12.親と子(1)
今回も三人称です!
「遅くなってすみません」
「いや、構わない。わざわざすまんな」
屋敷から自宅に戻った泰明が書斎に入ると、父の泰幸は奥の執務机から中央の応接机へやってきた。
まだ風呂はすませていないのか、浴衣ではなく着物姿のままである。
先の戦争で片目を負傷してからは黒い眼帯をつけており、その恵まれた体躯と片側の剣呑な目つきも相まってとても堅気には見えないが、彼こそ村人からの人望も厚い倉橋家当主その人である。
いつもであれば人懐こい笑みと愛嬌を絶やさないのに、今この場ではそれが皆無だった。
ただしそれは泰明も同じである。
向かいあってソファに座る二人の緊張感とよそよそしさに、紅茶を持って来た女中が逃げるように退散していく。
「今夜も屋敷へ行ってきたのか?」
非難の色がありありと浮かぶ声に、泰明はなんでもないことのようにうなずいた。
「はい。明日も明後日も屋敷に行くつもりです」
「用もないのに神の棲処へ行くな。それに村の者が誤解する。毎日通うのはやめろ」
「僕としては誤解してほしいのですけど」
「あのなぁ……。もう見合いの席も決まったんだ、少しは節度ある振る舞いをしてくれないか。相手方の耳に入ったらどうするつもりだ」
「なにか問題でも?」
相手を食ったような態度に泰幸の我慢も限界だった。拳で卓上を強く叩く。
「いい加減子どもじみた真似はやめろ!」
「あなたが僕を子ども扱いするのですから、お望み通りそのように振る舞っているだけですけど」
泰明は涼しい顔でティーカップをソーサーごと膝上に避難させ、紅茶を一口飲んだ。
「お忘れではないでしょうが、僕は種無しです。あなたの手駒には不適格ですよ」
世話役になるべく生まれた男子は非常に長命であるかわりに子種がない。世話役の任から外れようと、生まれ持った定めは変わらない。
自嘲めいた彼の言葉に、泰幸は息子がなにもわかろうとしていないことを悟った。
確かにこの縁談に政略的なところがなにもないわけではない。
ないのだが、それでも親の欲目抜きに彼の才能や将来を考えれば、これほど良い縁談も他にはなかった。
「……お前を手駒などとは思っていない。それに先方はお前の事情について承知の上だ。いいか、この縁談が決まればお前は東京の大病院の後継ぎになるんだぞ。大体、相手のご令嬢だって見ず知らずの他人じゃないんだろう」
泰明の眉間にしわが寄る。泰幸は構わずに続けた。
「お前の同期で、しかもかつては恋人だったそうじゃないか。一度別れた負い目はあっても、焼け木杭には火がつきやすいとも言う。こんな機会はもう二度とないぞ。お前の幸せを思えばこそ――」
「僕は立身出世に興味がありません。お金だって、日々の生活に少しの余裕があるくらいで十分です。何度も言っているのに、どうしてわかってくれないんですか」
「だが……」
「僕が欲しいのはあかりだけです」
泰明はまっすぐに父の顔を見つめた。
泰幸が束の間動きを止める。
「……言ったな、ついに」
これまで彼は誰の目から見ても明らかなのにもかかわらず、あかりへの想いをはっきりと口にすることはなかった。
それは倉橋の直系に生まれた者として政略結婚の覚悟をもっているからこその慎みかと思っていた。でもそれは思い違いだったらしい。
泰幸は右手で目元を覆うとソファの背もたれに深々と沈んだ。
「駄目ですか?」
「駄目に決まってる。どうしてあの娘なんだ……」
「父さんはあかりのことが嫌いですか?」
「嫌いなわけがない。いつも朗らかで気立ても良くて、それにお前をまともにして……医者になる道を作ってくれた子だ。気に入りこそすれ、どうして嫌いになれるかね」
父の言葉に青年はにっこりと笑う。
「それを聞いて安心しました。早速ですが、彼女に結婚を申し込もうと思います。もちろん医院を辞めるわけではないのでご安心を。医師として村に尽くしながら、屋敷に入って彼女とともに加加姫様のお世話をします。よろしいですね?」
「よろしくない。お前の話は一方的すぎる」
「では見解をお聞かせください」
「……お前はあの娘にふさわしくない。うちの愚息にはもったいないくらいだ。彼女にはしかるべき婿を用意する」
「それ、去年も聞きましたけど。進展はありましたか?」
渋い顔でなにも言わない父親に泰明はくすくすと厭らしく笑う。
「進展なんてないでしょうね。村の嫁に求められる条件は子供を産めること、野良でも家でもよく働くこと。あかりでは条件を満たせません」
泰明は紅茶をテーブルに戻すと脚を組んだ。
赤子の時から加加姫の神気を浴び続けたせいか、彼女にはいまだに生理がなかった。
そして彼女の片足は家事には支障なくても田畑で働くには無理がある。
また、家で働くとは夫側の家を切り盛りすることである。姫神の世話役を仰せつかっているあかりには無理なことだ。
それらの情報は、ここが大きい村であっても所詮は狭い世間である。
みんな表立って口にはしないが誰もが知るところであった。
「都会で夫を見つけるにしても、田舎の屋敷に婿入りなんてねぇ。それに神様のお世話というこの村以外では通用しないような役目――外から見れば風習あるいは因習というべきですかね、そんなことをしてくれる奇特な男なんていやしませんよ」
泰幸の片目が彼を制止するように睨む。
だが泰明は人を馬鹿にしたような調子で続けた。
「極めつきはその背中の焼印です。初夜で乙女の柔肌にそんなものを見つけたら、さてどうなるでしょうね? 結婚してもすぐに離縁されるのがオチではないでしょうか」
泰幸はソファから立ち上がると泰明に近づき、無言で彼の頬を殴った。
体重の乗った拳に青年の身体が傾ぐ。しかし彼はうめき声ひとつ漏らさない。
「お前は……よくもそんな酷いことを言えるな」
怒りに声を震わせる泰幸だったが、その顔に浮かんでいるのは悲しみだった。
息子の言うことはすべて真実だった。
だからこそ歯がゆくて仕方がない。彼女をよく知るからこそ、その境遇に同情せずにはいられなかった。
泰明が頬に手を当てて身体を起こす。
その顔にはなぜかほっとしたような柔らかい笑みが浮かんでいた。
「よかった。あかりを気に入っているのは嘘ではないようですね」
「お前……試したのか……」
唖然とする泰幸に、泰明は立ち上がって深々と腰を折った。
「気分を害してすみませんでした。でも、どうか彼女と一緒になることを許していただきたいのです。僕は同情からでも哀れみからでもなく、純粋にあかりのことを愛しています。あかりを幸せにするためにも、僕が幸せになるためにも。どうかお願いします」
「……自分の身が危うくなってもか?」
泰幸は言うつもりのなかった言葉を吐く。
焼印のことはだいぶ昔に泰明にも知られてしまっていたが、背負わされた穢れについては加加姫と先代世話役、倉橋の当主だけが知る秘密だった。
その穢れは瘴気を発し、やがて災いとなって周りの人間に危害を及ぼす。
先代は亡くなる少し前にあかりの穢れはほとんど消えていると教えてくれたが、ほとんどでは安心できない。
(親の気持ちも知らないで……)
あかりのことは大事に思っている。
だがそれ以上に泰明を大事に思っている。
息子の身に危険が及ぶかもしれないと知っているからこそ、どうしても素直に祝福することはできない。二人の結婚を認めるわけにはいかなかった。
すでに息子を一人戦争で失っているのだ。
過保護と言われようと、もうこれ以上家族を危ない目に合わせたくはない。
「あかりの穢れでしたら問題ありません」
彼の考えを見透かすように、泰明ははっきりと言い切った。
「……やはり知っていたか……」
父のため息交じりの声に泰明は思わず苦笑する。
「教えてもらうまでもなく、視える者ならすぐわかりますから」
彼女が二十歳になるまでその手首と足首、そして首にさえ巻かれていたもの。
それは常人には見えない加加姫の髪で作られた先代特製の紐だった。
泰明は聡い。おまけに拝み屋の知識も多少なりとも持っている。
背中や足の人為的な傷、生い立ちなどを鑑みれば彼女が穢れ払いに利用されたことは想像がついた。
そして姫神の髪で編んだ紐が瘴気の封印を果たしていることも。
そのため加加姫と先代に真摯に頼みこんでようやく教えてもらった秘密は、泰明にとって仮説の答え合わせにすぎなかった。
あらためて彼女の内に潜む危険性を知ってもなんとも思わないし、より覚悟ができただけの話である。
「父さん、僕の心配をしてくださるのは嬉しく思います。でも彼女の穢れは二十年以上浴びた加加姫様の神気で浄化できています。彼女には人を殺したり寿命を縮めるような力はありません。無害です」
向けられた瘴気にまっすぐ立っていられない程の力は残っているが、それは黙っておく。
「父さんが視えない以上それを証明することは難しいですが、どうか信じていただけませんか」
「……そうだな、わかっている。わかっているとも。しかし頭ではわかっていても感情が追いつかないのだよ」
泰幸は首の後ろをガシガシ掻くと腕を組んで黙り込んでしまった。
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