22.宴の準備
「ただいま、あかり」
「おかえりなさい泰明さん」
泰明さんが屋敷に毎晩来るようになって、この挨拶もすっかり定着した。
といっても今日はいつもよりだいぶ早くて、まだ夕方ではあるけれど。
マフラーとコートを脱いだ泰明さんはいつもの背広姿ではなく、濃紺の徳利セーターに黒い厚手のカーディガン、細身のズボンという格好をしていた。
普段のネクタイ姿もとても似合っているけど、今の姿も非常に格好良い。雑誌のモデルさんのようだ。
「はい九摩留、これ……って急に大きくなったな」
九摩留の成長姿に驚いたのか、泰明さんが途中から声を硬くする。
その表情はなぜか険しい。
怖い顔の理由はわからないけど、驚くのはよくわかる。
昨日までまだ幼い雰囲気だった少年が、翌日にはいきなりガタイの良い成人男性になっているのだから当然の反応だろう。
背の高い泰明さんに負けず劣らず九摩留もかなり背が伸びていた。これまでの作務衣はもう着られないのでお父さんの作務衣を着せているけど、丈が少し短いし幅もゆとりがなくてぴっちりしている。
あとで新しい作務衣を仕立てなければ。
「へっへっへ。俺もいつまでも子どもでいらんねぇからな。なーあかり」
「……………………」
「なぁーごめんてさぁ。そろそろ機嫌直してくれよ、な?」
「こっちこないで。近寄らないで。あとお鍋ちゃんと見てて」
囲炉裏から台所へ来ようとした九摩留をキッとにらみ、木尻を指さす。
九摩留は世にも悲しそうな顔で肩を落とすとすごすごと囲炉裏へ引き返した。その後ろ姿がなんとも寂しげで胸がチクリと痛む。
いやでも、やっぱりこれくらいはしないと。
「……ほら九摩留。今日は雷おこしっていうお菓子だよ」
「……おう。悪ぃな」
最初は泰明さんを追い返そうとしていた九摩留だけど、毎回珍しいお菓子を包んで持ってきてくれるので今ではそれもなくなった。
むしろ泰明さんが来るとその周りをそわそわと歩き回り、お土産が出てくるのを待っている。
口が悪いのは相変わらずだけど態度はすっかり軟化していた。
囲炉裏でしょんぼりとお菓子をかじる九摩留の正面、納戸に続く戸から加加姫様が風呂敷包みの一升瓶四本を手に下げてお勝手にやってきた。
「おかえり泰明。今日は宴だ、ゆっくりしていけよ」
宴の名の通り、彼女が手にしているのはお酒である。
囲炉裏の横座後ろにはすでに何本も一升瓶が並んでいた。
まさか全部飲むつもりなのだろうか……。
「ありがとうございます、そのつもりで来ました。僕も持ってきましたよ」
そう言って泰明さんも手に下げた風呂敷包みを軽く持ち上げる。形からして一升瓶のようだ。
「泰明さんは姫様とゆっくりしていてください。お料理、今日はまだ時間かかりますから」
「僕も手伝うよ。よろしいですか、姫様」
「ふふ。わしは構わぬぞ」
泰明さんは風呂敷包みをお勝手の板間に置くとこちらにやってくる。
わたしは慌てて手を振った。
「いえっ、それは困ります。こちらは大丈夫ですから。泰明さんは姫様とあちらでくつろいでいてください」
姫様は構わなくてもわたしが構う。
彼はわたしにとって姫様に並ぶ未来の主なのだ。そんなことをさせていい人じゃない。
でも泰明さんはわたしの横に並ぶと腕まくりを始めてしまう。
「あの、本当に大丈夫ですから」
思わずその手をガシッとつかんで、一拍してから自分のしたことに顔が熱くなった。
「ごめんなさい! わたしったらとんだ失礼を……」
慌てて手を放そうとすると、泰明さんのもう一方の手が私の腕を逆につかみ返してきた。
「――――ッ」
親指の腹で肘の内側をゆっくりとかすめるようになでられて、その感触に熱と震えが走る。
九摩留との出来事がふいによみがえり、警戒しなきゃと思うのに――どうしてかその手を振りほどくことができない。
顔を伏せたまま恐る恐る目だけで泰明さんの顔をうかがうと、長いまつ毛の奥からのぞく瞳はほの暗く深い色をしていた。
視線が絡んで、身体の奥底から溶けてしまいそうだった。
「ああああのあの、だっ、あばば」
「泰明」
「だめですか?」
「わしとしてはだめではないが、時と場所は選ばねばな。離しておやり」
ハッと我に返ると、泰明さんが一歩離れたところですごく残念そうな顔をしていた。
彼の手は、もうわたしの腕を掴んでいない。
「ごめんね、姫様に呼ばれちゃった。次は必ず手伝うからね」
「いえ! お気持ちだけで十分ですから! それにほら、男子厨房に入るべからずとも言いますし」
「でも九摩留には手伝ってもらってるんだよね?」
ちらりと目で示した先では、なぜか狐姿に戻った九摩留がこれまたなぜか姫様に羽交い絞めされていた。
一体なぜ?
「ええと……じゃあ……あちらでお鍋をお願いしてもいいですか? 九摩留は取り込み中みたいなので」
今夜の汁物はけんちん汁。
食材はこちらで切り、九摩留には炒めたり煮たりといった工程を任せていたのだけど、どうもそれどころではなくなっている。
「もう煮込み始めているみたいなので、お鍋がぐつぐつしてきたら灰汁取りをして味付けをお願いします。お醤油を杓子の三分の一、みりんをその半分ほど入れてください。それから豆腐をちぎって入れていただいて、もう一度ぐつぐつしてきたら味見をして、お好みの味になるように調整していただけると助かります。そのあとは長ネギを入れて、鍋を囲炉裏の脇に置いといていただけますか」
わたしのざっくりとした説明に対して泰明さんはこくりとうなずく。
「一度冷ますと味がなじむもんね」
「その通りです。よくご存じで」
「大学時代は自分でもたまに料理してたからね。といっても適当な野菜とか芋を煮たり炒めたりしただけの簡単なものだけど」
彼の言葉にちょっと驚く。
確か下宿先では食事付きだったはずだけど、そういうこともしていたとは。
「仲間と夜遅くまで飲んでるときとか、こっそり部屋に七輪持ち込んで餅とか干し芋とか焼いたりしてさ。あの頃はいろいろ大変だったけど、今ではいい思い出だよ」
懐かしそうに目を細めて語る泰明さんの下宿生活は長い。
この村に中学校ができたのは終戦後で、そして中学入学が義務になったこともあり、わたし含め多くの子どもたちが通うことができた。
でも泰明さんの場合は旧制中学校時代なので入学するにも受験があり、そして遠くの学校を選んだ彼は下宿せざるをえなかったのだ。
彼はそこから高等学校、そして同じ県下とはいえだいぶ離れた場所にある大学へと進み、その間もずっと下宿あるいは寄宿生活だった。
戦火が激しい時期には村に戻っていたとはいえ、多くの時間を離れた土地で過ごしている。
「では泰明の思い出話で茶でも飲むかのう」
姫様は狐姿の九摩留を小脇に抱えると茶箪笥に向かう。
いいなぁ、とぼんやり思ったところで慌てて頭を振った。
泰明さんは姫様が好きなのだから、わたしはむしろ二人の時間を作らなければならないのに。
そこでふと青年がこちらを見ていることに気がついた。
「どうされました?」
「ううん、なんでもない。ただ……僕もあかりの昔話、聞きたいなぁって思っただけ」
「わたしのですか?」
「そう。どんなことをして遊んだかとか周りにどういう子がいたとかさ。学校を出てからは大人たちともたくさん関わるようになっただろうし、僕がいなかった間どんな毎日を送ってたのかなって」
そこで泰明さんは優しく笑う。
「今までちゃんと落ち着いて話せる機会ってなかったよね。そのうち二人でたくさん話をしよう? 聞きたいことも話したいことも、たくさんあるんだ」
声は柔らかいのに眼差しは強くて、なんとなく落ち着かない気分にさせられる。
ついそわそわと身体を揺らすと、泰明さんはにっこり笑って勝手口を抜けていった。
井戸の手押しポンプを扱う音と水音が聞こえてくる。
彼の手洗いうがいがすむ前に、わたしは野菜を取りに行くふりをして台所を離れ、そっと玄関から外に出た。




