23.焦り
久しぶりに三人称ですー。
「泰明や。あかりをどう見る?」
「なんというか……いろいろ汲み取れているように見えます。それもこれも、こいつの仕業なんでしょう」
泰明にあごで示された九摩留はまだ狐姿のままだった。
加加姫に馬乗りされていて身動きがとれないらしい。その姿はまるで荼枳尼天とその眷属のようだ。
泰明とあかりを邪魔しないようにと加加姫によって強制的に変化を解かれた彼は怒り心頭のようで、ずっとグルルルル……と低い唸り声をあげている。
しかし二人とも意に介す様子はなく、少女は煎茶をすすり青年は灰汁を取った鍋に豆腐をちぎり入れている。
「姫様、これ、狐汁にしましょうか。毛皮はコートやマントの襟につけるとよろしいかと」
「やめておけ。こんな奴食ってもうまくなかろ。毛並みもたいしたことないし、そんなものをつけたらかえって恥だ。腑分けの練習がしたいのなら止めはしないが」
物騒な会話に九摩留の唸り声が小さくなる。
そんな狐を横目に泰明は先ほどのあかりの様子を思い返してため息をついた。
「しかしまさか九摩留に先を越されるとは……うかつでした」
あかりの初心な反応は変わらないが、その内面はもはや未熟ではない。
今までその手のことに奥手というか疎かった彼女は男女の機微を察せられるようになったらしい。
恋を知ったことで、男と女を意識できるようになったことで、まとう空気には艶めいたものが生まれていた。
そこに九摩留が一枚嚙んでいるなんて泰明にとっては到底許しがたいことである。
「九摩留お前……いや、やっぱりいい」
腹立たしいが余計なことは聞かないでおく。
聞いたら多分、この狐を殺してしまう。
こんな狐であっても死んでしまえばあかりはきっと悲しむだろう。
こいつがなにか不健全な悪戯をしたのは間違いないだろうが、彼女が喪心状態でないところを見る限り、そこまで際どいこともしていないはずだ。
とりあえず、ようやく彼女が九摩留を警戒すべき相手だと認識したのは良いことである。
泰明は豆腐をすべて入れ終えると木杓子を使って脇に置いていた調味料を計り入れた。
軽くかき混ぜたら鍋に蓋をする。
「ところで姫様。こいつはいつまでここにいるのでしょうか」
「というと?」
加加姫は甘納豆をつまみながら泰明を見る。
彼女の下の狐も唸るのをやめて青年を見つめた。
「九摩留は先代の体力が厳しくなってきたから下男にした、という話でしたよね」
不足する男手を解消するために下男を屋敷に入れる――それはかなり異例なことであった。
基本的に加加姫の世話も屋敷の管理も世話役夫妻だけで行うもの。
そのため当初はあかりの夫を探すことになったが、これがなかなか難航したため取り急ぎ下男を入れる話に落ち着いたのだった。
人間ではなく狐の九摩留が選ばれたのは、加加姫をまるで恐れないうえに若いながら霊狐の素養を持つ稀有な器だったためだ。
泰明にしてみればあと少し村に戻るのが早ければ自分こそが下男、もといあかりの夫となれたのにと歯噛みせずにはいられない。
おまけに九摩留の精神は成熟し、少年から男へと転じてしまった。これからは本気であかりを落としにかかるだろう。
そんな輩と四六時中一緒に生活していたら、ようやくこちらを向いた彼女の気持ちも移ろうかもしれない。
そもそも彼女と若い男が一つ屋根の下で暮らすなんて冗談にも程がある。
今までは少年姿だったからまだ大目に見れたものの、もはや見過ごすことはできない。
「姫様。こいつの代わりに僕をこちらに置いていただけませんか? 今日からでも」
「おやおや、それはまた急な話だのう」
加加姫は白髪をさらりとゆらして小さく微笑む。
「親父殿の許可は得たのか?」
「親の許可が必要な年ではありませんよ」
泰明はわずかに声を尖らせるが、ややして自信をなくしたように眉を八の字にした。
「僕ってそんなに危なっかしく見えますかね」
「そうさなぁ。あかりが絡むとどうも周りが見えなくなるらしいな。今も言葉通りに受け止めるくらいだし」
「あ……」
なにかに気づいた泰明に加加姫はくすくす笑って湯呑を傾けた。
「この屋敷の最終的な管理責任は倉橋家当主にある。人の入れ替えには当然当主の許可がいるな。少し冷静になれ、泰明」
駄々っ子を相手にするような困った笑みを向けられて青年は口ごもる。
「でもそこは……当主がなんと言おうと姫様や世話役が必要だと判断すれば――」
「判断か。ふぅむ、これについては少々賛成しかねるのう」
「な」
てっきり自分の味方をしてくれるとばかり思っていた泰明にとって、その答えは冷や水を浴びせられるようなものだった。
「親父殿は、そもそもここに来ること自体よく思っていないであろ? 今すぐここに住むなんて言えばおぬし、いよいよ親父殿と……当主と対立することになるぞ」
「………………」
「老婆心だが、取り返しがつかなくなる前に言わせてほしい」
加加姫は湯呑を置くと、乗っている狐ごと身体を動かして泰明に向き直る。
青年は加加姫の血が濃い。ゆえに見た目はもちろん、その特性や性質まで彼女のそれに似てしまっていた。
少女の本性は人々から狡猾の象徴とみなされることも多く、そのおかげで加加姫は知略奸計を得意としている。
それは自分のように肉の器を持たない自我ある強大な魂――神、鬼、妖、精霊などと呼ばれる存在が現世の法則に縛られないかわりに、現世の法則に縛られる存在――人間らの強い思念や言葉に縛られやすいというある種の理からくるものだった。
しかしこの理は絶対ではない。
そこに影響を及ぼすのが持って生まれた気質や意思の強さだ。
それらは人間らの心象から得た己の特性を増幅させることもあれば相殺させることもある。
残念ながら加加姫は好きな者が絡んだ途端いろいろ考えるのがまだるっこしくなり、狡猾のこの字もなく衝動的に動く性質だった。
そのせいで少女は過去に何度も失敗し、好きな者に多大な迷惑をかけている。
泰明は人間だ。
高度な群れ社会で生きる彼の場合、自分よりもその失敗は痛手になるはず。
そして大事な者にもその影響を落としかねない。
「おぬしが屋敷やあかりに関することで自分勝手を通そうとすれば、おぬしはもとよりあかりに向けられる目も冷えたものになるやもしれぬ。そう考えたことはあるかえ?」
「それは……。でも、あとからどうとでも」
「ならんの。ことをうまく運ぶにはそれなりの根回しや立ち回りが必要になる。あとからでは遅い。特にここは村で、付き合いが密だからな。当主や周囲の声に耳を貸さず我儘気随でいればたちまち村八分だ」
普段なら賢い青年がこんな簡単なこともわからなくなっている。
よほど焦っているのだろうが、ここまで思考が幼稚だと面白いを通り越して少し哀れだ。
そしてかつての自分も夫から同じ目を向けられていたかと思うとなんともこっ恥ずかしい。
「おぬしのことだ。いざとなればあかりを連れてこの地を出ていけばいいと思っておるのだろうが……あの子がどんなにおぬしに惚れていようと、おぬしについて出て行くことはないだろうな。わしがここにいる限り」
青年の気配が変わった。
冷たく射るような視線に姫神は答えず、甘納豆をひょいひょい口に放り込む。
泰明はあかりをこの屋敷に縛りつけることに成功したが、それは同時に彼女が己の存在意義を屋敷に見出すことでもあった。
成長すれば世話役の責務より泰明との幸福を優先するようになるかもしれないという淡い期待もあっただろうが、残念ながらそんな子にはならなかった。
(不遜な奴め。わしからあかりを奪おうなど百万年早いわ)
泰明のことは大変気に入っているが、あかりはなにせ我が嫁なのだ。
二人には夫婦になってほしいものの、神の嫁をどこかへ連れ去るなら話は別だ。
そもそも連れ去ったところで彼女は必ず加加姫のもとに戻って来る。
彼女の性格が、姫神との絆が、そして染みついた神気がそうせざるを得ないのだ。
「つまりはおぬしもこの地を離れられない。ならばこの地を統べる者を、それを慕う者どもを邪険にするのは得策ではない」
加加姫は甘納豆を数粒まとめて口に放ると手についた砂糖を囲炉裏の灰の上で叩き落とした。
青年は囲炉裏の火を見すえて眉根を寄せている。
少女はふっと微笑んだ。
「……とまぁいろいろ言ったがの、だからといってなんでも親父殿の言いなりになる必要はないし、育ててもらった恩義に報いよとは言わん。義理立てもほどほどで結構。ただなぁ」
よいせ、と腰を浮かせた少女は布巾で鍋弦を取り上げ、鍋敷きへと移動させる。
「おぬしがまわりの者たちをちぃとも顧みない態度でいれば、あの子の気持ちもいずれ冷めてしまうぞ。あの子は義理人情に厚く、周りとの調和を重んじる子だからな」
少女が鍋の蓋を取ると、ごま油や醤油、根菜類の煮えたいい匂いがいっそう濃くあたりに広がった。
なんとも幸せを感じる家庭的な香りに加加姫は頬を緩ませるが、横の青年はしけた顔のままでいる。そんな面して斜め切りされたネギをちゃんと入れるのだから律儀というかなんというか。
束の間の沈黙を経てから、泰明は深いため息をついた。
「……ありがとうございます姫様。少し頭が冷えました」
泰明はぬるくなった煎茶をすする。
助言とみせて、これは加加姫からの警告だった。
彼女の言う通り、泰明はまわりが煩いようならあかりを攫って新天地へ行けばいいと思っていた。
しばらくは彼女から口もきいてもらえないかもしれないが、時間をかければほだせると思ったからだ。しかしどうやらそれは難しいらしい。
(穢れを消すための神気が枷になったか)
思い当たるのはそれだ。
もともと想像はしていた。あかりの穢れを消すために注がれ、そして赤子の時分から絶えず浴びてきた加加姫の神気は、彼女と姫神を繋ぐ強固な鎖になりはしないかと。
きっと加加姫が呼べばあかりは自分の意志に関係なく加加姫のもとに戻るだろう。
それはもはや眷属とも呼べる状態で、ある種の神の呪いといえる。
(――まぁいい。もともとそれは最後の手段だったし。ここで暮らすことが彼女のためにも一番だし)
別に恩を仇で返したいとは思っていない。
しがらみが多くあろうとも加加姫の棲むこの里山であかりと共に生きていければと思っている。
それに村から出るとこの容姿のせいで面倒ごとが起きやすいのも事実で、その点では自分にもメリットがあるといえる。
他人にまるで興味がない泰明にとって、あかりだけは特別だ。
彼女に大事にしたいものがあるなら、自分もそれを大事にしたい。
泰明が一番恐れているのは、あかりが自分から離れていくことだった。
確かにこのままでいたら彼女も自分に幻滅して――本当に嫌われるかもしれない。
青年はようやく自分の態度を少し反省した。
「はぁ……。なんか僕、すごく格好悪いですね」
親にまで子どもじみた振る舞いと言われていたそれは、いつの間にかフリではなく素でやっていたものらしい。
こうして人に言われるまで気づけないなんて、いい歳して情けないやら恥ずかしいやらで耳が熱くなる。
九摩留が馬鹿にしたようにケケケと甲高く笑い、泰明は無言でその長い口をむぎゅっと掴んだ。




