117.断罪(前)
岡部は車を運転しながらも奇妙な胸騒ぎを覚えていた。
走っているのは市街地からさほど離れていない埠頭のとある一角。舗装された道の両脇には同じ外観の倉庫が延々と並んでいる。
大きな引分け式の鉄扉に識別文字がついているおかげで迷うことはないものの、その光景はどこか白昼夢然としていた。
ここに来るまでは貨物船の積み下ろしでせわしなく往来するトラックや木箱を運搬する人々が目についたが、ある地点からそれは嘘のようになくなり、この一帯は妙に静まり返っている。それがまた気味悪さに拍車をかけるようだった。
ルームミラーで後部座席にいる女主人の顔をうかがうと、彼女はなにかを探すようにせわしなく左右の車窓をのぞいている。
こんな場所に一体なんの用があるというのか。
その静けさとどこまでも続く同じ景色に不安が募っていく。
「あ、あれだわ。そこで止めてちょうだい」
目的のものを見つけたのか麗花が声をあげた。岡部はすぐに道路の端に車を停めるとエンジンを切る。
運転席を降りて後部ドアを開け、彼女が降りるのを見守る。それからいつものように運転席に戻ろうとして――腕を軽く引っぱられた。
「あの……?」
「あなたも一緒に来てちょうだい」
まるで恋人にするかのように麗花は岡部の腕にするりと両腕を絡ませる。
促されるままついていくと、閉ざされた鉄扉に『3-F』とペンキ書きされた倉庫の前で立ち止まった。
石造りの切妻屋根をいただく倉庫は堅牢そうに見えるが、なかで誰か騒いでいるのか声とも音ともつかないなにかが漏れ聞こえてくる。
胸騒ぎはいっそう増すばかりだった。
二人が足を止めたのを見計らうように、倉庫と倉庫の狭い隙間から坊主頭の男が現れた。
まだ若そうな男だが、その顔つきや風体からいって堅気ではない。
ヤクザ。岡部はそう判断した。
「なんだてめぇら。ここになんの用だ?」
若者は威嚇するようにこちらをねめつけ、それから警戒すべき相手を自分に絞ったらしい。視線を固定し身体に緊張をみなぎらせている。
「こんにちはお兄さん。私ね、この倉庫で山下先生と待ち合わせをしているの。中に入れてもらえるかしら?」
そんな彼に麗花はにこやかに話しかける。ガラの悪い男を前にいささかも物怖じしない姿はさすがだった。
若者も一瞬虚を突かれたような顔をし、それから照れたような笑みを浮かべた。驚かそうとして当てが外れた、そんな表情だった。
きっと最初から話は通っていたのだろう。
「……失礼しやした。どうぞお入りくんなせえ」
居ずまいを正すと若者が鉄扉を引く。
途端、獣じみた絶叫が耳を突き抜けた。
「あらあら。派手にやってるわねぇ」
若者の顔がわずかに強張るが、麗花はどこかウキウキしたようにささやく。
扉の先にあったのは漆黒の闇――ではなく巨大な黒い幕だった。目隠しのつもりなのかもしれない。
絶叫、いや悲鳴と相まって嫌な予感しかない。だが主はなんの躊躇もなく倉庫へ入ってしまう。
仕方なく岡部も暗幕の切れ込みに身を滑らせた。
入った先にあったのは薄明るい広大な空間だった。
本来倉庫にあるべき棚や荷物といったものはなく、そのかわり奥の暗がりに紛れるようにバラックのような小屋がひとつある。他に目ぼしいものはなにもない――といいたいところだが、倉庫に似つかわしくないものがもうひとつ嫌でも目に入る。
それは鉄扉からほど近い場所に置かれたテーブルとソファだった。周りには倉庫前にいた若者よりずっと頑丈そうな男が数人突っ立っている。
火を焚いた一斗缶が彼らを取り囲むように置かれ、下から不気味に顔を照らしていた。同じ方向を向いたその表情はどれも露骨にしかめられている。
普通、自分たちのような異分子が縄張りに侵入してくれば一斉に臨戦態勢を取るはずである。
だが鉄扉の音さえかき消すような叫びに注意を奪われ、こちらの存在に気づいていないらしい。
だから麗花が彼らの視線の先に現れた時はよほど驚いたのだろう、誰もがビクッと肩を揺らしていた。
「お待たせダーリン。首尾はいかが?」
「まぁまぁだな」
悲鳴が途切れ、すすり泣きを背後にして歯切れのよい男の声が聞こえる。
それは岡部も知っている声だった。
影がふたつこちらに近寄ってくる。
一人はまったく知らない男だ。自分よりもさらに厳つい顔と屈強な体躯をしている。
その隣、人形のように美しい顔を持つ青年は――。
「倉」
「山下といいます。はじめまして」
見知った顔の男、倉橋泰明がこちらの言葉を遮って偽名を口にする。
岡部は混乱した。
「や……山下? なんですかそれは? それにあの……これは一体?」
「それについては僕ではなく、あれに聞いてください」
泰明は持っていた工具箱を足元に置き、赤く染まったゴム手袋と割烹着を脱ぎながら顎をしゃくる。彼の示した先に主はひっそりとたたずんでいた。
青年が脱いだものを一斗缶に突っ込む。
ボッと火の粉が舞い、一瞬あたりが明るくなった。
大きく踊った炎の先で、麗花が目と口を三日月にして笑っていた。
「ほらあなた、ここにいらっしゃい。いいもの見せてあげるから」
普段とは違う呼び方で美女が手招きする。
聞こえるすすり泣きに、彼女の不気味な笑顔に、背中を冷たい汗が伝う。
そこには行きたくない。
行きたくないのに――なにかを感じて足が勝手に一歩、また一歩と進んでしまう。
そうして麗花の目の前まで来ると、彼女は身体を開いた。
うしろにいたのはふたつの影。それぞれ椅子に縛られて力なく頭を垂れている。
足元にある小さなランタンは二人の下半身を照らすだけだが、男と女であることは服装から見て取れた。
男はぐったりと頭を垂れ身動き一つしない。死んでいるのか意識がないだけなのかはわからなかった。
すすり泣いているのは女のほうらしい。
「岡部。こちらのお嬢さんにご挨拶を」
「……お……岡部……?」
麗花の静かな言葉に女が反応を見せた。
瞬間、岡部が足元のランタンを掴んで女の顔に寄せる。
「花子さん? 花子さん……ですか?」
最後の言葉は自分でも訝しそうに聞こえた。
照らされた女は自分が知る人物とはかけ離れた風貌をしていた。
真っ赤な口紅につけすぎとわかるほどの白粉。濃い青のアイシャドウ、目を大きく見せている黒い縁取り、そしてバサバサしたつけまつ毛――。
それらが涙で無残にも崩れ、おどろおどろしい化け物のような見た目になっていた。
服装も着崩した毛皮のコートに襟ぐりの深い派手な色のワンピースと、パンパンガールのような恰好をしている。
これは花子じゃない。人違いだ。
ホッとしたのもつかの間、女は顔を歪ませるように笑みを浮かべた。
「は、はは……。そうかい……全部アンタの仕業ってわけか……」
片頬に浮かぶえくぼ。
少し低めの声。
岡部の心臓がドッと大きな音を立てた。
「テメェ! このド腐れ×××が! よくもあたしの健二を、健二を……!」
女が唾を飛ばしながら絶叫した。岡部はおののくように二、三歩後ずさる。
認めたくない。認めたくないが――目の前にいるのは弟思いの赤貧の女、花子だった。
その花子がまなじりをつり上げ、クワッと大口を開いている。
「女ひとりどうにもできねぇタマなし野郎がふざけた真似しやがって! この外道! クソったれ! ぶち殺してやる!」
手足を縛る椅子を鳴らして狂ったようにわめく女を前に、岡部はただ茫然とそれを眺めるしかできなかった。
「嘘だ……そんな……嘘だろ、嘘、嘘だ……」
今見ている光景が信じられない。
悪い夢なら早く醒めてほしい。
ふいに肩を叩かれた。のろのろと顔を巡らせると、麗花が優しく微笑んでいた。
「麗――」
「エメラルドのネックレス」
岡部の喉がぐびりと音を立てた。
ただでさえ悪い顔色が紙のように白くなっていく。
「パールのイヤリング。ダイヤモンドのリング。ルビーのブレスレット。ねぇ、全部あわせていくらになると思う?」
「れ、れい、か、さま……」
彼女はすべて知っている。自分のした悪事を、すべて。
岡部が膝から崩れ落ちた。
「あ、ああぁ…………ぁぁぁあああああああああ!」
すべてを悟った岡部が慟哭する。
声をあげて激しく泣く男の背を麗花が優しくさすった。
男の号泣と女の甲高い罵詈雑言が入り混じって倉庫内が騒がしくなる。そのまま二人はしばらくそうしていたが、やがて声を枯らして静けさが戻ってくると、麗花はふたたび岡部に声をかけた。
「ほらあなた、ちゃんと見て。ここにいるのが本当の花子さんよ。真面目で純粋な男性をこれまで何人もだましてきて、そうして巻き上げたお金で恋人と遊んで暮らしているのが彼女なの。もちろん病気の弟なんて最初からいやしないわ。花子っていう名前も偽名。そうよね、恵子さん?」
「クソアマが……適当なこと言ってんじゃねえよ」
花子――いや恵子はペッと唾を吐くと嘲りの笑みを浮かべた。
「あたしがコイツにいつ金をせびったって言うんだい。悪いのは全部コイツだろ。勝手に同情して勝手に金をよこして、それであたしになんの非があるってんだ。金の出所なんざあたしの知ったこっちゃないよ。ほら、さっさとこの縄ときな。この借りはあとでたっぷり返してやるからな」
麗花が無言で女の頬を平手打ちした。
「なにしやがる! この――」
麗花はハイヒールを脱ぐとその踵で女の肩を打つ。
ピンヒールが取れるほどの打撃に恵子がギャッと悲鳴をあげた。
「あら折れちゃった。これじゃあ不格好ね」
苦笑交じりにそう言うと、もう片方のハイヒールも脱いで同じように打ちつける。
後ろで口笛と歓声があがった。それに向かって彼女はにっこりと笑い呑気に手を振る。
「い……ってぇなクソッ! このクソが!」
「あなたは私の岡部を傷つけた。そして我が家の大事な宝を盗んだともいえる。今からその罪を贖いなさい」
「チクショウ! どいつもこいつもふざけんじゃねぇ! 誰がするかそんなこと!」
「反省の余地なし、と。よかったわ」
麗花が恵子の顎を指先で持ち上げ、目と鼻の先まで顔を近づける。
女は即座に唾を吐きかけようとして――動きを止めた。
視線の先にぼんやりと輝くふたつの光があった。
蛍火のような薄緑の燐光が麗花の瞳の位置で妖しげに輝いている。
綺麗だ――女は不覚にもそう思った。
目からなにかが入り込む錯覚。
意識が急速に遠のき、世界が輪郭を失っていく。
透明な蔦がどこまでもどこまでも身体の奥へと伸びていく。
それは脳をまさぐりながら首から臓腑、四肢の先へと絡みつくようだった。
「は…………ははっ。ふふふ。ふあはぁ、ああはははぁああはあああはははあ」
突然女が笑いだした。
麗花はコートのポケットから折りたたみナイフを取り出すと、柄の近くにあるノコギリ状の刃で縄を切ってやった。そうしてすべての縛めが解かれると、恵子は虚ろに笑いながらふらふらと歩きだす。
が、すぐに小走りになり、やがて全力疾走へと変わった。
「お……おい止まれ!」
「動くな!」
突然のことにヤクザたちは止めようとするが、恵子は思わぬ俊敏さで身をかわすと暗幕の向こうに姿を消す。
鉄扉を勢いよく開け放ったのか、激しい金属音が倉庫に響き渡った。
「兄貴!」
「二人で追え。あとは残れ」
渡瀬の指示で部下がすぐに女の後を追う。
全員がぽかんとし静まり返った倉庫のなかで、岡部の嗚咽だけが小さく響いていた。