11.ヒトカタ
今回は三人称です!
「大事ないかえ」
「はい……問題ありません」
泰明はゆっくり息を吐くと立ち上がり、加加姫に支えられる娘を見た。
今は意識もなく小柄な少女に体重を預けているが、その目元から涙の流れた跡を見つけてやるせない気持ちになる。
「とりあえず中へ。話はそれからだ」
「はい」
青年はあかりを受け取り横抱きにして屋敷に入る。
九摩留が見たら大騒ぎしそうだと思ったが、加加姫の配慮か彼は狐姿に戻り囲炉裏端で眠っていた。こちらがそばを通っても起きる様子はない。
奥座敷で加加姫が自分の布団を用意し、そこにあかりを寝かせて自身も腰を落ち着けた。
「申し訳ございません。僕があかりを怒らせました」
泰明は隣の少女に向き直ると畳に両手をついて深く頭を下げた。
仮にも姫神の嫁である。そんなあかりを怒らせて、そして無理やり意識を奪う事態となった。加加姫には申し開きもできない。
しかし彼女は落ち着いていた。
娘の髪紐を解いてやり、丁寧に束ねて枕もとに置くと静かに問いかける。
「怒らせたわけは?」
「それが……無神経なことを言ったのだと思います」
「なんと申した?」
「嫁入り前の女の子が無防備でいるな、と……」
気まずそうな青年に、加加姫はすべてを悟った。呆れたようにジト目で彼をねめつける。
「おぬし、また盗み見していたか」
「申し訳ございません」
「まったく……優秀すぎるのも考えものだな」
屋敷の世話役は文字通り姫神の世話を主とするが、村においては別の役割も持っていた。
それは村の拝み屋と葉茶屋――煎じ薬の処方所という側面である。
拝み屋としての秘術は倉橋の視える者――加加姫とその伴侶であった陰陽師の血を濃く受け継ぐ者にだけ伝えるべし、という方針だったため、あかりが世話役になったことで拝み屋稼業は廃業となった。
しかし封印された文献をこっそり読み、ここ数代でも会得できなかった術をいくつか身に着けてしまったのが泰明だった。
彼が学業のため村を不在にしている間、その術を私物化してあかりの日常を監視していたことは加加姫だけが知っている。術の特性で屋敷の外から視える範囲のみという制限はあるものの、その行為は非難に値する。
村に戻ったのだからもうやめろと注意したのに、どうやらまだ覗きをしていたらしい。
しかも加加姫でさえ気づけなかったのだから無駄に精度を上げている。
「泰明。九摩留はわしが殴っておいたから、おぬしは手を出すなよ」
九摩留があかりに抱きついたところを見ていたのなら、加加姫が制裁を加えたところも見ていたはずだ。ここでしっかり約束を取りつけておかないと九摩留が毛皮にされかねない。
あんな駄狐でもそれはさすがにかわいそうだった。
「返事は?」
「はい」
「覗きももうやめよ。悪趣味だ。もし次やっていることがわかったら出禁だからな」
「…………はい」
いかにも不満ですという声で返事をするが、少女はよしとうなずいた。
「面を上げよ。おぬしの具合はどうか?」
「大丈夫です。彼女が眠るのと同時に収まりました」
激しい耳鳴りと目眩、頭痛があったものの、今はなんともない。
痛みは耐えられたが目眩はかなり強烈でまっすぐ立っていることができなかった。
その結果、彼女を不安がらせてしまった。
泰明は唇を噛む。
あかりが気づく可能性もあるのに、痛恨のミスだ。
「種火がおもわぬ発火を見せたのう」
加加姫があかりの髪を撫でながらつぶやく。
あかりは生まれて一歳ほどで山奥に捨てられていた子だった。
それは姫神がこの里山を守護するようになってからはじめての出来事で、口減らしや不義不貞の隠蔽によるものでないことは明らかだった。
その証拠は彼女の身体にしっかりと刻みつけられていたからだ。
小さな背中に押された見慣れない紋の焼印と片足の腱切り。
そして絡みついた幾人分もの穢れ。
きっと山を漂泊する民に病が流行り、この子を形代としたのだろう――それが加加姫と先代世話役の見解だった。
その後は加加姫たっての希望で彼女を屋敷で育てることにし、ともすれば呪物となり得る赤子から瘴気を封じ、原因である穢れを徐々に消して。
見鬼であること以外ただの人間に変わりないところまで戻せたつもりになっていた。
「……ふむ。でもまあこの程度の穢れであればなんら問題はない。このままわしのそばにおれば数年で浄化されるであろ。特段、術や守りを用いる必要はない。へたになにかすればかえってこの子の心が傷つく。薪をくべることにもなりかねん」
姫神はいとおしむように己の嫁を見つめる。
彼女にはこのことを一切話していない。
だが背中や片足にある傷には当然気づいていて、その異常な生い立ちを察しているふうでもあった。
だからこそ泰明の失態が悔やまれる。
自分が周囲に危害を与えかねない存在だとわかれば、優しい彼女はきっと壊れてしまうだろう。
「瘴気は負の感情に呼応し増幅する。怒り、悲しみ、それから絶望だな。ただ、穢れはだいぶ消えているからこの三つが揃わぬ限り問題は起きなかろう」
加加姫が泰明と向かい合う。
青年は両膝に置いた手を握ると、あの、と小さく漏らした。
「その……情けない話なのですが、正直僕にはなぜこんな事態になったかがわからなくて……」
身体を小さくしてうつむく彼に姫神の目が点になる。思わず大口で笑ってしまった。
「カカカ! おぬし、あかりに執着するわりに向こうからの好意には鈍いのう。そんなの、おぬしの見合い話を聞いて心が揺れたからに決まっておろう。でも、あかりはおぬしと……もとい誰とも結婚できないと思っているようだからな。そんなときに想い人からいつかお前は嫁ぐ身なのだと言われてみよ。それは怒り、悲しみ、絶望に暮れるというものよ」
「見合い話……」
あぁあれか、というように泰明が遠い目をする。
「父があんまり縁談縁談うるさいので、いっそのこと見合いの席で暴れてやろうと思ったんです。そうすれば少しは静かになるかと思って」
「そんなとこだろうと思ったわ。でもよかったな。悋気で荒れるほどにはおぬしを想っているようだぞ」
「……それがわかっただけでも受けた甲斐がありましたね」
泰明はにやけそうになる口元を拳で隠した。
あかりが自分に憧れてくれているような節は、それこそ戦後の混乱が落ち着いてきたあたりから見て取れた。しかしそれは父兄に対する愛情と大差ないようで、本人は自覚さえしていないようだった。
「そもそもおぬしがちゃんと好きだと言わぬから、態度で示さないからややこしくなるのだぞ。村から離れていたってそれくらいできるだろう」
「簡単に言ってくれますが、あかりは僕を家族の一人として見ていましたからね。信頼していた兄貴分がいきなり雄に豹変したら逃げられるでしょう? だから時間をかけて少しずつ意識してもらえるようにしてきたんです」
「そんなことを言っておぬし、全然そうには見えんかったぞ? 伝わらなければ意識するもなにもなかろう」
「……やり方がまだるっこしいのは認めます。ですが必要以上に気をつけないと自分でもなにをするかわからなかったんですよ。順序を守っている努力は認めていただきたいものです」
泰明の言葉に加加姫はぽんと手を打った。
「そうだった、忘れておったわ。おぬしは獣の性が強いものな」
倉橋家は異形の血――蛇と狐の血を受け継ぐ一族だ。
世代を経て薄まってはいるものの、視える者にはその血が濃く現れる。
他の男に比べて性欲も支配欲も異常に強いはずの彼が惚れた女を前にその激情を制御するのは並大抵のことではないだろう。
特に泰明は歴代でも三指に入るほど加加姫の血が濃く、その本質は人より魔性のものに近い。
子どもの頃はともかく今ではすっかり人の社会に溶け込めているようなので忘れそうになるが、その強靭な理性は賞賛に値する。
ふてくされる青年に少女は少し、いやかなり同情した。
「でも困りました。あかりは本当に独り身を通すつもりでしょうか」
彼の言葉に少女もあごに手をやりつつ、昼間のやり取りを思い出した。
「そうさなぁ……まあいろいろ抱えている身ゆえ、心中察するに余りあるところだが。でも、だからこそおぬしがぴったりなのだがな」
「そうですね、あかりにふさわしいのは唯一僕だけだと思います」
「おぬしは少し遠慮を知れ」
「あはは、もう遠慮はしません」
爽やかに笑う泰明に加加姫はため息をついた。
こうなったらもう誰も彼を止めることはできないだろう。
いや止めるつもりはないし、そのほうが彼女の卑屈な部分を打ち壊してくれるはずだ。
とはいえ――。
「おぬし、あまり強引なことはするなよ? この子はわしの大事な娘で、わしの嫁御でもあるのだからな。泣かせるような真似をしたらただじゃすまさぬぞ」
「彼女の嫌がることはしません。絶対に。これからも順序は守ります」
泰明は即座にきっぱりと言い切った。
加加姫を見る彼の目は真剣そのもので、そのことに少女も少し安堵する。
姫神は眠る嫁を優しく見つめ、頭をそっと撫でた。
「あかり。わしも泰明もついている。だから早く出ておいで」
彼女は硬い殻に閉じこもって頑なに耳をふさいでいる。たとえ泰明が外からその殻を壊せても、そこから自分の意志で外へ出なければなにも意味がない。
幸せは自分から掴みにいかなければならないのだ。
「おぬしの幸せがわしの幸せだ。だから、どうかあきらめないでおくれ」
誰かを愛すること。
その相手から愛されること。
一生を添い遂げること。
その奇跡にも等しい幸せは加加姫自身がよく知っている。
だからこそ、姫神は我が娘の幸せを祈らずにはいられなかった。
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