122.解放
懐中電灯ひとつの暗い部屋のなかで、わたしとアキラさんはじっとうずくまっているしかなかった。
あの血も凍るような凄まじい悲鳴は長い間断続的に続いていたけど、少し前からぴたりとやんでいる。
そのかわりに人が出入りするような音や女性のわめき声、絶望を感じさせる泣き声がしばらく続いて――なぜか運動会で聞くような号砲が鳴り響いた。
そうしたものも今ではすっかり静かになって、アキラさんの小さな泣き声だけが聞こえている。
部屋の外でなにか恐ろしいことが起きている。それはもう疑いようがなかった。
人身売買で外国へ売られてしまうかも、なんて考えていた頃が懐かしい。まだそっちのほうがマシだと思えてしまう。
わたしたちもそのうち外にいる人と同じ目に遭わされるのかもしれない。
そして最後は……殺されてしまうのかもしれない。
誰がなんのためにそんなことをするのかはわからない。でもこの状況ではもはやそれしか考えられなくなっていた。
「やだ……死にたくない……麗花ぁ」
アキラさんはすっかり怯えきってずっと泣いている。
親ではなく麗花さんを心のよすがにするほど、アキラさんは彼女を愛している。麗花さんだってアキラさんを深く愛しているのに。
このまま……このままわたしたちは――。
また思考が暗くなるのがわかって、わたしは頭をぶんぶん振った。
悪い考えはダメだ、まだ死ぬと決まったわけじゃない。生きる希望をなくしたら救いのチャンスも見逃してしまう。
そうだ、わたしはまだ死ねない。
姫様と泰明さんの祝言を見届けるまでは死にたくない。それにわたしの死に場所は姫様の口のなかと決めている。それ以外で死ぬわけにはいかないのだ。
「アキラさん、しっかりしてください。必ず生きてここを出ますよ」
ようやく外が静かになったおかげでこちらの声が届いたらしい。
彼女は膝から顔を離して震える声を出した。
「無理……絶対無理。きっと私、ここで殺されるんだわ。二人とも……ここで死ぬしかないのよ……」
「そんなこと言っちゃダメです。ほら、もっといいことを考えましょう? ここから出たら、アキラさんはなにがしたいですか?」
アキラさんはなにも言わない。
うん、そうすぐには切り替えられないよね。
「わたしは、えーっと……そうですねぇ」
自分でも考えようとすると、真っ先に泰明さんの顔が思い浮かんだ。
彼とは昨晩も会っている。なのになんだか長いこと会っていないような気がしてしまう。
今すぐ泰明さんに会いたい。顔を見て声を聞いて、安心したい。
「わたしは……早くここを出て、必ず夕飯までに村に戻って、泰明さんと一緒にご飯を食べます」
力を込めて、そう宣言する。
本家で出される料理の数々、それはどれもすごく美味しい。今夜も美味しいご飯が待っているのに、そして泰明さんと一緒に食事ができるというのに、それを逃すだなんてとんでもない。
必ず泰明さんとご飯を食べて「おいしいね」と笑いあうのだ。
そこでふと大事なことに気がついた。
今の言葉はまるで二人きりで食事するみたいに聞こえたかもしれない。
「えっと、もちろん泰明さんだけじゃなくて他にも葉月ちゃんとか奥様とか倉橋様とかも一緒にですよ? みんなでわいわいお喋りしながら、おいしいねって食べるのであって」
咄嗟に補足するも、アキラさんはあまりピンときていないようだった。
しゃくりあげながらもぼんやりした目でこちらを見ている。
「アキラさんは、ここを出たらどうしたいですか?」
もう一度優しく尋ねると、アキラさんは袖で目元をぬぐった。
「麗花に……会いたい」
「それはいいですね。麗花さんも、アキラさんに会いたがっていましたよ」
「……一緒にお風呂入る……」
「お……お風呂もいいですねぇ。いつも一緒に入ってたんですか?」
一瞬小さな湯舟に二人が浸かっている姿を想像をしたけど、そうじゃなくて一緒に銭湯に行くという意味だろう。
アキラさんはこくりとうなずくと抱えた膝に頬をつけた。
「もう、ずっと、あっちもしてない」
「ははぁ……? じゃあここを出たら、久しぶりにそれをしてみるのもいいかもしれませんね。ちなみにその、あっちというのはどういうものなんですか?」
「……あ、あっちはあっちに決まってるでしょ」
「あっちはあっち……」
「…………あんた本当に意味わかんないの?」
「すいません……」
アキラさんがこれみよがしに大きなため息をつく。
「寝るってことよ」
「あ、寝る! なるほど、いつも麗花さんと寝てらしたんですねぇ。二人は本当に仲よしですね」
「…………寝るの意味、本当にわかってんの?」
「もちろんわかりますよ。わたしだって姫……えっと、わたしがお仕えしている方とたまに寝ますよ? 最初は粗相をしたらどうしようってすごく緊張しましたけど……慣れるとすごく楽しいというか嬉しいというか、心が満たされる感じがして。幸せなんですよね」
よだれを垂らしながら寝てるところを見られたらどうしよう、いびきや寝言でうるさくしたらどうしよう、うっかり蹴ったりしてしまったらどうしよう、と。
最初はそれはそれは緊張したものだ。
ふとアキラさんがいぶかしそうに顔をあげた。
「ちょっと待って。お仕えしてる方ってなに? ていうかあんた好きな人いるんでしょ? なのになんでその人と寝るの?」
「えっとですね、わたしは女中さんみたいな仕事をしてるんです。で、主からお願いされてたまに一緒に寝てるんです。ちなみにその方もわたしの大好きな人でして……ほら、以前話したじゃないですか。わたしの好きな人には他に好きな人がいるって。その、他に好きな人というのがわたしの主です」
アキラさんの頭に?マークがいくつも浮かんでいるのがわかる。
「その主って……もしかして女?」
「見た目は小学生くらいの、とっても可愛らしいお姫様です」
「つまりただの添い寝じゃない」
「そうとも言いますね」
アキラさんが疲れた顔で大きなため息をつく。
「ほんと……あんたと喋ってると気が抜けるわ……」
そう言う彼女は口の端を小さく上げる。よくわからないけど緊張がわずかにとけたようだった。
でもその気配はすぐに強張る。部屋のすぐ外でガチャガチャと音がしていた。
慌ててアキラさんを無理やり立たせ部屋の隅へ下がる。と同時に唯一の扉がゆっくりと開かれた。
すかさず懐中電灯で照らすと、あの凶悪な人相の大男がまぶしそうに目を細めてなかへと入ってきた。
「ちっ、近づかないでください! 近づいたら殴りますよ!」
背にかばったアキラさんへ懐中電灯を預け、わたしは用意していた中身入りの一升瓶を野球バットのように構える。
男は両手をあげると困ったように眉を下げた。
「あーよしよし、わかったわかった。なにもしないから一旦落ち着いてくれ。あー……旦那?」
呼びかけに応えるように男のうしろから人影が現れる。
アキラさんが持つ懐中電灯に照らしだされたのは、着流しにマフラーを巻いた背の低いおじいさんだった。
目深にかぶった中折れ帽と顔半分を覆う仙人のような髭のせいで表情はまるでわからない。でも帽子から伸びる長い髪と髭は真っ白で、見るからにお年を召しているようだった。
おじいさんのまとう気配は穏やかだ。こちらに危害を加えようという意思は感じられない。
その大きく曲がった膝や腰をよぼよぼと動かしながらこちらに近寄り、わたしたちの顔をじっと見上げてくる。
悪い人そうには見えないけど……でもこの場にいる以上は絶対悪い人に違いない。
お年寄り相手に暴力を振るうのは気が引けるけど、いざとなったらやるしかなかった。
あらためて一升瓶を握りしめると、おじいさんからふっと笑うような気配を感じた。
なにか思う間もなく、彼はくるりと踵を返すと白い手袋をした手でヤクザ者の上着を軽く引く。
男がおじいさんの口元に耳を近づけて、何度か小さくうなずいた。
「な、なんだってぇ!? 人違いだって!?」
突然男が素っ頓狂な声をあげる。部屋の中がしんと静まり返った。
彼は恥ずかしそうに軽く咳払いすると、こちらに向き直って勢いよく頭を下げた。
「すまねぇ嬢ちゃんたち。どうやら俺は人違いをしたみたいだ」
「……ひ……人違い?」
状況がよくわからずつぶやくと、おじいさんがこくりとうなずく。
「こちらの旦那はとある大店のご隠居でな。囲ってた娘がいたんだが、ある時野良猫みたいにいなくなっちまってよ。それでずっと探していたんだ。で、先頃その娘に似てるのがいるって情報が入って、それで……」
ちらっとおじいさんを見ると、彼はこくりとうなずいた。
「あんたたちのどっちかがそうだと思ってとりあえず両方捕まえたんだが、どっちも違っていましたと。そういうわけだ」
「そ……そんな……そんなことって……」
うしろでアキラさんがへたり込む。
「あんた達には悪いことをしたな。そういうわけだ、今から帰してやるから……まずはその瓶を置いてくれねぇか」
男はわたしの手のものを見つめてゆっくりと言う。
……本当に置いて大丈夫だろうか。この人の言うことを本当に信じていいのだろうか。
ちらっとアキラさんを振り返ると、彼女は何度も小さくうなずいた。
「本当に、本当ですか? 本当に帰してくれるんですか?」
「あぁ。ただし誘拐されたなんてマッポ……警察や他の誰にも話さないと約束するならな。言っとくが、もし通報でもしてこっちに警察が来た日にゃあ、てめぇら絶対タダじゃすまさねえ。でもそれが守れるなら、俺の命を懸けて、あんたたちを無事に帰してやる」
男のぎょろりとした目をじっと見つめる。
一応、嘘をついているとは思えない。
アキラさんがわたしの服を何度も引っぱって――わたしも覚悟を決めた。
武器を足元に置くと、二人はこちらにゆっくり近づいてくる。
慌ててアキラさんと脇に逃げると、男は壁際の棚まで来て、そこでふいに姿を消した。
「え?」
思わず声が出てしまう。しかし魔法というわけではないらしい。
「おい、こっちだ。あんたらも来い」
男の声が棚から聞こえてくる。
懐中電灯でよくよく照らして見てみると、その棚のうしろには人が横歩きでなんとか通れるくらいの隙間が存在していた。
思わずアキラさんと顔を見合わせる。
ずっとここにいたというのに、こんな隙間があったことにまったく気づけなかった。
とん、と背中を叩かれて反射的に飛び上がる。
そちらを見ると、おじいさんはお先にどうぞというように手のひらで先を促した。
「……行きましょうか」
「うん」
アキラさんと手を繋いでその狭い隙間に入ると、男は奥まったところで立ち止まり壁を数回ほどリズムをつけて叩いた。
突然、壁に光が生まれる。これは――隠し扉だ!
そういえば『我ら少年探偵組!』でも悪人のアジトには必ずどこかに隠し扉があった。物語そのままの世界についつい胸が高鳴ってしまう。
四角い光に男が消えて、わたしたちもドキドキしながらそれに続く。強い光に一瞬目がくらんで、でもすぐに周りの景色が見えてきた。
隠し扉を抜けた正面は壁で、どうやら建物との狭い路地に出たらしい。扉の横には男の仲間とおぼしき若い男がいたけど、彼は無言で頭を下げただけだった。
男とおじいさんに挟まれてその道を進んでいくとパッと視界が開ける。
最初に目に飛び込んできたのは陽光を弾く広大な海、そして黄色に染まった雲を浮かべる空。
海の下はコンクリートで一直線に切り取られ、なにもない無機質な広場が左右にずっと伸びていた。
どこかで鳴る汽笛と海鳥の声、潮風を全身に感じながら、確信を持って振り返る。
うしろに立ち並んでいるのは同じ外観の建物――あれはきっと倉庫なのだろう。
やはりここは波止場だったのだ。
夕方の気配をまとった西日はまぶしくて、ずっと真っ暗闇にいたせいか目に痛いほどだった。
たった数時間閉じ込められていただけなのに何十日ぶりかで外に出たという気がする。
胸が広がるような心地とともに大きく深呼吸して、そこでようやく人心地ついた気がした。
「あかり……」
「アキラさん……」
お互い顔を見合わせて思わずひしと抱き合う。
よかった……無事に出られた。
わたしたちはまだちゃんと生きている。
アキラさんがふたたび嗚咽をもらして、わたしはその背中を何度もなでさすった。
ふいにバタンと大きな音がした。
顔をあげると少し離れたところで自動車が停まっていた。運転席のそばにはさっき見た若い男が立っている。
「よし。これから嬢ちゃん達を帰してやるから車のうしろに乗りな。乗ったら足首掴んで頭を下げたままにしろ。いいって言うまでそのままだからな?」
そう言うと男はさっさと車に近寄り運転席に乗り込んでしまう。
彼の言葉が本当ならいい。でももし嘘だったら? また別の場所に連れていかれたら?
そんな考えが頭をよぎり、足を踏み出すことに迷いがでる。
でもその迷いは手を引っぱられて中断した。
「行こう、あかり」
アキラさんは不安そうにしながらもわたしを促してくる。
いつのまにか隣に来ていたおじいさんも、車を指さして早く乗るようにと無言で伝えてくる。
……帰ろう。きっと帰れる。
そう信じて、わたしは歩きだした。