じゃないというか」
「恋人じゃないって……」
どんな別れ方をしたのかは知らないけど、なかったことにするのはさすがにちょっとひどくないだろうか。
「別に恋人がいたのはいいんです。わたしが言いたいのは――」
「あかり、ちゃんと聞いて。今君は誤解してる」
肩をがしっと掴まれて息を飲む。
目の前には焦り顔の泰明さんがいた。どんなときも落ち着いている印象だから、その意外な表情に言いかけていたことを忘れてしまう。
「黙っててごめん。でも僕は今まで誰とも付き合ってない。僕には……小さいころからずっと好きな人がいるから」
「好きな人……」
小さいころから、という言葉がすとんと胸に落ちる。
倉橋家の男性はみんな加加姫様が初恋の相手だという。五歳になる頃にはみんな姫様が視えなくなって淡い想いはやがて懐かしい思い出に昇華されると聞くけど、彼は違う。
本来の世話役――ずっと視える者だから。
「……こういうのはあんまり聞かせることじゃないと思ってたから言わなかったんだけど。その、中学くらいから女の子から言い寄られたり付きまとわれることが多くあったんだ。でも好きな人がいるって言っても恋人がいるって嘘をついても信じてもらえなくて、結構勉強や生活に支障が出ることもあって……」
「支障が出るくらいって……すごいですね」
男子も女子も年に関係なく同じ教室で勉強するようになったのは戦後からだ。
戦前の場合、小学校は高学年から、そして中学校以上は学校そのものが男女で分かれるようになる。
つまり泰明さんの中学高校時代は学校に女の子がいないということだ。それなのに支障が出るってちょっと想像がつかない。
「うん。聞いて気分のいい話じゃないよ。思い出したくもないし」
彼は無表情でぼそりとつぶやく。
「大学のとき、ちょうど同じような状態で困ってる奴がいたんだ。話してみたらお互い別に好きな人がいるってわかったから、間違いが起きようもないってことで結託して。それで彼氏彼女を演じることにしたんだ。あまり褒められたことではないかもしれないけど、偽装の恋人というか……」
そこまで早口で一気に話すと、わたしの肩から手を放した。
「ずっと黙っててごめん。でもお願い、信じてほしい。嘘はついてないから」
「……どうして、その好きな方に告白しなかったんですか? そんなことをしたらその方からも泰明さんには恋人がいるんだって誤解されちゃうじゃないですか。それってすごく……悲しいです」
泰明さんに配慮して姫様とは言わずにおく。
「できないよ。だってむこうは僕と同じような想いは持ってないってわかってたし」
「でも! もし告白して振られてしまっても、何度も告白……すれば……」
言いながら、自分の声がしぼんでいくのがわかった。
言うのは簡単だ。でも自分に置きかえてみれば、そんな勇気のいることなかなかできるものじゃない。
たった一度の告白さえ物凄く勇気がいることなのに、振られてもなお告白するなんて……少なくともわたしにはできない。
それに姫様は今でもかの君を愛している。振り向かせるのは至難の業だ。
「ごめんなさい。ものすごく勝手なことを言いました」
「ううん、あかりの言う通りだと思う。本当に好きなら一回振られたくらいで諦めちゃいけないよね。……うん、結局なんやかんや自分に言い訳して逃げてたんだろうな」
困ったような笑顔が胸に痛い。
「僕は普通じゃないから、ちょっと危ないことを考えやすいんだ。気をつけてはいるんだけど、彼女が絡むと箍が緩みそうになる。だから、もし、彼女に拒絶されたら」
ふいに言葉を切って、彼はゆっくり息を吸った。
白い息が何度か生まれては藍色に滲む。
「……僕みたいな男に好かれちゃって、かわいそうにね」
ぽつりとつぶやかれた言葉は、とてもとても静かだった。




