14.あの日の約束
その日のお父さんは調子が良くて、久しぶりに九摩留を伴って山へ入っていった。
加加姫様は出かけていて、お母さんは床についている。
静かな屋敷で縁側に座りひとり針仕事をする、そんななんてことない昼下がり。
日が傾いて夕暮れの気配が近くなった頃、さすがに腰が痛くなって縁側から庭に降りた。
背伸びをして屈伸して。腰をとんとん叩いていると、ふいに影が差す。
そちらに顔を向けるといつの間にかお父さんが帰ってきていた。
「おかえりなさいお父さん。九摩留はどうしましたか?」
「九摩留はまだ山だ。俺もちょっと必要なものがあって戻っただけだ。すぐ戻る」
そう言いつつも立ち去る様子がない。どうしたのかなと思っていると。
「ずっとお前に言わなきゃならんことがあった」
わたしのほうを見ず、お父さんは庭の木に視線をすえたままで口を開く。
「お前、泰明のことはどう思っとるか?」
「泰明さん?」
急に泰明さんの名前が出てどきっとする。
でもなんでどきっとしたのかは自分でもわからなかった。
「わたしは勝手にお兄さんのように思ってますけど」
「それだけか?」
「はい……。あの、どうかしましたか?」
「間違えてもあれに恋慕なぞしてくれるなよ」
思ってもみない言葉にぽかんとなる。
からかっているのかと思ったけど、その顔はいたって真面目だった。
「そんなこと、するわけないです。本当にどうしたんですかお父さん、なにかありましたか?」
「いや、一度きちんと言っておかなければと思っていたんだ。言うのがちょいと遅れてしまったが」
お父さんは一度目を伏せてからわたしに向き直った。
「お前と泰明では立場が違う。分をわきまえて、勘違いはしないように。そもそもお前では泰明を幸せにすることはできない」
「それは……」
どういうことかと聞きたかった。
背中と足の傷が関係しているのだろうか。
手首足首、そして首に巻いている紐と関係があるのだろうか。
でもそれを聞くことはためらわれた。はっきりと答えが出てしまえば、この穏やかな毎日が崩れてしまいそうで怖かったから。
「九摩留も、あれはあれなりに努力はしている。九摩留とともに協力すれば世話役としての責も果たせるだろう。だから約束してくれ。このままであり続けると。このままでずっとこの屋敷と姫様を守り続けると」
強い西日に照らされて、お父さんの色素の薄い目が淡い茶色に輝いていて――それがなんだか印象的だった。
その強いまなざしにわたしはうなずくしかない。
「わかりました。約束します」
お父さんは小さくうなずくと、背を向けて行ってしまった。
「――あかり。あかりよ、そろそろ起きれるか? 朝餉ができたぞ」
ゆさゆさと身体が揺さぶられて、ぱっと目が覚める。
一瞬夢か現か混乱するも、すぐにお父さんは亡くなっていることを思いだした。
あの日のお父さんとの約束を夢に見たのは、あの世からの忠告だろうか。
目に入るのは板敷の天井で、わたしがいつも寝起きする納戸のものではない。納戸であれば天井はなく、むき出しの梁が目に入るはずだ。
ぎょっとして身体を起こすと横で少女がくすくす笑う。
「ふふ、いつもと立場が逆転しているな。おはようあかり。調子はどうだえ?」
「姫様……あの、これは一体。それに……そうだ、泰明さん!」
記憶が鮮明になってくると、いてもたってもいられなかった。
「姫様、泰明さんはどうなりました? それにわたしはなんで寝ていて――」
「まぁまぁ落ち着け。今説明してやるから」
身を乗り出すわたしに姫様は困ったように笑った。
「泰明はどうやら毒芹に当たったようだ」
「毒芹……」
毒芹は芹によく似た毒草だ。生息環境もよく似ているため、村でも誤って採って食べてしまう人が後を絶たない。
ただし見分け方は簡単で、毒芹は食べられる芹と違って髭のような根をしていない。ワサビのような根茎だ。
でも下ごしらえをしているときにそんな芹は見ていない。
「まー多分あれだ、九摩留がうっかり毒芹を採ってしまって捨てたはいいが、その葉がわずかに他の芹に紛れ落ちてしまったと。そんなところではないかのう」
「そうなんですか……ね」
そんなことがあるのだろうか。
……例えば芹と毒芹を一緒に小川で洗ってしまったら、葉が紛れ込むこともある、のかな?
「毒芹の中毒にはなにがある?」
あごに手を当てて考えていると姫様が尋ねてきた。
「えっと、嘔吐や下痢、腹痛、頭痛、目眩に耳鳴り、痙攣、呼吸麻痺とかです」
「発症時期は?」
「量や食べる順にもよりますが、大体三十分でしょうか……」
「比較的毒性の弱い葉をごく少量食べたのであれば一、二時間後にそれらの症状が出るのも十分考えられることではないかえ?」
「そう……ですね」
実際のところはわからないけど、そういうこともあるのかもしれない。
泰明さんの様子も、中毒のいずれかが起きていたのだとしたら、納得できる。
でも、わたしはどうだろう。特に気分の悪さもなかったはずだけど……。
「あ、おぬしには取り急ぎ眠ってもらってな。神気を巡らせて身体を調べたが、悪い部分はなかったぞ。九摩留もいつまでたってもケロリとしていたし。どうも泰明だけが当たったらしい。というわけであやつにはわしがしかるべき処置をしておいた」
「そうでしたか……。あの、わたしは起きてる状態で調べていただいてもよかったのですけど」
せめて調べ終わったあとはすぐに起こしてほしかった。
ちょっと邪険にしてしまった手前気まずくはあるけど、それでもわたしも泰明さんの助けになりたかった。
声に非難の色が出ていたのかもしれない。姫様は肩を落とすと左右の人差し指をつんつん突きあわせた。
「だってわしの大事な嫁御が苦痛にもだえる姿なんぞ見たくなかったもの。それにもう夜だったし、このまま起こさんでもよいかなと思ったのだ。……浅慮ですまぬ」
「い、いえ謝罪なんて! 心を砕いていただきながら無礼なことを申しました。ご配慮感謝いたします」
姫様の両手をさっとつかんで赤い眼を見つめると、彼女は安心したように小さく笑みを浮かべた。
「ふふ、とにかくおぬしが無事でよかった。さて朝餉をいただこうか。早く支度しておいで」
「はい」
姫様が部屋を出てわたし一人になると、知らず知らずため息が漏れた。
昨夜のことがよみがって、思わず手で顔を覆う。
やっぱり、どうしたってわたしは泰明さんのことが好きなのだった。
本当はお見合いなんてしてほしくない。
結婚なんてしてほしくない。
でも、それを伝えるわけにはいかなかった。
わたしは屋敷の世話役だからよくしてもらえるだけで、彼の結婚話に口を出す立場にない。勘違いしてはいけないのだ。
「どうしたらいいんだろ……」
いっそのこと今すぐ好きだと告白して、しっかり振られればこの気持ちにもけじめがつくだろうか。
でもわたしの身体にはいわくありげな傷があちこちにあるし、捨てられっ子で自分が何者かもわからない。それに好きな人の幸せを願うことさえできないような人間だ。
お父さんと約束するまでもなく、本当は彼を想うこと自体が分不相応なのだ。
こんな自分に告白する資格なんてない。
それに、そもそも告白する勇気だってない。
「恋をするって大変だなぁ」
他人事のようにつぶやいて、思わず自分でも笑ってしまう。
恋をするというのは、もっと甘くてキラキラしてて可愛らしいものだと思っていた。
でも現実は違っていて、自分の中の醜さを突きつけられるし、いつまでもうじうじしたりみっともなく悩んだりして、そんな自分がまた情けない。
「結局わたしはどうしたいんだろ……」
悩んだ時は自分がどうしたいかをまず考えてみる。
幼い頃からの姫様の教えに従ってよくよく考えて、それから出た答えは。
「現状維持……がいいのかな、やっぱり……」
少なくとも今は泰明さんが毎日屋敷に来てくれて嬉しいし、それだけで幸せだ。
もう少しこの時間を味わっていたい。
それにまだお見合いをしていないのだから、その日までは彼を好きでいても許される――はず。
ゆらゆらしていた芯がようやく定まった気がする。
ふーっと細く長く、身体の中から息をすべて吐き出す。それからゆっくり大きく胸を膨らまして新鮮な空気を吸った。
布団から出て、よしっと気合を入れて髪をひとつに結ぶ。
軽く身支度を整えると、わたしはようやく奥座敷からお勝手へと向かった。
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