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125.化粧

「しっかし……世話役に美しさは必要ないときたか。先代殿は本当に堅物というか心配性というか」


 自分の髪を一本抜くと席に戻った院長先生があきれたような声を出す。そちらを見ると、彼は両手を顔の前にかざして指先にふーっと息を吹きかけていた。

 その爪にはうるんだような輝きがある。


「あかりちゃんはお化粧も苦手かい? 興味はない?」

「えっと……。興味はあるかもしれません」


 以前はあまり興味がなかったけど今は違った。

 自分でやるとどこか違和感があったお化粧は、姫様に施してもらったときには驚くほど顔が変わって、それはもう衝撃的だった。華やかだけどけばけばしいわけじゃなく、上品で大人っぽくて。自分でもこんな風に綺麗になれるのかとワクワクした。


 またあんなお化粧をしてみたいと、今でもたまに思うことがある。

 でもそんなとき、同時にお父さんの言葉も思いだす。


 成人してからお化粧解禁になったものの、それだって実は姫様とお母さんがお父さんに言い含めたところが大きい。つまりお父さんは本当はお化粧をよしとしていないのだ。

 友達や姫様に言われてお出かけのときには軽くお化粧をするようになったけど、そのときもお父さんからはなにか言いたそうな目を向けられていた。


 ふいに肩をポンと叩かれる。

 そちらに顔を向けると澄子さんがとてもいい笑顔でネイルエナメルの小瓶を差し出してきた。


「さぁあかりちゃん、ちゃちゃっと準備しちゃいましょ。ネイルエナメルは蓋の内側にブラシがついてるから、蓋を外したらこうして瓶から引き抜くときに縁で軽くしごいてあげて。そうするとブラシについてる余分な液が落ちるから。ほら、やってみて?」

「こうですか?」


 彼女の手元を参考に見よう見真似でやってみる。

 黒いブラシにふっくりついた桜色が、とろりと瓶のなかへ落ちていった。


「反対側も同じようにして……で、ここに薄くぬると。こんな感じでいいのかしら、先生?」

「ええ、それで大丈夫です」


 澄子さんのガラスプレートを見て正面に座る泰明さんがうなずく。

 わたしもガラスプレートにひと筆、ふた筆とブラシを滑らせる。ほとんど透明に近いピンク色部分へ抜いた髪をそっと載せると、青年が小さくうなずいた。


「あとは乾くまで待ちましょう。ネイルエナメルが完全に乾いたら髪をはがして、完成です」

「それじゃあかりちゃん! 待ってる間に一緒にマニキュアしてみましょうか」

「えっ」


 澄子さんが目を輝かせながらこちらに向き直る。

 すると正面と反対側で椅子がガタッと鳴った。


「よし、そんじゃ俺たちはあっちで片付けでもするか」

「そうですね。本棚も誰かさんのせいでぐちゃぐちゃですし」

「あ、じゃあわたしも手伝いを――」

「あかりちゃんはそこでゆっくりしていなさいね」

「そうそう、男たちのことはいいからいいから。ほら、さっきと同じようにブラシにエナメルをつけてみて? そしたらこうやって……」


 いいのかな、と申し訳なく思いつつ澄子さんに意識を向ける。

 机に載った彼女の左手、その人差し指の爪の付け根にブラシが置かれた。見ているとスッと一本の縦線が引かれ、その左右にも同じように線が引かれる。

 澄子さんの爪が優しいミルクティー色に染まった。


「本当はヤスリやトップコートを使って表面を整えるといいんだけど、今は簡単にね。さ、やってみて」

「はい」


 促されて、緊張しながらもはじめてのマニキュアを試してみる。

 一枚の爪が桜色に染まると、止めていた息をふぅっと吐いた。


「お化粧って面白いわよね。眉の形ひとつでも相手に与える印象をガラリと変えちゃうんだから。それに自分の気持ちまで変えちゃうし」


 澄子さんが爪をぬりながら目を細める。


「私ね、お化粧って魔法だと思うの」

「魔法ですか?」

「そう。なりたい自分になる魔法で、自分を奮い立たせる魔法で……自分を守る魔法でもあるわね」


 喋りながらも澄子さんは四枚目、わたしは三枚目の爪が仕上がる。


「先代様は世話役に美しさは必要ないって言ったかもしれないけど、それは必要以上に華美にするなってことじゃないかしら」


 彼女は顔をあげるとほほえんだ。


「私だって、毎日晴れ着でお洗濯するのは違うと思うし、おしろいや香水の匂いをぷんぷんさせながら料理するのもどうかと思うわ。日常と非日常の使い分けっていうのかしら……だから場面場面で自分に似合う適度な装いをするのがいいと思うの」


 澄子さんとわたしの爪がすべて色づいた。

 今度は院長先生がしていたように、二人で爪に息を吹きかける。

 

「私や葉月ちゃんはお客様と接することが多いから軽くお化粧するし、本家の女中さんたちもそうじゃない?」

「あ……そういえばそうですね」


 みんな普段はお化粧していないように思っていたけど、よくよく思い返すと澄子さんや葉月ちゃん、それに本家で働く女性や奥様もごく薄くお化粧をしていることに気づく。

 そしてみんなお出かけなどの特別な日にはお化粧も服装もビシッと決めてくる。


「適度なお化粧は顔を健康的に見せてくれるし、場合によっては身だしなみのひとつにもなるのよ」


 言いながらこちらを見る澄子さんの視線が動く。


「あかりちゃんの眉、自然に見えるけどちゃんと手入れしてるわよね」

「あ、はい」


 姫様に教えられてするようになった眉の手入れは、中学を卒業してからずっと続けているものだった。

 もともと太くて濃かった眉はちょこっと抜いたり切ったりすることでほどよくなり、とてもすっきりとしている。

 やりはじめた当初は雰囲気が変わったとよく言われたものだ。


「それもお化粧のひとつだって気づいてた?」

「えっ、そうなんですか?」

「あれこれ塗ったり描いたりするだけが化粧じゃないってことね。特に眉はちょっと手入れするだけで野暮ったさがなくなるから結構重要よ。でも眉を整えたからって華美になったとは思わないでしょ?」

「確かに、そうですね」


 そうやって聞くとなんだかお化粧に対する印象も変わる。

 自分を飾り立てて美しく見せようとするもの――それがお化粧の役割だと思っていた。


「だからね、お化粧することを後ろめたいって思っちゃ駄目よ。加加姫様だって自分のお世話をしてくれる人が綺麗だったら嬉しいはずなんだから」

「……はい。ありがとうございます」


 そういえば以前、わたしにお化粧してくれた姫様はやけにご機嫌だった。なんならとても喜んでいたように思える。

 姫様とお父さん――どちらを優先させるかとなれば、それは当然姫様だ。 


 澄子さんの言うように日常と非日常の使い分けは大事だから、普段はお化粧を控えるとしても、お休みの日には時々洋服や着物に着替えてお化粧の練習をしてみるのもいいかもしれない。

 そう思ったのがわかったのか、澄子さんの目に熱がこもった。


「お化粧でわからないことがあったらなんでも聞いてね。これでも多少の心得はあるつもりだし、今時のお化粧だってちゃんと雑誌読んで勉強してるんだから」

「いいないいな~俺にもお化粧教えてよ~ん」


 話を聞いていたのか、両手に本を載せた院長先生が素早くこちらにやってくる。


「あなたは別にしなくていいでしょ」


 澄子さんが面倒くさいといわんばかりの声を出すと、院長先生はしなを作り流し目をよこした。


「あらいやだ。それってつまり、しなくていいくらいアタイが美しいってことかしら?」

「お黙り。それを言っていいのは泰明ちゃんだけよ」


 急に名前を出された青年は本棚のそばから曖昧な笑みを向けてくる。

 院長先生はちぇっと口を尖らせて、でもどこか不敵な笑みを浮かべた。


「ところで澄ちゃん、君は男心をわかっていないようだね。先代殿が憂いたのはもっと単純なことだと思うぞ」

「もっと単純? なによそれ」

「だってあかりちゃんが美しくなったら男がうじゃうじゃ寄ってきちゃうだろ。男親なら大事な娘に悪い虫がつかないか、そりゃあ心配するもんさ」


 院長先生がわたしを見てにっと笑う。


「世話役だなんだと言ったって結局はそんなところだろ。あかりちゃんは確かに世話役かもしれないが、それでも万事控えめが過ぎる。君はもう少し自分を自由にしなさい」


 そう言うと本棚に戻り何事もなかったように本を入れはじめる。

 隣の泰明さんがわたしを見て、その通りだというように深くうなずいた。


 大事な娘。

 その言葉に胸が熱くなる。

 お父さんがわたしをどう思っていたのかはわからない。でももしそう思ってくれていたのだとしたら……なんだか泣きたくなってしまう。


「あの人もたまにはいいこと言うわね」


 澄子さんが神妙な顔でつぶやいた。

 それがなんだかおかしくて、澄子さんと顔を見合わせると二人でこっそり笑いあった。


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