128.姫神様の怒り
おこもりが明けた加加姫様と九摩留はいつも夕方頃に屋敷に帰ってくる。
姫様はおこもりの間は飲まず食わずだから、わたしはいつも彼女の好物を夕食で出すことに決めていた。
今夜の献立は桜鯛のお刺身と炊き込みご飯、アサリの酒蒸し、菜の花の辛し和え、カブのみそ汁。お漬物は山東菜だ。
下ごしらえがすべてすむとお勝手の端に腰掛けてひと息つく。でもなんとなく落ち着かなくてすぐに立ったり座ったりを繰り返してしまう。
頭のなかでは葉月ちゃんに言われたことが――お仕置きという言葉が浮かんでは消えてを繰り返していた。
麗花さんとアキラさんの仲を取り持つために、わたしは勝手に村を出てしまった。
姫様はきっと怒っている。怒らせてしまったからにはどんなお仕置きであっても受けなければならない。
怖くても、大丈夫じゃなくても。腹をくくるしかない。
ふと気配を感じて腰を上げた。
屋敷の裏手にまわって、見えたものに思わず足が止まる。
「あれは……?」
見上げた先にあったのはまっ黒ななにかだった。
黒い霧のようなそれは瞬く間に眼前に広がって景色を飲み込んでいく。
「っ……なに、こ……れ」
黒いなにかに包まれた途端ひどい息苦しさに襲われた。自然と呼吸が浅くなり冷や汗が噴きだして――気がつけば膝を折っていた。
それでも身体を支えられずに地面に手をついてしまう。
震える身体をなんとか手で支えていると、視界の端に小さなつま先が現れた。
「わしがおらぬ間、外で大冒険をしたようだな」
静かで低い声。
そこにひそむ強い怒りに血の気が引く。言いようのない絶望感に視界が滲んだ。
いや、泣くな。
散々勝手をしたのだからこうなることはわかっていたはず。
もしこれで嫌われても――自分が招いたことなのだから、仕方がない。
「面をあげよ」
言われるまま顔をあげると、真っ暗な空間に神々しく白ずむ少女が立っていた。
屋敷を出発したときと同じ薄緑の地に水仙の咲く着物姿で。長い白絹の髪をゆらめかせて。白磁のような顔に燃えるような赤の瞳を灯して。
姫様は表情もなく、わたしをじっと見下ろしていた。
「よくも……よくもわしに黙って出ていったな」
「姫様……」
「そればかりかあの女を綺麗などとぬかし、わしの屋敷へあげ、抱きつかれてヘラヘラと鼻の下を伸ばしよる。この痴れ者が」
続いた言葉に状況も忘れてまばたきする。
あの女とは……麗花さんのことだろうか。鼻の下を伸ばすって……まさかわたしが?
「あの――」
「黙りや」
冷ややかな一言に口を閉じる。
それは違うと言いたかった。そのようなことはまったくなかったと釈明したい。
でも姫様は誰かを介してではなく、きっと自分自身の目と耳でその様子を見聞きしていたはず。
そのうえでそうと判断したのであれば、こちらがなにを言っても聞き苦しい言い訳になってしまうだろう。
「おまけにやっと村に戻ったかと思えばまたぞろ嫌な匂いをまといよる。他の女の匂いが染みついた衣を着るなぞ言語道断よ。なんという無神経さだ。この恥知らずの浮気者」
心の底から忌々しいと言わんばかりに姫様が吐き捨てる。
その浮気者という言葉に、ようやく彼女の一番の怒りを知った気がした。
これは――嫉妬だ。
麗花さんとアキラさんは、どうやら女性が好きらしい。それを見抜いた姫様は身動きできない状況もあいまって、ひどくやきもきしたのかもしれない。
無断の外出に限らず、わたしが考えなしにしたどれもが……彼女を深く傷つけていた。
山の神の嫉妬は非常に恐ろしいと聞く。
これはただのお仕置きじゃすまないかもしれない。
「なんぞ申すことはあるか」
「本当に……申し訳ございませんでした。いえ、もはやお詫びの申し上げようもございません。御心のすむまで罰を…………いいえ」
覚悟を決めよう。
わたしのしたことが姫様を――尊い山神の心を深く傷つけた。そのことで、わたしのせいで田畑の実りにも影響が出るかもしれない。
この責任を取る最良の方法はひとつしかない。
わたしはあらためて背筋を正した。
綺麗な赤い眼を見つめてから地面に手を添え深く頭を下げる。
「尊き御神の信頼を裏切り、己の軽率で不貞の疑を招いた始末。この命をもって償いとうございます。どうか自刃仰付けくださいますよう」
ザワ、と空気が揺れた。
それまで抑えられていた彼女の怒りがはっきりと感じ取れて、全身の毛が一気に逆立つ。
「死にたいということか?」
「わたしはもはや死を望んではおりません。世話役として……そして貴女様の嫁として、これからも生きることを望んでおります」
かつてのように死にたいと思っていたら、誘拐されたときにすべてを諦めていただろう。
でもわたしは生きたいと思った。絶対に生きて村に帰るのだと自分を奮い立たせた。
「なればこそ、この無価値な身に宿るなけなしの価値と信じ、不始末の責を負う覚悟にございます」
本当は死にたくない。
でも、もしも彼女の考えている罰が村からの追放だったら……それを聞く前に死ぬほうがいい。
もう捨てられるのはごめんだ。
それもわたしが大事に思い、思われていた方から捨てられるなんて、それだけは絶対に嫌だ。
そこまで思って、自分のしたことをようやく理解した。
もしかしたら姫様も――わたしに捨てられたように感じたのかもしれない。
「あかり」
強張った声に名前を呼ばれて、我慢していた涙があふれる。
だめだ。しっかりなきゃ。
それに――どうしてもこれだけは言わなきゃいけない。
これだけはどうしても姫様にわかってほしい。
「ひとつ……死出の前にお願いがございます」
袖で涙をぐいっと拭いて、あらためて声を出した。
「わたしがこの世で最も綺麗だと思うお方は貴女様ただ一人。そしてわたしがこの世で一番大事に思うお方は、女君は、加加姫様にございます。天地神明に誓ってそこに噓偽りはございません」
姫様よりも綺麗で美しいひとなんていない。
姫様よりも大事なひとなんていない。
「姫様……わたしの加加姫様。大好きな貴女に誤解されたままで死ぬのはなによりも辛いこと。どうかそれだけは信じて……」
サァ、と黒い霧が晴れていく。
瞬く間に明るさを取り戻す景色に思わず言葉を切ると――突然頭に強い衝撃が走った。
「この大馬鹿者が!!」
強烈な痛みに目がチカチカする。
と、肩をぐいっと押し上げられた。
目と鼻の先に現れた姫様の顔は真っ赤だった。
眉間を強く寄せて目元も険しく、唇をふるふると震わせている。
怒りの形相のそれは、なぜか今にも泣き出しそうに見えた。
「最初からそれだけ言えばいいものを! なのにおぬしは! なぜそうやって己の命を軽んじる! なぜ己の価値を見誤る!」
「しかし……」
「いい、もう言うな! それからその口の利き方は気に入らぬ! 即刻やめよ!」
「は……い」
真剣であることを伝えるために口調をあらためたのだけど、それがまた嫌な気持ちにさせてしまったらしい。
わたしはどうしてこうも、うまくやれないのだろう。
つい目線が下がるとぶっきらぼうな声で「来い」と命じられた。
「自刃だと? ふざけるのも大概にしろ。おぬしは我が嫁、我が世話役。そう簡単に死なせてたまるか」
姫様はぶつぶつつぶやきながら屋敷裏の井戸に行くと、そばに置いてあった手桶をポンプの先に置いた。
「物事がうまくいかぬとき心は淀む。淀みは腐となり澱となり、やがて凝って根差してしまう。そうなる前に洗心だ。百篇かぶって頭を冷やせ」
頭を冷やす。
心を洗う。
それはまさに今、わたしに必要なことだと思えた。
すぐに着ていた綿入れ半纏と緋袴、足袋を脱いで井戸脇の簀の子に乗る。
姫様が柏手を打つと手押しポンプが勝手に動いてたっぷりの水が手桶に注がれた。
それを取りあげて――頭上で一気にひっくり返す。
「――――ッ」
一瞬、呼吸を忘れた。バシャバシャと音を立てて冷たい水が降り注ぐ。
でもすぐに手桶を戻して、また頭上でひっくり返す。
白衣は二度目の水ですべて濡れた。歯の根も三度目で合わなくなった。
二月も終わりとはいえまだまだ寒さの残る時期、それも夕暮れ時。身体は竦みあがって震えが止まらなくなる。
それでも、水を浴びる。
強張って鈍くなる腕を必死に動かして、水を浴び続ける。
反省や謝罪の気持ちは言葉になる隙もなく水に流されて、寒い! 冷たい! という叫びだけが内側にこだまする。
でも、いつしかその叫びも消えていた。
寒さも冷たさもなくなって、乱れていた気持ちがどこまでも凪いでいく。
かすかな葉ずれの音や手押しポンプの先から落ちる雫が鮮やかに目や耳に飛び込んでくるようで、まるで自分の輪郭があいまいになって自然とひとつになるかのような、不思議な感覚だった。
だからなのか、その動物が呼吸を荒げながら近づいてくる様は手に取るように感じ取れた。
動物は屋敷裏の急な傾斜を転げるようにして降り、藪を突きやぶって現れる。
黄褐色の狐――九摩留だ。
よほど急いで走ってきたのか狐はオエッとえずきながらこちらを見て、すぐに姫様に顔を向けた。
瞬きひとつで狐の姿が作務衣姿の男へ変化する。
「はぁ、ひめっ……なに……して」
「見ればわかろう。水浴びだ。あと六十七回」
「やめろ……。こいつ、あかりだ。あいつじゃ……ない」
ゼイハァと男の荒い息が少しずつ収まっていく。
九摩留はわたしに背を向けたまま姫様と対峙した。
「お姫、やめてくれ。あかりがお前以外に……他の女に目移りするわけないだろ」
「そんなことは百も承知だ。だからこの程度にしておるのだ」
「この程度って……!」
手から桶がすべり落ちた。
簀の子に当たって激しい音を立てて、それに九摩留がビクッと反応する。
振り返った顔はひどく心配そうだった。
大丈夫だよ、と言ったのに歯の鳴る音で言葉にならない。
九摩留は駆け寄ってくるとわたしの身体を抱きしめた。
濡れちゃうよと言いたいのに、口が思うように動かない。喋ることができない。
「あかりよ、おぬしはそこに跪け。これから九摩留が水をかける」
「ババア! いい加減に――」
「く、ま……やっ……ねが」
ようやく声が出せた。
震える手で作務衣を掴んで、やって、と目で訴える。
これは決して罰じゃない。曇った心を水で清めているのだとわかる。
ずっとざわざわしていた心が、今は驚くほど透明になっている。
わたしはこれを最後までやり通したい。
「あかり……」
「へ……き、やって……!」
九摩留はこちらをじっと見て、それから顔つきを変えた。唇をきゅっと引き結び、どこか強張った表情でわたしを簀の子に座らせる。
冷たい水が頭上にザバッと降り注いだ。