127.名前の由来(後)
静かな部屋で、二人きりで。
でも不思議と緊張はなかった。
柔らかい空気に包まれて、なんだかしみじみと幸せを感じる。
泰明さんがわたしの手を撫でながら、ふと目をあげた。
「あかりはさ。もしかしたら、今頃はお姫様とかお嬢様って呼ばれてたかもしれないね」
「は…………?」
まったりした空気がとんでもない台詞で破られる。
自分でも目を剥いているのがわかった。青年はこちらを見て楽しそうに笑っている。
「つまり君は高貴な生まれでさ。ある日突然、悪人に攫われて凶手にかかったのかもしれないってこと」
「悪人に攫われて……」
ふと先日のとんでもない出来事が頭をよぎる。
わたしはついこの前、人生初となる誘拐を経験した。でもそれは、実は初めてじゃなかった……?
思わず顔の前で手をパタパタ振る。
「いやいやいや。そんなまさか」
「まさかじゃないかもよ? だって真実は誰にもわからないんだから」
否定しても泰明さんはふんわり微笑む。
笑っているけど、からかっているわけじゃなさそうだった。
とはいえそんなおとぎ話みたいなこと、あり得るだろうか。
確かに真実は誰にもわからないけど、そんなことは今まで想像さえしたことがなかった。
わたしは本当は親に捨てられたんじゃなくて……別の誰かによって捨てられた?
もしそうだとしたら、わたしはいらない子じゃなかった?
嫌われたからじゃなくて、不吉だからじゃなくて、本当にただただ運が悪かっただけ?
――わからない。
普通に考えたら、そんなことはきっとない。そんな都合のいい話なんて起こりっこない。
でも、絶対にされるはずがないと思っていた誘拐だって実際に起こってしまったのだから……もしかしたら、もしかするかもしれない。
隣でふっと笑う気配があった。それでいつの間にか視線を落としていたことに気づく。
泰明さんを見ると、彼は穏やかに笑ってこちらの手をぽんと優しく叩いた。
「誰にもわからない以上はそんなふうに考えたっていいんだよ。考え方ひとつ、気の持ちようひとつで苦しまずにすむんだったら、そうしない手はないよね」
「……泰明さん。いっそのこと明るいを優しいに変更して、泰優って改名してください」
思わずそう言うと彼はむむっと眉を寄せた。
繋いだ手を強く握られる。
「それは嫌。ずっとあかりとお揃いでいる」
「ふふ、ありがとうございます」
素直にお礼を言うと、青年は機嫌が戻ったようでうれしそうに目を細めた。
彼の言う通り、そういうことにしておけば――わたしはすごく救われる。
その想像ひとつで身体中に絡まっていたものがするするほどけていくようだった。
暗がりを優しく照らす明かり。
それはわたしじゃなくて泰明さんのことをいうのだと思う。
心を慰めてくれる暖かな標だ。
「あ……もう時間か」
泰明さんが残念そうにつぶやく。
階下から院長先生の呼ぶ声が聞こえていた。どうやら二人の甘い時間が終わったらしい。
彼は繋いでいた手をわずかに見つめたあと、そっとほどいた。
「行こうか」
「はい。あの、泰明さん」
「ん? なぁに?」
青年に続いて立ち上がると、彼はこちらを振り返ってちょっとだけ小首をかしげる。
そういえばまだ小さかったとき、泰明さんのあとを追いかけていると今みたいに振り返って小首をかしげる仕草をしていた気がする。
いつも無言だったけど、でも、いつも気にかけてくれていたんだ。
「あの……いえ、やっぱりなんでもないです」
「そう?」
自分でもなにを言おうとしたのかわからなかった。
泰明さんはいぶかしそうにするわけでもなく、ドアに軽くもたれてふわりと微笑む。
行こうか、と言ったのに部屋を出る様子はなくて。それでこちらの言葉を待っているのだとわかった。
彼を意識するようになったのはいつからだろう。
一緒に暮らしていた頃は、わたしはよく泰明さんのあとをついて回っていた。
いつも静かだけど時々本を読んでくれるお兄さんで、大好きな家族のひとりだった。
でも離れて暮らすようになってからは村で姿を見かけることさえなくなって。
彼がたまに帰省したときは姫様への挨拶で屋敷に来てくれたけど、そこで言葉を交わすこともほとんどなくて。なんとなく距離を感じる親戚の一人になっていた。
お医者様として村でふたたび暮らすようになってからは道端でばったり会うことも多かったけど、それでもなにか話をしようとするとお互い誰かに呼ばれてしまって。
結局まともに話したことなんてなかったように思う。
ただ――その頃から彼の端正な容姿や艶やかな笑顔に目を奪われるようになって、外に出たときにはついついその姿を探すようになっていた。
泰明さんがなにかと屋敷を気にかけてくれるようになったのは、お母さんお父さんが立て続けに亡くなってからだと思う。
いつも忙しいだろうに用を作っては屋敷に来てくれて、励ましの言葉やいたわりの言葉をたくさんかけてくれた。それにどれほど救われたことだろう。
悲しみのどん底でも屋敷のみんなが前を向けたのは、彼の支えがあったからだと思う。
そうして今、毎日会ってお喋りするようになって。
思いやりや優しさにあふれた考え方、たまに垣間見える子どもっぽさ、家族への愛情深さに触れるたび――どうしようもないほど惹かれてしまう自分がいた。
その見た目は綺麗で美しいけど、それよりもずっとその中身こそが輝いているのだとわかる。
「今日は……ありがとうございました」
本当は――あなたが好きですと言いたかった。
でもそれは胸の内にとどめて、わたしはお礼だけを口にした。