124.倉橋医院のラボにて
姫様のおこもりが明ける日の前夜。
わたしと泰明さんは院長先生夫妻の自宅ですき焼きをご馳走になったあと、医院の二階にある一室へお邪魔していた。
はじめて入るその部屋は縦に長い大部屋で、一端の壁には小さな黒板が掲げられていた。
廊下側の壁には一面に本棚が、反対側の壁には窓にそって学校の会議室にあるような長机がずらりと並んでいる。その上には分厚い本やノート、顕微鏡や大きな鍵付き木箱、謎の機器類が所狭しと置かれていた。
「すみません院長先生、無理を言ってしまって」
「ぜーんぜん! 化学クラブみたいで楽しいじゃん。おじさんそういうの大好きよ」
院長先生はそう言うと隣の澄子さんと顔を見合わせて笑った。
夕食の際、顕微鏡で髪の鱗を見るという話をしたら二人も見てみたいとのことだったので、鍋を囲んだ全員がこうして勢ぞろいしていた。
泰明さんが荷物をどかして机を一台、黒板に向き合うように置く。
続いて院長先生が椅子を三つ並べると、澄子さんがそれぞれの席にスライドガラスとガラスの小瓶を置いていった。
促されてわたしが真ん中の席に座ると、右に院長先生、左に澄子さんが腰を落ち着ける。
「とっても綺麗ですね、これ」
「それはネイルエナメルよ。見るのは初めて?」
「はい」
泰明さんが黒板に書きものをしているのを気にしつつ、自分の前に置かれた小瓶をじっと眺める。
ガラス越しに見える中身は桜のような優しいピンク色。澄子さんのはミルクティーのようなベージュ色で、院長先生のは無色透明だった。
瓶の表面には黒の筆記体で英語らしきものが書かれていて、なんだかとってもおしゃれな感じがする。
ネイルエナメルはマニキュアという爪化粧の道具だったはず。
この場には似つかわしくない存在で、ちょっと首をかしげたくなる。
「それでは髪の表面がどうなっているか、みんなで観察してみましょう」
泰明さんがチョークを持ったまま振り返った。
黒板には綺麗な字で『スンプ法(Suzuki's Universal Micro-Printing method)』と書かれていた。
「髪の表面を直接見るには特殊な顕微鏡が必要になります。ここにあるのは普通の顕微鏡なので、今回はスンプ法で髪表面の型を取り、それを観察していきます」
アルファベットの大文字部分に下線が引かれる。大文字部分を拾ってSUMP法というらしい。
肝心の顕微鏡は懐中電灯とともに院長先生の前に置かれていた。
「スンプ法は直接の観察が難しいものでも、その表面の形状を写し取ることで簡単に観察ができる方法です。通常型取りには酢酸アミルとセルロイドを使いますが、今回はもっと簡単にネイルエナメルとスライドガラスを使うことにします。ネイルエナメルは澄子さんからお借りしました。どうもありがとうございます」
「どういたしましてー」
青年が頭を下げると隣で楽しそうな声があがる。
「それじゃあ皆さん、自分の髪を一本抜いてください。それぞれ自分の前に置いてあるスライドガラスにネイルエナメルを薄くぬって、そこに髪を載せましょう。ここまでなにか質問はありますか?」
「「ハーイ」」
泰明さんの問いかけに、わたしの両隣でパッと手が挙がった。
「澄子さん、どうぞ」
「先生ってー好きな人はいるんですかー?」
てっきり観察に関する質問かと思ったのにまるで違う質問が飛びだした。
思わず澄子さんを見ると、彼女はわたしに向かって悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「はい。いますよ」
思わず前を向くと、彼は質問した澄子さんではなくなぜかわたしを見つめていた。
「先生の好きな人ってどんな人ですかー?」
「暗がりを優しく照らす、明かりのような女性です」
明かりという言葉に心臓が大きく跳ねる。
つい身体を揺らすと泰明さんが優しく微笑んだ。
「先生ハイ! ハイハイハーイ!」
「……そこの人どうぞ」
「先生は利き手派ですか、そうじゃない手でする派ですか?」
院長先生も観察以外の質問だった。でもその質問内容は謎だ。
泰明さんも同じように思ったのか、目がどことなく冷ややかになる。
「質問の意図がわかりません。お答えしかねます」
「んもー先生ったらしらばっくれちゃってぇ。どっちの手でシゴッ!」
突然院長先生が頭を抱えてうめく。
いつの間にか澄子さんが院長先生のうしろに立って拳を握っていた。
青年がひとつ咳払いする。
「あかりさんは、なにか質問ありませんか?」
穏やかな表情に戻った泰明さんがわたしに声をかけてくれる。いつもと違う呼び方や話し方が少しだけくすぐったい。
この流れでいくなら、勉強以外の質問をしてもいいということかな?
「えっと、じゃあ……先生の好きな色はなんですか?」
二人にあわせて先生と呼んで質問すると、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「明かりを思わせるような暖かみのある色が好きです。ただし赤や橙は除きます」
またもや明かりと言われてドキッとする。
いや、彼は別にわたしのことを言っているわけではないし、自意識過剰もいいところなわけだけど……それでもちょっとソワソワしてしまう。
「あ、赤はダメですか? とっても素敵な色だと思うんですけど」
赤といえば加加姫様を連想させる色のひとつ。
思わず聞き返すと彼は困ったように笑った。
「駄目ではないですが、一番好ましいのは黄色ですね。ヒヨコや菜の花のような明るくて優しい黄色とか……。ではそろそろやってみましょうか」
話しながら泰明さんが近くの椅子を持ってこちらにやってくる。
隣でなにか話をしていた院長先生と澄子さんも席に座り直した。
「そういえばあかりちゃんて髪油をつけないわよね」
顔の横の毛を引き抜こうとすると、澄子さんがこちらを見ながらふとしたように言った。
確かに髪油は女性にとって必需品。昔のように髷を結わなくたってみんな年頃になると美しい髪を手に入れるべくお手入れをはじめていた。
そんな彼女たちからするとわたしは風変りに見えるのかもしれない。
「これは父の言いつけがありまして。世話役に美しさは必要ないということで、髪油やお化粧とか……華美なものは全般ダメだったんです。そのかわり清潔感や身だしなみにはすごく厳しかったんですけどね」
答えた途端、正面と両脇からなにか言いたそうな空気が漂ってきてちょっと慌てる。
「あっでも一応、成人してからはどちらもいいってなりましたよ? ただわたしの場合はずっと使ってこなかったので……だから普段はつけないほうが楽かなーなんて」
「確かに慣れないとそうかもね」
澄子さんは納得したようにひとつうなずく。
そんな彼女はショートヘアーと呼ばれる短い髪をしていた。そこにはもちろん髪油特有のうるんだ艶がある。
緩くかけられたパーマと綺麗な艶があいまって、ともすれば少年のように見えそうなのにとても優美な印象がある。
「やっぱり髪油は普段からつけてたほうがいいでしょうか?」
なんだか急に自分の髪が気になってきて澄子さんに小声で尋ねる。
彼女は一瞬きょとんとしてから慌てたように首を横に振った。
「ごめんなさい、私ったら余計なこと言っちゃったわね。あかりちゃんの髪ってまとまり良さそうだし、パサついてる感じもないし。まだそのままでいいんじゃないかしら」
そこでなにか思いついたように大きな笑顔を青年に向ける。
「先生はあかりちゃんの髪、どう?」
「ちょ、澄子さ――」
「僕もそのままでいいと思います」
正面に座る泰明さんはこちらの頭部に視線を向けながら目元を和ませた。
「自然な艶があって綺麗ですし、なでてもべたつかなくて気持ちいいからずっと触っていたくなります。もちろん、この前みたいに椿油をつけて結いあげた髪もすごく素敵でしたけど」
「あらあらまぁまぁ」
いろいろ誤解を生みかねない言葉に澄子さんがにまにま笑う。
例の噂はまだ消えていないらしい……。
「とにかくね、つける必要がなければつけなくて大丈夫よ。ただ髪って年とともに変わってくるから……パサついたりボサボサしてまとまりにくくなったら普段からつけてみるといいかもしれないわ」
「そういや泰明、お前もポマードやチックの類はつけないよな。なんでだ?」
澄子さんの言葉にうなずいていると、隣で院長先生が顔をあげずに問いかけた。
見れば彼は自分の爪にネイルエナメルを塗っているところだった。
そういえば泰明さんはいつも前髪を垂らしたままにしている。多くの男性は髪を短く刈るか前髪を後ろか横になでつけて固めるから、ちょっと珍しい髪型といえるかもしれない。
「僕も慣れないというか、ああいったものはちょっと苦手なんです」
「んー? でも学生の頃はきっちり髪上げてたよな」
「それは、そうしないと怒られるからですよ。でももう学生じゃありませんし、ここでは怒るような人もいないですし。前髪を下ろしてるほうが若々しく見えていいじゃないですか」
彼の言葉に院長先生はにやりと笑う。
「ははん、若作りの秘訣ってわけだ。じゃあ俺も前髪下ろそうかしら……あかりちゃんどう思う?」
「雰囲気がガラリと変わりそうですね。きっとその髪型もお似合いだと思います」
「そぅお?」
院長先生はにっこり笑い、今度は澄子さんに目を向けた。
「じゃあ明日からそうしようかな。澄ちゃんはどう思う? 前髪あったらかっこいい?」
「やるなら長さを整えてからにしてよ。あなたは前髪長いんだから、診察の邪魔になるでしょ」
「えー切っちゃっていいのぉ? 澄子は俺の前髪うしろに掻き流しながらごめんなさい!」
言葉の途中で逃げる院長先生を澄子さんが追いかけて叩く。
やっぱり二人は仲が良い。見れば泰明さんも苦笑していた。
その顔を見つめながらふと思う。
そういえば泰明さんは、学生時代より今のほうがむしろ若く見える。
学生時代の彼は前髪を上げていて、それにその当時はどこか硬い雰囲気だったからちょっとだけ怖い感じもして。話すときはいつも緊張していた気がする。
今の泰明さんが前髪を上げたらどんな感じだろう――と想像して慌ててそれを打ち消した。
想像のなかの青年は大人の色気がとんでもないことになっていた。現実でそれを見たらとても平静でいられる自信がない。
気を紛らすべく、わたしは髪を一本ぷつっと引き抜いた。