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113.密会

 男はいつもの座席で腕を組み、厳めしい顔に深刻そうな表情を浮かべていた。

 テーブルに載ったコーヒーに手をつけるでもなく、新聞を開くでもなく、喫茶店に入ってからかれこれ一時間近く彫像のように微動だにしない。

 その姿は吽形うんぎょう――口を引き結んだ金剛力士像のようでもあった。


「遅くなってごめんなさい、岡部さん!」


 少し低めのあせり声に呼ばれて岡部は顔をあげる。

 テーブルの横にいたのはどこか野暮ったい印象の女だった。


 彼女は年季の入ったコートを脱ぐと岡部の正面に腰を下ろす。

 それぞれの耳の下で結んだ艶のない髪。毛玉やほつれのあるセーター。薄く化粧はしているものの疲労を隠せていない顔。

 そんな苦労人の見本とも思えるような彼女を見て、岡部は胸が痛むのを感じた。


「私も今来たところです。気にしないでください、花子さん」


 花子と呼ばれた女は安心したように笑う。そうすると片頬にえくぼが浮かんでわずかに愛嬌のある顔となった。

 岡部の胸の痛みがにわかに甘く切ないものへと変わる。


 男はまるで目に焼き付けようとするかのように彼女の顔をじっと見つめた。

 視線がいつもと違うことに気づいたのか、ウエイトレスへの注文を終えた花子はわずかに首をかしげる。


「どうかしましたか?」

「……会うのは今日が最後になるかもしれません。わずかですが、これを」


 背広の胸ポケットから茶封筒を出し、テーブルの上にそっと置く。

 女は深々と頭を下げるとそれを押し抱くように受け取った。


「いつもすみません、ありがとうございます。でも今日が最後って……どういうことですか? なにかあったんですか?」

「どうか聞かないでください。それより弟さんの具合はいかがですか?」


 花子はわずかに目をうるませると小さな笑みを浮かべた。


「手術したおかげでだいぶいいみたいです。それにちゃんと薬も買えるようになりましたから、布団から起き上がっている時間も少しずつ増えています。でもお医者様は……もう一度手術をしたほうがいいって」


 表情を曇らせた彼女につられるように、男も眉を寄せる。


「私もできるだけ仕事の時間を増やそうとはしてるんですけど、でも弟の面倒も見ないといけないし。本当にもう……どうしたらいいのか……」

「花子さん……」


 小さく肩を震わせる女に岡部はそっと声をかける。

 花子は顔を伏せると目元を指でぬぐい、すぐに明るく笑ってみせた。


「ごめんなさい、つい弱気になっちゃって。これまで岡部さんには本当によくしていただいて、とても感謝しています」


 ウエイトレスがオレンジジュースを運んでくると、彼女はストローでひと口吸ってから穏やかに微笑んだ。

 

「出会ってかれこれ一年半でしょうか……。あのときあなたとぶつかっていなかったら、こうして一緒にお茶することもなかったんですよね。そう思うとすごく不思議な感じがします」

「もう一年半か……」


 岡部も懐かしそうに目を細める。

 彼女の言う通り、そのきっかけは道中でぶつかってしまったことだった。その際、彼女のハンドバックの留め具が外れて荷物が散らばってしまい――。

 花子がふふっと声を漏らす。


「あのときは落ちた荷物を拾おうとするたびに手が重なっちゃって。それで私、思ったんです。あぁ……なんだかこの人とは気があうなぁって」


 岡部も同意するようにうなずく。

 そして今まさに同じことを思っていたのだとわかり嬉しくなる。


 運命を感じた、なんて言えばまるで三文芝居のようだが――それ以外の言葉が見つからなかった。

 何度も指先が触れてしまうと、おどおどしていた彼女がやがて恥ずかしそうに笑いはじめて。時折向けられる上目づかいと浮かんだえくぼの愛らしさに、いつの間にか目が離せなくなっている自分がいた。


 荷物をすべて拾い終わってもなぜかその場を離れることができず、かといって声を発することもできず。はじめて感じる名残惜しさにどうしたらいいかわからず棒立ちになっていたところ、彼女がぶつかったお詫びにお茶をご馳走したいと申し出てくれたのだった。

 そうして二人で喫茶店に入り――今ではこうして定期的に会う間柄となっている。

 ふと花子が表情を曇らせた。


「でも私のせいで岡部さんには大変なご迷惑をおかけしてしまって……。お礼もろくにできていないのに今日でお別れだなんて、そんなの悲しいです。そんなの……嫌です」

「お礼なんて考えなくていいのです。私が勝手にしていることですから、どうか気になさらず」


 出会ったその日、二人は不思議なほどに打ち解けて気がつけば身の上話をしていた。

 彼女は病気の弟と二人暮らし。両親はすでに他界し、他に頼れる親戚もいないそうだ。

 それは岡部も同様だった。

 小さい頃に父に死なれて以来、家族は母一人だけ。

 その母も病気をしており故郷に近い町の病院でずっと入院生活を送っている。


 似た境遇に親近感を覚え、彼女の苦しい生活事情に同情し――岡部が経済的な支援を申し出るまでそう時間はかからなかった。

 見返りを求めたことは一度もない。すべては彼女になにかしてやりたい、守ってあげたいと思う一心だった。


「岡部さん……」


 花子の青白い頬がほんのり赤く染まる。

 路傍の石のように目立たない彼女が、そんなささやかな変化で宝石のように輝いて見えるようだった。

 岡部はまぶしそうに相手を見つめ、すぐになにか思い出したように沈痛な面持ちになる。

 女の手が伸びてテーブル上の岡部の手に重なる。触れた瞬間、彼はビクリと肩を揺らした。


「ねぇ、教えてください。私たち……もう会うことはできないんですか? 私、もっと岡部さんに会いたい。岡部さんのことを知りたいのに。どうしても駄目なんですか?」

「私だって、いつもあなたに会いたいと思っています。できればこれからも。しかし、私は……」


 苦悩の色を濃くにじませて男は言いよどむ。

 わずかな沈黙の後、岡部は彼女の手をそっと握った。


「私は近々遠い場所に行くかもしれません。そうなればしばらくあなたに会うこともできないでしょう」

「遠い場所? それってどこなんですか?」

「言えません。しかし、あぁ……もしかしたらあなたのところに……誰かが訪ねてくるかもしれません」


 岡部は歯切れ悪そうに声をひそめる。

 まるで相手の視線を恐れるようにテーブルに目を落としたまま、彼は低くささやいた。


「もし私のことを訊かれたら、あなたは私のことは知らないと言ってください。なにを訊かれても、なにも知らないと言ってください。いいですね?」

「…………嫌です」

「花子さん」

「だって事情もわからないのに、そんなこと承知できません」


 ようやく視線を合わせた岡部に、花子は励ますように彼の手を両手で包み込む。


「岡部さん、もしかしたら私もなにか力になれるかもしれません。だからなにか困っているのなら教えてください。私、あなたの力になりたいの」

「……私は最低な人間です。あなたが気にかける必要はない」

「あなたは最低じゃありません。そんなこと言わないで」


 ふと、女が目を上げた。


「もしかして……お金?」


 花子の握る手がぴくりと動く。

 彼女は男に身を寄せると矢継ぎ早に喋った。


「そうでしょ、そうなんでしょ。言って岡部さん。私たちへの援助であなたが困ったことになっているなら、それは私と弟……いえ私の問題でもあるんです。お願い岡部さん、ちゃんと話して!」


 男はしばらく黙っていた。

 その目には様々な葛藤が浮かんでいたが、しかし観念したようについにうなだれてしまう。


「私は先頃、主の命令を受けて……ご息女の恋人に身を引くよう話をしました」


 そっとため息をつくように、男は静かに告白した。

 それは金銭とは関係ない話であったが花子は熱心に耳を傾ける。


「お嬢様は旦那様がお認めになった殿方と結ばれる必要があったのです。ですから私はやむなく彼女たちの仲を引き裂きました」

「それは……辛い役割ですね」

「本当に辛いのは私ではなく彼女たちですから……」


 岡部は苦しそうにつぶやくと、なにかを振り払うようにかぶりを振った。

 一度深く深呼吸して話を続ける。


「その関係を円満に解消するため、私は旦那様から手切れ金を預かっていました。しかしそれを出しても相手は頑として受け取らず、金ではなく愛のために身を引くのだと言って……潔く別れを承諾してくれました」


 岡部は花子の手から自分の手を引き抜く。

 背筋を伸ばして相手の顔を正面から見つめ、一息に告白した。


「私は旦那様に相手が別れを承知したと伝えました。そして、手切れ金を受け取ったとも報告しました」

「……それは、つまり……」

「私は泥棒したのです」


 男はくしゃりと顔を歪ませ泣き笑いのような表情を作る。

 女はショックを受けたように呆然としていたが、やがてふるふると首を振った。


「大丈夫よ、たった一度の過ちですもの。ちゃんと謝ればきっと許してもらえるわ。だから大丈――」

「一度ではないんです」


 岡部ははっきりした声で花子の言葉を遮った。

 喋るごとに彼女を裏切っていく。傷つけていく。

 今更ながら、自分はいったいなにをしているのだろうと思った。


 彼女と知り合ってから、岡部はその赤貧や高額な治療費をなんとかしてやるべく金策に奔走するようになっていた。だが友人や知り合いから借りられる金は微々たるもので、給与の前借りにも限度があった。

 煙草や映画といった楽しみは断ち、生活も切り詰め、売れる物はなんでも売った。だがどんなに努力しても母の治療費に彼女の弟の手術代や高額な薬代まで重なると焼け石に水という有様だった。


 あとは高利貸に手を出すしかない、そう思い詰めるようになっていたある日のことだった。

 緑川の邸宅で、奥方付きの女中が宝飾品の手入れをしているところに偶然遭遇した。

 その豪華絢爛な輝きと圧倒されるほどの数の多さに――なぜか激しい怒りがこみ上げた。


 いつだったか、主の息女である麗花が言っていた。

 彼女たちが信奉するキリスト教の経典『マタイによる福音書』によれば、持てる者はますます持てる者となり、持たざる者はますます持たざる者になるのだという。


 異教の神はなんと無慈悲なのだろう。

 金持ちはますます金持ちに、貧乏人はますます貧乏人になるだなんて冗談じゃない。そんなことが許されていいものか。

 そんなことが許されるというのなら――持っているものを少しくらい分けてくれたっていいじゃないか。


 そう思ったのは一瞬だった。

 だがその一瞬は幾度も頭をよぎるようになり――ついに男を盗みへと走らせた。

 最初はエメラルドの首飾り。次に真珠の耳飾り。ダイヤモンドの指輪、ルビーの腕輪。

 一度道を踏み外してしまえば、あとは坂を転げ落ちるようだった。

 幸か不幸か緑川家には大量の宝飾品があり、手入れも滅多に行わないらしく、盗難に気づく者はまだいなかった。


 もちろん盗むことに葛藤はあった。罪の意識だってあった。

 長年――それこそ二十年以上緑川家に仕えてきたのだ。田舎から出てきたでくのぼうを拾いあげ、使い物になるよう仕込んでくれた恩がある。忠義だってある。

 緑川家に拾われていなければそれこそ母の治療さえままならず、もっと早くに落ちるところまで落ちていただろう。

 だが結果として、彼らの長年の信頼とあらゆる厚意を裏切ることとなった。


「相手はもうお嬢様に会わないと言いました。しかしその確証はありません。もしあの方がふたたびお嬢様と会えば、手切れ金の話が飛び出す可能性もあります。そうなれば……私の罪が明らかになるでしょう」


 麗花に仲介役を頼まれた倉橋あかり。

 あの娘と喫茶店で話したとき、彼女は強い憤りをあらわにした。

 別れ際に見たあの目――彼女は必ず田上アキラに会うだろう。


 それによって田上アキラが麗花と話すことを選べば、そして田上アキラから話を聞いた麗花が父親と話をしたら――行方知れずの手切れ金に話が及べば。

 そうなれば自分は終わりだ。


「花子さん、私はあなたに謝罪しなければなりません。私はあなたに汚い金を押しつけた。あなたに良かれと思って、いや私のエゴのために、一方的に……。こんなことをして本当に申し訳ない」


 男は深々と頭を下げる。

 女は無言だった。


「私は間もなく捕まるでしょう。もし私と会っているところを見たと言われても、私に脅されて仕方なく会ったのだと言ってください」


 岡部はうつむいたまま腰を上げる。

 テーブルの伝票を取って相手と目を合わさないまま逃げるように花子の横を通り過ぎ――ようとした。


「自首するつもり?」


 花子がすれ違おうとする岡部の服を掴んでいた。


「私の弟にはまだまだお金がいるの。一度はじめたことは最後までやり遂げなきゃ駄目よ」


 女の声音が微妙に変わっていた。

 声だけではない。それまで漂っていた儚く脆そうな気配は鳴りを潜め、どこか悠然と構えるようなものへと変化していた。

 岡部が戸惑うように彼女を見る。花子も彼を見上げてにっこりと笑った。


「座ってください岡部さん。私にいい考えがあります。ほら、早く座って」


 立ち上がった花子が強引に岡部をもとの席へ座らせる。

 そうして自分も正面に座ると、彼に視線を固定したまま小首をかしげた。


「それってつまり、手切れ金のことがバレなければいいんですよね?」

「花子さん……?」

「他のこともまだバレてないんですよね?」


 いぶかしそうな男を無視して女は思案するように顎に手をやる。


「お金の話が出なければそっちもバレない……つまり岡部さんはこれからも私と弟のためにお金を工面してくれるってことですね」


 彼女は勝手に断言して納得したように何度もうなずく。

 岡部はなんとも言い難い違和感を覚えた。今目の前にいる女が、まるで知らない女に見える。

 これは一体――誰だ?


「実はうちの近所にちょっと怖そうなお兄さんが住んでるんです。私、そのお兄さんと少し仲がいいので……だからお願いしてみますね」

「お願い?」


 なにかがおかしいと思いながらも岡部は聞き返す。

 花子は興味を持った彼に、ふたたびにっこりと笑ってみせた。


「その恋人さんがお嬢様と会ってしまわないように注意してもらうんですよ。それから手切れ金の話は一生黙っているようにって。それが叶えば岡部さんはこの先も私と会ってくれるんですよね?」

「いや、ちょっと待ってください。そんな簡単に言ってくれるが……そもそもそいつはどういう奴ですか? 信用できるんですか?」


 花子に仲のいい男がいる。そんなことを気にしている場合ではないのに、つい引っかかってしまう自分に呆れた。

 もっと他に聞くべきことがあるはずだ。この違和感を突き詰めて、全身をざわつかせる嫌な予感をぬぐわなければいけない。

 いけないのに――彼女の顔を見ると聞きたいことがしぼんでいってしまう。

 

「岡部さん。私、あなたと結婚したいです」

「は…………?」


 突然の告白に岡部の顎が落ちた。

 女はそれに構わず熱っぽい視線を向けて、胸の前で手を組み合わせる。


「ずっと前から好きでした。私、岡部さんのお嫁さんになりたいです。だってこんなに優しい人、他にいないですもん」

「な、なにっ、いきなりなにを……!?」

「それにこんなに優しい人が捕まるなんておかしいです。私や弟を助けてくれた人が捕まるなんて、そんなの世の中のほうが間違ってます」


 男に言って聞かせるような言葉は甘い劇薬のようだった。

 自分を肯定してくれる彼女は間違っている。自分は間違ったことをしたのだ。

 それなのに、胸が頭がカァッと熱い。自分を責めるどころか庇おうとする彼女に涙が出そうになる。


「大丈夫ですよ。ちょっぴり怖がらせるくらいで、乱暴なことは決してしませんから」


 おかしい。それは違う。彼女の言うことは間違っている。

 そう思うのに岡部はなにも言えない。

 ただ結婚の二文字が頭をぐるぐると駆け回っていた。


「さぁ、教えてください岡部さん。その方のお名前は? 住所は?」


 女はささやきながら微笑んだ。


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