114.再会
土曜日の正午過ぎ。
とあるビルから目的の人物が出てくるのを見て、わたしは手を振りながら駆け寄った。
「田上さーん!」
呼ばれた女性はパッとこちらを振り返り、猫のような目を丸くする。それから呆れたような声を出した。
「やだあんた、もう来たの?」
「だって……早く田上さんに会いたくて」
「あっそ。こっちは別に、もう会わなくてもいいかなって思ってたけど」
彼女はそっけなく答えるとわたしの手元に目を向ける。
本来は落ち着いた場所で渡したいところだけど、促されている気がして持っていたものを両手で差し出した。
「これ、お借りしていた洋服です。それとこれはつまらないものですが。先日は本当にどうもありがとうございました」
腰を深々と折って渡すのは洗濯した洋服入りの紙袋とデパートで買った高級菓子折りの紙袋。
彼女はそれを受け取るとフンと鼻を鳴らした。そのまま踵を返して歩き出そうとする。
「どうも。それじゃ」
「え!? あ、あの……っ」
「冗談よ。話の続きがしたいんでしょ?」
そう言うと彼女は首を回してニヤッと笑う。
てっきり心を閉ざされてしまったかと思ったけど、それは杞憂だとわかってホッとした。
「もー。やめてくださいよ田上さん。びっくりするじゃないですか」
「ごめんごめん。なんかあんたって見てるとついいじめたくなっちゃうのよね」
隣に並ぶと彼女はちょっと意地悪そうな笑みを浮かべた。その雰囲気は柔らかくて初めて会ったときのような刺々しさはない。
こちらに親しみのこもった目を向けて、わたしの足を気遣うようにゆっくりと歩き出す。
「今日は天気がいいし、あったかいし。久しぶりに公園でも行こうかしらね。ちょうど商店街を通るからお昼ご飯買ってそこで食べるのはどう?」
「いいですね! そうしましょう」
わくわくしながら田上さんについて商店街の精肉店に寄り、それから彼女がよく行くのだという公園を訪れる。
園内は散歩している人がちらほらいるくらいで子どもたちの姿は見えなかった。きっとまだ家でお昼ご飯を食べているのだろう。
「そういえばあんた、帰ってからこってり絞られたんじゃないの? 今日の外出もよく許してもらえたわね」
公園の端っこに置かれたベンチを目指していると田上さんが尋ねてきた。
わたしは苦笑しながら小さくうなずく。
「それが意外と怒られなかったんですよね。拳骨くらいは覚悟してたんですけど、それもなかったですし」
約束した帰宅時間を立て続けに破ったというのに泰明さんはあまり怒らなかった。
それに想定より長く屋敷の留守番をすることになってしまった葉月ちゃんも、予定より早く戻って諸々の事情を知った倉橋様も――わたしをちょっと注意するくらいで怒ることはなかった。
でも、それが逆に身にしみた。
怒られるようなことをしても怒られないということは、つまり自分自身でうんと気をつけていないとどんどん野放図になってしまうということだ。
好き勝手が過ぎれば見放されてしまう。そうならないように気をつけなければ。
「ねぇ……あれから考えたんだけどさ」
ベンチに並んで腰掛けると、田上さんがコロッケパンをかじりながらすぐに切り出した。
「やっぱり私、麗花とはもう会わないほうがいいと思うの」
わたしもコロッケパンを食べようとして――そのままの姿勢で隣を見る。
彼女はまっすぐ前を向いたまま頬を動かしていた。わずかな間のあと、横顔がふっと微笑む。
「私ね、麗花のことが好き。本当に好きよ。だからあの人には幸せになってほしいの」
「田上さんと会わなければ、麗花さんは幸せになれるってことですか?」
田上さんはゆっくりうなずいてパンをかじる。
わたしもひと口ふた口とコロッケパンを食べる。
咀嚼しながらここに来るまで考えていたことをまとめ、相手を刺激しないようにそっと声を出した。
「実はわたし、田上さんにお会いする直前に岡部さんとお会いしたんです」
彼女は興味を引かれたようにこちらを見る。
「岡部さんは……二人が結ばれる方法は心中しかない、と言っていました」
「そう……」
田上さんはわずかにうつむく。
「それを裏付けるような話もいろいろ聞かされて、お二人の未来はあまりにも前途多難というか。正直絶望的に感じました」
どこまでも厳しい現実に、他人のわたしですら途方に暮れたくなる。
せめて麗花さんが緑川病院の跡取りでなかったら状況は少し違ったかもしれない。
でも現実に「もしも」なんてものはなく。ただそこにある事実を受け入れるしかないのだ。
そして受け入れたうえで――さらに考えるのだ。
「でも田上さん、わたし思ったんですけど……岡部さんの話だって絶対ってわけじゃないですよね?」
「え?」
彼女は目をパチパチと瞬かせる。
「麗花さんだって、岡部さんの言ったようなことはずっと前からわかっていたはずです。わかったうえで麗花さんは田上さんと一緒になれる方法をずっと考えているんです。だから田上さんも一緒に、もっと前向きに考えてみませんか」
未来は八方ふさがりに思える。でも確約された未来じゃない。
事実は事実として受け止めて――どこかに、なにかに、誰かに、隙はないかを探る。通常の手段でダメならもっと思い切った大胆な策はないかを考える。そうして現状打破を目指すのだ。
それは『我ら少年探偵組!』で怪人が教えてくれたことだった。
でも田上さんはコロッケパンを食べながらフンと鼻を鳴らす。
「……あの人の考えなんて、どうせ倉橋さんと偽装結婚するとかでしょ」
「それはどうでしょうか。もしかしたら麗花さん、他の考えをお持ちかもしれませんよ?」
彼女の言葉をやんわり否定するとパンを持ったその手が下がる。
「泰明さんは麗花さんとは絶対に結婚しないと言っていました。それに田上さんだって泰明さんを自分たちの犠牲にするのは駄目だと言ってましたよね。わたしは麗花さんのことをよく知っているわけじゃありませんけど……とても親しいお二人を無視して勝手に事を進めるような方とは思えなくて」
一呼吸置いてコロッケパンを食べると、相手も思い出したようにパンをかじる。
焦らずゆっくり間をおいて、柔らかい声を意識しながらふたたび口を開く。
「田上さん。この件に関して、お二人はまだちゃんと話し合っていないですよね? 田上さんは麗花さんのためを想って身を引いた……そのお気持ちはすごくよくわかります。でもこんな大事なことをちゃんと話し合わないのは、それはちょっと無責任じゃないでしょうか」
「無責任……?」
意外な言葉を聞いたかのように彼女はまたまばたきをする。
わたしはそれに力強くうなずいた。
「だって麗花さんと田上さんは何年も一緒にいたわけで、浅い付き合いじゃありませんよね。それなのに一方的になんの説明もなくハイさようならって、そんなの誰だって納得できませんよ。田上さんは麗花さんのことをなんでもかんでも全部ひとりでやろうとするかっこつけって言ってましたけど、その言葉、今の田上さんにこそ当てはまる気がします」
「……なによあんた。言ってくれるじゃない」
田上さんの凪いだ瞳になにかが宿った。
面倒見のいい彼女のこと、責任感がとても強いのだろうと思ったけど案の定だった。
怒りをにじませた声に内心ビクビクしてしまうけど、それが出てしまわないようにあえて大きな笑みを浮かべる。
「だってお二人はせっかく両想いなんですから。そういう水臭いのはなしにしませんか? 一人じゃ思いつかないことでも二人なら思いつくかもしれませんし、それに三人だったらもっと思いつくかもしれませんよ」
「三人?」
「わたしも一緒に考えます。これも乗りかかった舟ですから。というわけでさっそくなんですけど、いろいろ考えてきたので聞いていただけますか?」
いったんコロッケパンを脇に置いて手提げから雑記帳を取り出す。
とりあえずこれまで読んだ小説や見聞きしたことから役に立ちそうなことを思いつくまま書いてきた。帳面をパラパラめくってどれを見せようかと思っていると、隣で笑う気配があった。
思わずそちらを見ると、田上さんは手で口元を隠すようにしてそっぽを向いてしまう。
はぁ――――……とやけに長いため息が聞こえた。
「ねぇ。あんたいくつ?」
「二十一ですけど」
突然の質問にちょっと戸惑う。
すると田上さんはこちらを見て悪戯っぽく笑った。
「じゃ、呼び捨てでいいわね。あかりってほんっっっと出しゃばりで余計な世話焼きね。このお節介女」
「そ……そんな言い方しなくたって」
唇を尖らせながら、でも自分の頬がゆるんでいくのがわかった。
あんた呼びから名前呼びになっている。それに彼女の表情も明るくなっていた。
「田上さんだってとっても世話焼きじゃないですか。わたしのことあんなに面倒見てくれるんですから」
「アキラ」
「え?」
「田上じゃなくてアキラでいいわよ。私は別に、あんたが倉橋って名乗ったから無視するのもどうかと思って。それで……」
田上さん――アキラさんがふいに口をつぐむ。
それはわたしも同様だった。
公園の空気がわずかに変化していた。
反射的に周囲を見渡すと公園に似つかわしくない雰囲気の二人組の男が目に入る。彼らはなにか探すようにきょろきょろしていたが、ふと一人がこちらに視線を向けた。
なんだか嫌な予感がした。
「……行こう」
「はい」
手早く荷物を持ってベンチから立ち上がる。
なるべく男のほうを見ないように歩きだすも、その行く手はすぐに塞がれてしまった。
「おい」
声をかけられて仕方なく顔をあげる。
最初に汚れとシワの目立つ派手な服が、次に咥え煙草の歪んだ口元が、そして周囲を威圧することに慣れた目つきが視界に映る。
ゴロツキ――そんな言葉が頭に浮かんだ。
男たちはポケットに手を突っ込んだままこちらに顔を寄せてくる。
下あごを突き出して脅すようにじっとり睨まれ、できるだけ視線を合わせないように地面を見つめる。
早くどこかに行ってほしいのに二人は立ち去る様子を見せない。
「こいつですかね、アニキ」
「わかんねぇけど……多分そうだろ。おかっぱだしつり目だし、背も高ぇし」
その言葉に思わず顔を上げる。
男たちは隣のアキラさんをためつすがめつ眺めているところだった。よほどの恐怖か、彼女の顔は青白くなっている。
「お前か? 田上アキラってのは」
アキラさんの身体がビクッと跳ねた。
二人組が顔を見合わせて下卑た笑みを浮かべる。
「おっし、んじゃ行くぞ」
「い……嫌! 触らないで! 離してよ!」
彼女は怯えた声をあげて身をよじる。背の高い男がアキラさんの腕を掴んでどこかへ連れていこうとしていた。
そう気づいた途端、全身にカッと熱が走った。咄嗟に彼女の身体にしがみつく。
「ちょっと待ってください! あなた達いきなりなんなんですか! その手を離してください!」
「うるせえ! てめぇは引っ込んでろ!」
突然背の低いほうの男に突き飛ばされて地面に転がる。それでもアキラさんの足にしがみつくと肩を蹴られた。立て続けに背中も蹴られる。
でも離さない。絶対に離すわけにはいかない。
「誰か……誰か助けてください! 人攫い! 誘拐です! 誰か――――!」
力の限り叫んだ、その時だった。
ガッと音がしてわたしの目の前に男が倒れてくる。
「あかり!」
「アキラさん……」
名前を呼ばれて立ち上がろうとすると彼女に飛びつかれて、それでまた地面に転がってしまった。
アキラさんに強く抱きしめられたまま顔を巡らせると、彼女を掴んでいた男は数人の大柄な男たちに取り囲まれていた。
助かった! そう思っていると一人がこちらに向き直る。
相手と目があうなり喉がひゅっと音を立てた。
ゆっくりとこちらにやってきたのは大入道のような男だった。
山のような巨体に大きな坊主頭が載っており、そのこめかみから頬には大きな傷跡がついている。
獰猛そうな人相も放たれる重厚な威圧感も先ほどのゴロツキとはまるで比較にならない。
こげ茶の背広に柄入りの真っ赤なシャツを着ていて、明らかに普通の人ではないとわかった。こちらにやってきたもう一人も離れたところにいる集団も、全員が似たり寄ったりの恰好をしている。
初めて見る相手なのになぜかその正体は一目でわかった。
この人はヤクザだ――。
「兄貴」
「ノッポだけ連れていけ。チビに用はない」
男はこちらに顔を向けたままつぶやく。命令を受けたほうはすぐに引き返していった。
「さて。嬢ちゃん達にも来てもらおうか」
「わ……わたしたちはなにも見てません。見ていないので、誰かになにか言うこともありません。それでも行かないといけませんか?」
咄嗟に出たのはそんな言葉だった。
震えるアキラさんをうしろにかばいながら我々は無害だと主張すると、彼はひょいと片眉を上げる。
こちらが喋るとは思ってなかったのか、どこか面白がるような表情をしていた。
「見られたから連れていくんじゃあねえ。あんたらにも用があるから連れていくんだ。なに、大人しくしてりゃ怖いことなんてありゃしねえよ。でも騒ぐようなら……ちっと痛いことになるかもしれねぇな」
男は目を細めてにやりと笑った。
「さて。テメェの足で歩くのと白目向いて担がれるのと、どっちがいい?」