120.青年と悪人
倉庫に入ってきた人物を認めて、渡瀬も含めたヤクザ達全員が姿勢を正し「ごくろうさんです!」と一斉に声を張った。
新たに数人を引き連れてやってきた男は部下たちの挨拶を無視して顔を巡らせる。
少し離れた場所にいる泰明たちに気づくとわずかに微笑んだようだった。
『ねぇ、挨拶って偽名がいいかしら?』
『好きにしろ』
どうせ素性は割れているのだ。
わくわくした様子の麗花はいったん無視して泰明も顔に笑みを張りつける。
こちらにやってくる男は街でよく見かける平凡な会社員といった風貌をしていた。
七三分けした髪に銀縁の丸眼鏡。羽織ったコートの下は白いワイシャツにネクタイを締めた背広姿で、これから保険の外交に行ってきますと言わんばかりにも見える。
筋骨たくましい身体でなければ凶悪な相貌でもない。まとう気配も穏やかで、すぐに景色に紛れて記憶にも残らないような男といえるだろう。
だが間違いなく彼こそヤクザ達を取りまとめている男だった。
「お久しぶりです、蝶野さん」
「お久しぶりですね、山下先生」
にこやかに挨拶して握手を交わす。
「今回は急なお願いを聞いていただきありがとうございます。お忙しいでしょうに、とんだご迷惑をおかけしました」
「なにをおっしゃいますか。あなたが私を頼ってくださるなんて、これほど嬉しいことはありませんよ。ところでそちらのとびきり美しい女性……ご紹介いただけないのですか?」
「……失礼いたしました。こちらは僕の知人で」
「赤沢と申します。はじめまして」
泰明の言葉を引き取って麗花がよどみなく偽名を口にする。
とびきりの笑顔で手を差し出すと、男は嬉しそうに目を細めた。
「はじめまして、蝶野と申します。かの病院のお噂はかねがね。お近づきになれて大変光栄です。よろしければこちらをどうぞ」
握手を交わしてすかさず差し出されたのは一枚の名刺だった。
金箔押しのロゴはローマ数字の二と四とKを意匠化したものらしい。そのシンボルの下には西金會とあった。
中央には蝶野一という名前、そしてその右側には小さく専務取締役という肩書も入っていた。
会社さながらの名刺に麗花がわずかに首をかたむける。
彼はふっと笑みを浮かべた。
「正真正銘、法律に基づいて設立した会社の名刺です。うちは同業から薬局と呼ばれておりまして、高品質な薬の取り扱いを主としております。もちろん通常の商いもしておりますが、他にもいろいろと……。これを機にぜひご懇意ください」
「あら、うちの取引先はご存じなのでしょう?」
「存じ上げておりますが、そちら様は懐が深いと信じております。それに当社は他所にはない強みもございますので。どうでしょう、あちらでお茶でも飲みながら少しお話でも」
「んー……」
「赤沢。時間は大丈夫か?」
泰明の注意を受けて、麗花はにわかに苦笑した。
「お誘いいただきありがとうございます。でも私、このあと予定が詰まっておりますの。それに今は名刺を切らしているものですから……また機会がありましたら、そのときあらためてお話しさせてください」
麗花が残念そうに首を振ると、蝶野は特に気を悪くした様子もなく名刺を懐にしまった。
「岡部」
麗花はうしろを振り返り、凛とした声をあげる。
泰明の視線の先で男がゆっくりと立ち上がった。
わずかにその場に立ち尽くすが、やがてしっかりとした足取りでこちらへやってくる。
「岡部。運転はできそう?」
「はい。問題ありません」
「この先はどう? 問題なくやれそう?」
「……はい。この先もずっと、貴女様の望むままに」
男は泣きすぎて目元をすっかり赤く腫らしているが、その身体はもはや縮こまってはいなかった。
岡部が正面にいる蝶野を力強くにらみ、いつでも動けるように神経を張りつめさせる。
覚悟をにじませるその姿に麗花は美しく微笑んだ。
「それじゃあ行きましょうか」
麗花も正面に目を戻す。
蝶野はなにも言わずに道を開けた。渡瀬にうなずいてみせると、彼の合図で暗幕が左右に開き、鉄扉も大きく開かれる。
麗花と岡部が倉庫を出ていき、ふたたび音を立てて扉が閉まると、蝶野はくすくすと楽しそうに笑った。
「残念です。振られてしまいました」
「そちらにとっても、そのほうがよろしいかと」
青年はどこか呆れたような目を相手に向ける。
緑川病院は潔白だが――緑川脳病院は警察の暗部と深い繋がりがある。そんなところと取引したいなどよく言えるものだ。
うかつに近寄ってはひどい目にあうだろうに、やはりこの男はどうかしている。
「では僕もこの辺で失礼いたします」
やることはやったしとっととずらかろう。
そう思って青年は荷物が置いてあるソファに向かう。すると蝶野も横に並んで歩き出した。
「つれない人ですね。私はまだ来たばかりですよ? もう少しお喋りに付き合ってください」
「申し訳ありません。僕もこのあと予定がありますので。あぁそうだ……お礼がまだでしたね。三月五日の午前三時、場所は――」
唐突に青年が住所をそらんじて、蝶野はすかさずその内容を暗記していく。
それはとある組織が予定している白い粉の取引情報だった。
近々でかいヤマがあるということはこちらも掴んでいたが、当然ながらその取引日時や場所は厳重に秘されていた。
だがこの青年はそれをあっさりと暴いてしまう。
それは出会った当初からそうであった。
「もったいないですねぇ……」
情報を聞き終えた蝶野はしみじみとつぶやく。
「もったいないですか?」
「えぇ。先生ほどこちら側にふさわしい人間はおりませんよ。儲からない田舎の医者なんてやめて今すぐうちに来ませんか? すぐに幹部の座をご用意しますから」
「うーん……。僕は今の仕事が好きですし、性に合っているようなので。すみません」
「嘘おっしゃい。ご自分でもこちらのほうが水が合うと思っているのでしょう?」
青年はなにも言わない。薄く笑うだけだ。
だが蝶野は知っている。身に染みて理解させられている。
こいつは我を通すためならどこまでも冷酷になれる男だ。彼のなかに良心の呵責や罪悪感というものは存在しない。
究極のエゴイスト――それが泰明に対する蝶野の評価だった。
とはいえ、話が通じないわけではない。
それにどこかの組織に属しているわけではなく、自分で他者を率いることもない完全な一匹狼。もしも西金會に引き入れることができれば――そしてうまく飼い慣らすことができれば、これほど頼もしい人間もいないだろう。
「ねぇ先生。こちらはいつだって単純明快、弱肉強食の世界です。強者のあなたには楽しい遊び場になると思いますよ」
「そうですねぇ」
「あなたほどの方がただの村医者で一生を終えるなんてもったいないですよ。人生は一度きりなんです。もっと楽しく遊びませんか」
「……僕と蝶野さんでは、多分価値観が違いますから。僕が欲しいのは刺激に満ちた日常ではなく、穏やかで心休まるような日常なんです。どうかそっとしておいてくださいませんか」
「若くして隠居生活ですか? さすがに早すぎます。きっとすぐに飽きてしまいますよ」
「さて、どうでしょうかね」
若い衆が見守るなか、青年がソファに置いたリュックサックを取ろとうと手を伸ばす。
だがそれより先に武骨な手が荷物を掴んだ。
泰明は邪魔した相手――渡瀬の顔を見る。相手の目には謝罪の色が浮かんでいた。
「ところで先生。くださった情報だけではちょっと足りないようです」
蝶野の声色が変わった。
泰明は彼を振り返りつつ首をかしげる。教えた情報の取引規模は億をこえる。今までであれば充分な情報のはずなのだが。
「足りませんか?」
「そうですね、残念ながら。我々夜の生き物にとって今は早朝みたいなもの……こんな朝早くに我々を駆り出して倉庫まで使ったわけですからね。それにあの男女の始末だってあります。それに見合うだけのものを出していただかないと困ります」
「始末は頼んでいません。適当に野に放っていただいて構いませんよ」
「先生。あなたの宝物は私の手のなかにあるということをお忘れなく」
青年はため息をついた。
倉庫の奥、暗闇に紛れてひっそりと佇むバラックには田上アキラと――あかりがいる。
青年は麗花とのやり取りを思い出しながら悪因悪果だなぁとしみじみ思った。
蝶野が泰明に近寄り内緒話をするように耳元でささやく。
「先生がそれ以上は出せないとおっしゃるなら、かわりにあそこの二人をいただくことにします。シャブ漬けにして二十四時間バリバリ稼いでもらいましょう。あぁでも……朝早くから働いてくれた者たちへご褒美を与えないといけませんね」
男はどこまでもにこやかに笑う。
「ここならどれだけ騒いでも問題なし。今から輪姦して具合を確かめてみましょう」
青年の顔から笑みが消えた。
初めて見るその表情に手ごたえを感じ、蝶野は内心ほくそ笑む。
この青年は見た目に似合わず腕っぷしが強い。過去に手練れのヤクザを何人も叩きのめしている。
だがそれは自由に動ける身であればこそだ。人質を取ってしまえばどんなに強かろうとなにもできやしない。
「蝶野さん。あなたともあろう方が、そんな小悪党みたいな真似をするんですか」
「はい、だって小悪党ですから。大悪党になるにはすべてのチャンスをものにする必要があるんです」
バラックにいる娘のひとりはこの青年にとって非常に特別な存在であるらしい。
これまでもあの娘をどうにか手中にできないかと思っていたが、わずかにでも動こうとすればたちまち青年の釘が刺さった。だからずっと彼女が街中に出てきても指をくわえて見ているしかなかった。
ところが今回の一件である。
一体どういう風の吹き回しか知らないが、彼のほうからわざわざ彼女の身柄をゆだねてきたのだ。
それを利用しない手はない。
「あなたの社長は、僕に決して失礼のないようにとのお達しを出していますよね。これは全構成員に対する至上命令ではないのですか?」
「えぇ、確かに失礼のないようにと承っております。でもそれは当時のことを鑑みるに、あなたには手出ししてはならないということですよね」
つまりお前以外には手を出していいといえる。
そうとぼけてみせると彼は困ったように眉を寄せた。
「それは大変な誤解ですね。僕が大事にしているものに手を出すことは、僕に無礼を働くことにはならないとおっしゃる?」
「それでは事がすんだら社長に確認するとしましょう。そこでもし私の認識に誤りがあったとわかれば、次回から気をつけてまいります」
次回から。つまり今回はなにがなんでもやるという意思表示だ。
そう理解して泰明は重いため息をつく。
かつて蝶野にかけた脅しも今この場では役に立たない。脅しの効力を発揮しようにも、その前にあかりに手を出されて終わる。それではなんの意味もなかった。
こちらの落胆が伝わったのか、蝶野の顔に笑みが広がった。
「……一応、ご要望はうかがいましょうか」
「それでは、あなたの情報手段を譲ってください。譲れるようなものでない場合は正式にこちら側に来て、私の部下になってください」
「それはまた過分な要求をしてきますね」
「夢は大きく、が私のモットーですから」
子どものように目を輝かせる相手に、泰明は思わず苦笑する。
「そんな従え方をして、あとで寝首を掻かれるとは思わないんですか?」
「寝首どころか手も噛めないくらい飼い慣らしてあげますよ。ゆくゆくは私の右腕になってくださいね」
「生憎ですが、そのどちらも叶えてさしあげることはできません。なので代わりにもうひとつ良い情報を差し上げます。それで勘弁してくださいませんか」
「ほう……。まぁ内容次第ですが、お聞きしましょう」
さすがに蝶野もここで彼が言う通りにするとは思っていなかった。
真の狙いは、莫大な金を産む情報の上乗せだ。
もちろん彼が最初の要求を呑んでくれるなら最高だが、あまり強引に事を運べばこいつはなにをするかもわからない。
蝶野が悦に入るのを見て泰明もにっこり笑った。
「あ。ついでに悪い情報もおつけしますね」
「……悪い?」
「はーい皆さん聞いてくださーい」
青年はおもむろに手をパンパンと打ち鳴らす。
「ここで皆さんに嬉しいお知らせがあります。僕は先日、こちらにいる蝶野さんにとって、ものすごーく都合の悪い情報を入手しました。その情報は紙に書いて向こうでのびている男に渡してあります。この情報を手に入れれば一発逆転どんでん返しも夢じゃないかもしれません。さて、それを手に入れる幸運な人は誰でしょうか?」
蝶野は一瞬あっけにとられた顔をしたが、すぐに渡瀬を見やった。
彼は思い当たることがあるのか、わずかに顔を白くしていた。目が合った途端かすかに首肯しかけ、でもハッとしたように首を横にぶんぶん振った。
「見たのか?」
「中身は見てません! が、先生があいつに妙なものを飲ませたのは本当です。それはこの目でしかと見ました」
「飲ませた……」
つまり殴るなりなんなりして文字通り情報を吐かせなければならない。
自分にとって都合の悪い情報――思い当たる節がありすぎて頭が痛い。
だがそもそも青年が言った言葉は本当か。信じられるものなのか。
「私相手にハッタリとは度胸がありますね」
「そう思いたければご自由にどうぞ。しかし、彼らもそう思ってくれるでしょうか」
青年は艶やかに笑むと再び口を開いた。
「呢度有個好消息話畀大家知――」
異国の言葉で先ほどと同じ内容が素早く繰り返される。
蝶野とともにやってきた男二人の顔が一瞬の変化を見せた。
蝶野は舌打ちする。
あの二人は特に目をかけている部下だ。自分に忠誠を誓い、実際に強い絆もあると思っている――が、それ以上に貪欲なほどの強い野心を持っていると知っていた。
「先生……ずいぶんと舐めた真似をしてくれますね。あなたはどうやら自分の可愛い恋人を殺したいらしい。今すぐに」
腹心だった二人はもはや信用できない。そう判断して蝶野が渡瀬に目配せする。
彼はそれを受けてわずかに逡巡したようだったが、青年の目をひたりと見据えた。
「すまねぇ先生。だがあんたはちと――」
「渡瀬さん、あなたは自分のシマを持つのが夢でしたよね。日本人の彼らを引き連れて、そろそろ独立されてはいかがでしょうか」
渡瀬の言葉を泰明が遮る。
ハッと息を呑み蝶野の顔をうかがう男に青年は優しい表情を浮かべた。
「先ほど僕が渡したものを使えば、独立資金と他への牽制を手に入れられますよ」
そのセリフに渡瀬もピンとくるものがあった。
彼があの男にゴム嚢を飲ませたとき、特性の催吐剤なるものをもらっていたのだ。
正直、今ここでそんな話をされてもと思う。
だが同時に――ここが運命の分かれ道だと思った。
渡瀬は蝶野の手足となって動いてはいるものの、そのやり方には常々不満を持っていた。
彼らは極道のふりをしているが、その実態は別物だ。
それも当然だろう。なぜなら組織の構成員のほとんどは日本人ではないのだから。
蝶野の組織はいくつかの班に分かれて統率されている。
日本人だけの班、そして中国や香港、韓国といった外国人の班だ。
それを束ねる蝶野、そしてその上にいる社長も日本人ではない。
だからこそ他のヤクザたちが一応は禁制としている薬物を堂々と取り扱う。でなければ国を滅ぼしかねないものに手を染めるわけがないのだ。
生業は薬物だけではない。
銃器類の密売や国を跨いでの売春事業、密入国の斡旋に公文書の偽造などなど。節操なしになんでもやる。
そのかわり他のヤクザとの抗争になりかねない賭博や用心棒といった伝統稼業には手を出さない。
渡瀬は――かつて本物の任侠一家にいた男は、この地で好き勝手している彼らをずっと苦々しく思っていた。訳あってそんな組織の一員となってしまったが、ずっと己を恥じていた。
渡瀬の心の機微を感じ取ったのか、蝶野の顔から笑みが消える。
「先生、さすがに看過できません。うちの渡瀬を引き抜くつもりですか?」
「引き抜きじゃありません。独立を……自立を勧めているだけです。子はいつか親元から巣立つものですからね」
「渡瀬?」
蝶野が問いかける。渡瀬は視線をさまよわせ、困ったように顎を掻いた。
「あー……。先生、残念だが俺はもう悪魔に魂売っちまったんだよ」
「渡瀬さん。あなたのボスは蝶野さんですか?」
「……あぁそうだ」
「いいえ、それは違います。あなたを拾ったのは蝶野さんではない。あなたの本当のボスは本先生ですよね?」
本。社長や所長、先生と様々な呼び名を持つ男だが、渡瀬にとっては己の親分――会長のことだ。
本という名前が飛び出したことで蝶野の形相が変わった。顔の筋肉が一瞬で鋭く引き締まり、つり上がった目に残忍な光が宿る。
「渡瀬。小屋にいる女たちを連れてこい」
「渡瀬さん。あなたが本気なら僕は本先生にかけ合います」
蝶野が命令した。泰明が誘惑した。
渡瀬は汗をかきはじめる。
「……あー……」
「おい、そこにいるお前ら。誰でもいい。この薄鈍にかわって女を連れてこい。今すぐにだ」
蝶野が見切りをつけて渡瀬の部下たちに命令する。
だが若い衆は渡瀬の顔をうかがって動く気配を見せない。
彼らにとって本当に信頼しているのは渡瀬――自分たちを拾って真剣に面倒を見てくれる兄貴だけなのだ。そして本当に気持ちが繋がっているのも、渡瀬のもとで暮らし寝食を共にしている同胞だけといえる。
彼らにとって蝶野は渡瀬より偉いものの、直接の接点はほとんどない。
渡瀬がこっそり説いてくれる任侠道などつゆ知らず、どこまでも狡猾で情け容赦ない彼ら対して誰もいい感情を持っていなかった。
そもそも大事な兄貴を薄鈍呼ばわりするとは何事か。
「あ……兄貴。俺、兄貴にずっとついていきます……!」
「お、俺も!」
「俺だってそうだ!」
「やめろてめえら! 礼儀はどうした恥を知れ!」
渡瀬が一喝するが、一度出てしまった不満は止まらない。
「でも兄貴! こいつらに好き勝手されて悔しくないんですか!?」
「大体なんすか社長とか専務とか! 俺たちは極道だ! ごっこ遊びがしてえなら他所でやれ!」
そうだそうだと一斉に声があがる。蝶野が異国語で鋭く悪態をついた。
泰明がふと耳を澄ますように空を見つめる。
「蝶野さん。どうやら時間切れです」
「時間切れ? なにを――」
その言葉が言い終わらないうちに鉄扉が勢いよく開かれた。
「お、オヤジが! じゃなくて社長がご到着です!」