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129.誰かの記憶

「あかり、大丈夫か?」


 ようやく百回目の水をかけ終えて、九摩留はあかりの前に膝をついた。

 簀の子に正座する彼女はうつむいたまま身じろぎひとつしない。声が聞こえなかったか――そう思って肩に触れた瞬間、彼女の身体が前にのめった。


「あかり!?」


 とっさに抱きとめて顔をのぞきこむも、娘は目をつぶったままでうめくことさえしなかった。

 思わず肩を揺さぶろうとすると突然背中をドンと蹴られる。


「どけ、狐」


 九摩留は背中越しに相手をにらんだ。

 すると加加姫はもう一度、今度は強く背中を蹴ってくる。


「どけと言っている」


 赤い眼にじっと見下ろされて男は小さく舌打ちした。

 あかりの肩を支えたまま身体を離すと背後で柏手が打たれる。瞬間、ずぶ濡れだった娘から水分が霧散した。


「さぁおいで」


 少女の言葉に、支えていた身体から重さが消えた。

 男が手を離すとあかりは見えない手で掬い取られるように空中に浮かびあがる。そうしてふわふわと宙を浮かびながら屋敷に入る加加姫のあとをついていった。


「あかり……?」


 九摩留もすぐに娘の隣に並び、だらりと垂れた手を握る。

 かじかむような冷たい手はなんの反応も返さない。どうやら完全に気を失っているようだった。


 三人で奥座敷に入ると、そこにはすでに姫神の布団が敷かれていた。少女が上掛けをどけるとあかりの身体が敷布の上にそっと横たわる。

 続いて加加姫が取った行動に九摩留はぎょっと目を剥いた。


「おまっ……なにしてんだババア!」


 思わず手を掴むと鬱陶しいと言わんばかりの視線を向けられる。

 加加姫はなんの躊躇もなく、あかりの白衣を脱がせようとしていた。


「血も涙もねえのかババア! こんな冷えきってんのに着てるもんまで剥ぐとか! あかりが死んだらどうすんだよ!」

「うるさい男だのう。いいから九摩留、お前も脱げ」

「なに言っ…………は? 俺も脱げ?」

「お前は体温が無駄に高い。あかりを温めてやれ」


 言いながらも少女はあっというまに娘をむき身にしてしまった。そして奪った白衣をきちんと畳み、髪紐も取ってやって装束の上に置く。

 彼女は立ち上がるとやおら長着を脱ぎ、濃い桃色の襦袢姿になった。


「……なんでお前も脱いでんだ?」

「わしも頭を冷やしてくる」


 姫神はどこかむくれたようにつぶやくと襖に向かった。

 しかし座敷を出ようとしたところでわずかに振り返る。


「わかっておるだろうが許すのは抱擁のみだ。撫でる舐める突っ込むは禁止。すれば命ないものと思え」

「ばっ、馬鹿言うんじゃねえ! こんな状態でするわけねえだろ!」

「ふん。その強がり、最後まで貫けよ」


 少女は少しだけいつもの調子に戻るとニヤリと笑って襖をしめた。

 部屋がしんと静かになり、あとには意識のない娘と二人きりにされてしまう。

 男は今さらながら我に返った。


「いや……てか……いいのか?」


 九摩留は誰にともなくつぶやく。だがすぐに思い直した。

 いいもなにも、これは主命だ。

 事態は一刻を争うのだから早く彼女を温めなくては。

 そう自分に言い聞かせてぎこちなく作務衣の上下を脱ぎ、下帯に手をかけて――苦悶の末つけたままにしておくことにした。


 恐るおそる視線を下に向けると、あかりの裸体が目に飛び込んでくる。

 心臓が早鐘を打ちはじめた。全身がカッと熱くなり、すべての血がへその下へ一気に流れ込む。

 このままではまずい――男は咄嗟に顔をそらして上掛けを乱暴に放り投げた。


 ふたたび下をちらっと見ると、彼女の身体はちゃんと布に隠れてくれていた。

 九摩留は破裂しそうな心臓をなだめながら娘の枕もとに正座する。

 のぞき込んだ顔はすっかり青ざめ、かすかに開いた唇も紫色をしていた。


 ぐったりと意識がない姿であっても、悲しいかな男の身体は正直だった。

 今から惚れた娘と同衾するのだ、欲情するなというほうがどだい無理な話だろう。己の分身は猛々しくかさを増して下帯の薄い布を邪魔だとばかりに押し上げていた。


 全部脱がなくてよかった。

 男は心の底から思った。


「あかり。布団、入るぞ」


 返事はない。

 息をしているのかも怪しいほど静かな彼女に、ようやく九摩留も覚悟を決めた。


「入るからな」


 掛け布団の端を少しだけ上げて身体をすべりこませ、即座に相手の身体を抱き寄せた。

 途端、ぶるるるるっと頭のてっぺんから足のつま先まで震えが走る。


「つ…………ッッッ!」


 あかりはまるで氷の柱のようだった。

 おかげで一瞬にして昂ぶりが静まり、それは下帯の中でおとなしく頭を垂れる。


 冷たい。冷たすぎる。

 それでも男は彼女の身体に四肢を絡めた。

 水を何度も浴びたためか、彼女の肌はなんの匂いもしない。その筋肉も固く強張っている。

 まるで凍った死体のようだ。


 ふいに九摩留は思い出す。

 真冬の山。霜が降りて凍った猿の死骸。

 見下ろす自分の目の位置は――今と同じくらいだろうか。


「……お前も大変だよな。あんなババアに目ぇつけられて」


 最近の記憶ではない。なにも知らない狐だった頃の記憶でもない。

 ならばそれは――遠い遠いはるか昔の記憶だろう。

 きっと、人間だった頃の。


 九摩留はわずかに頭を起こして相手の顔をのぞきこむ。

 卵を逆さにしたような輪郭に娘らしい丸みを帯びた頬とふっくらした唇。いつも柔らかく和んでいる目は固く閉じているが、そのせいで伏せられたまつ毛の長さに今さらながら気がついた。


 津波のような衝動を押さえつけても見ているほどに胸の奥がうずく。

 彼女の頬を叩いて自分を見ろと言いたくなる。

 優しくて頼りになって、でも少し抜けているところもある娘。

 愛おしい女。


「やっぱりちっとも似てねえな。お前と泰治は……別もんだ」


 九摩留は苦笑しながらその名を口にした。

 泰治。加加姫の伴侶だった男。

 あかりの――前世の名前。


 泰治と呼んでもあかりは反応しない。

 九摩留は相手の頬に自分の頬をすり寄せた。


 自分のものではない記憶を呼び起こすのはいつも容易ではないが、その男の姿は不思議なほど簡単に思い描くことができた。

 やや角ばった面長の輪郭に削いだような平らな頬と厚みのない薄い唇。

 少しつりあがった目は冷淡な印象を受けるものだが、そう感じないのは深く刻まれた笑い皺のせいだろう。


 泰治の姿を思い起こしても、九摩留にはなんの感慨もわかない。

 それはそうだろう。自分は泰治を直接知っているわけではない。

 この記憶は他人の記憶。しいて言うなら映画を観ているような感覚だった。


「しっかし……あんたも執着しすぎだろ」


 九摩留はどこか呆れたようにつぶやく。

 映画に映る人物は泰治ばかり。もちろん他にも大勢人間は映っているのだが、顔かたちはどれもぼやけていた。


 だから嫌でもわかってしまう。

 この記憶の持ち主は泰治のことが好きだった。

 好きで好きで仕方がなくて、だから彼が突然いなくなってしまったときは、その姿を追い求めて旅に出た。


 そうして何年もかけて足跡をたどり、やっと見つけたと思ったら――惚れた男には女ができていた。

 おまけにその女は人間ではなかった。


 だから彼は思った。なんなら安心さえした。

 これは泰治が魔性にたぶらかされているのだ。

 ちょっと見てくれがいいだけの傲岸不遜性悪女に騙されているだけなのだ、と。


 だがそう信じたいのに、泰治の女を見る目は安らいだ色をしていた。

 長年近くにいた自分でさえ見たことがないその色に、胸が軋んだ。

 女もまた泰治を見る目は少女のように無垢であった。


 深い絶望と悲しみ、そして自分勝手な怒りに呑まれて――男は二人の前から姿を消した。

 だが数年後、男はふたたび彼らの前に現れた。


 かつて泰治は生家を出奔する前に言った。

 あなたに恋慕を抱くことはできない。だが同じ男として小さい頃から憧れ尊敬していた。これからもあなたは唯一無二のかけがいのない友人である、と。


 あのとき自分は――いや、前世の自分はそれでいいと腹を決め、ずっと彼のよき友人であり続けると宣言した。

 それを勝手に裏切られたと感じて反故にするのはあまりにもだらしない。男がすたる。


 妻がいてもいい、子ができてもいい。

 この友情には誰も割り込めない。

 恋人になれなくても、家族になれなくても、生涯友としてあり続けよう。

 あらためてそう誓った。


 九摩留はそんな男を、かつての自分を誇らしいと思った。

 だが同時に可哀そうだとも思った。


 男はこの地に居を構え、泰治とともに農作業に精を出し、そのかたわら診療も行って最後まで彼の一番の相棒であり続けた。

 そして男が典薬寮――医学の専門機関で学んだ知識と技術のすべては泰治の子に託した。

 託したものは自分の知らぬうちに連綿と引き継がれて、今ではあかりが――泰治の魂を持つ娘がそれを継承している。


 なんという奇縁だろうか。

 きっとどこかの心優しき縁結びの神が、前世で結ばれなかった二人を憐れに思い、今世で二人を巡り合わせたに違いない。


「あかり……」


 娘に頬ずりしながら九摩留は思う。

 あかりが欲しい。嫁にしたい。

 自分のためだけじゃない。あの男の願いも叶えてやりたかった。

 今度こそ本物の家族となって、互いに愛し愛されたい――。


「…………ん」


 あかりがわずかに身じろぎした。九摩留はハッとして動きを止める。

 だがどうやら意識が戻ったわけではないらしい。それ以上は声もなく、甘えるようにこちらの首筋に顔をうずめてきた。


 ほう、と満足そうな吐息を感じて全身が痺れる。

 どろどろと理性が溶けていくのがわかって慌てて気を引き締めた。

 仕方なく密着していた身体をわずかに離すと、彼女はまるで追いすがるように自分から肌をくっつけてくる。


 いや、わかっている。これはあかりの意思ではない。

 凍えた身体が本能的に熱の塊を欲しているだけだ。

 自分くまるだとわかってやっているわけじゃない。


 それでも、この柔らかさときたらどうだ。

 熱を取り戻しはじめた彼女の肌からかぐわしい匂いが立ち昇り、脳が焼け焦げてしまいそうだ。

 手のひらで包みこめる華奢な肩。こちらの胸に密着した弾力のあるふたつのふくらみ。しなやかに湾曲する細い腰と、大胆に絡みつく柔らかな腿。

 意識するなというほうが無理だ。

 すでに下半身は痛いほど硬直している。


「くそ……どうすりゃいいんだよ、こんな……生殺しじゃねえか」


 このまま、あかりとひとつになりたい。

 だが無理やり繋がろうものなら、彼女は決して自分を許さないだろう。

 心の底から憎み恨まれ、そうしてあの笑顔も二度と向けられることはなく――いや、事後を気にする必要はないかもしれない。

 どうせ待ったなしで加加姫に殺されるはずだ。


 九摩留は悩む。ぐるぐる悩む。

 今の暮らしをたった一度の衝動で失うにはあまりにも惜しい。

 なにせこの世に生を受けてまだ四年ちょっとなのだ。まだまだあかりの手料理を食べたいし、電車にもまた乗りたいし、映画やデパートにもたくさん行きたい。

 獣になりきれない狐は悩みに悩んで、しかしハッと思いついた。

 

「……あてがうなら、いいのか?」


 そうだ、あてがうだけならどうだろう。

 それなら撫でる舐める突っ込むのどれにも該当しないし、かつて加加姫の前で交わした誓約にも引っかからないはずだ。


 なにせこちらは本気も本気、悪戯してやろうとはつゆほども思っていない。

 あかりの意識がない今なら嫌悪感や怯えも抱かれないだろう。


「そうだ。あてがうだけ……あてがうだけ……」


 あてがって、そして挟ませてみよう。

 そうすれば彼女に包まれている気分になれるかもしれない。

 なかには入れなくとも、きっとさぞ心地よいことだろう。


 九摩留は自分の腰に絡んだ脚をぐいと引き寄せる。娘の腹部に昂ぶりを押し当てる。

 布越しのわずかな摩擦に己が爆ぜてしまいそうだが、奥歯を噛んでやり過ごす。

 詰めていた息が次第に荒くなっていくも、あかりは起きそうになかった。


 男は慎重に下へとずらしていき、彼女の目が開く前にそこへ到ることを祈る。

 いける! そう思い下帯に手をかけたときだった。


「そこをどけ、狐」


 襖がサッと開かれ、無慈悲な声がかけられた。



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