112.遅い帰宅(後)
倉橋医院に到着すると、今度はわたしと泰明さんだけで屋敷へ出発した。
ありがたいことに院長先生がオート三輪を貸してくれたので、ふたたび泰明さんの運転で山道の途中まで苦もなく移動していく。
その道中、あらためて岡部さんと田上さんに会ったこと、そして二人と話した内容を彼に報告した。
「とりあえず……田上さんと話せたのはよかったね」
すべてを聞き終えた彼は柔らかい声を出す。
一方のわたしは岡部さんや麗花さんのお父さんに対する怒りが再燃してしまった。
「口では彼女のためだって言ってましたけど、家のことしか考えてないのが透けて見えるようで……。大体岡部さん、というか麗花さんのお父さんもいきなり過ぎませんか?」
「確かに少し強引だね。親からしたら、早く目を覚ませってことなんだろうけど」
「目を覚ませ……」
その言葉に思わずうつむく。
性別を超えた愛を成就させることは簡単ではないだろうし、成就できてもそれを親に認めてもらうのはさらに難しいことだろう。麗花さんは家の後継ぎだからなおさらだ。
それこそ彼女の両親のように、似た境遇の男性とかたちだけの結婚をして、よそで幸せな家庭を築く……なんてことのほうがよっぽどいいように思えてしまう。
でも、そもそもそんな男性だって都合よく見つかるかどうか。
一緒になるには難しいような恋人がいる男性で、お医者様で、家柄も麗花さんと同じくらいで、緑川家に婿入りしてくれるような人。
うん……難しいにも程がある。
うなだれていると山道の脇の小さな空き地に入っていき、そこでオート三輪が停止した。
エンジンの切られた静かな車内で、泰明さんはハンドルに両手を載せたまま話を続ける。
「岡部さんはああ見えて緑川のことをとても気にかけてるよ。情に流されない人だから冷たいって思われがちだけど、彼も心を鬼にしているんじゃないかな。なにか彼にできることがあればいいんだけどね」
穏やかな声音に気遣いの色が見える。
それはわたしと岡部さん、二人に向けられているのだとわかった。
「ところであの、泰明さん」
「ん?」
隣の気配は穏やかだ。
膝に置いた手をぐっと握り、今言うしかないと覚悟を決める。
「帰りが遅くなったこと……本当にごめんなさい。でもその、できればまた近いうちに……田上さんにお会いしたくて」
恐るおそる隣を伺うと、こちらを見ている顔がわずかにかたむく。
「あかりって結構肝が据わってるよね」
その声はどこか感心しているように聞こえた。
肝が据わってるというより、わたしは単に愚かなのだろう。門限を破ったその日のうちに次の外出許可を取ろうというのだから。
でも、ここが正念場だと思った。
今日は田上さんには会えたし話をすることもできたけど、肝心の約束はできていない。
田上さんは麗花さんに会ってくれるのか――それがわからないでいた。
でもなんとなく、かたくなに閉ざされていた心がわずかに開かれた気もする。
少なくとも彼女はまた会ってくれるらしい。
鉄は熱いうちに打てというし、あまり時間を置いたらせっかく開きかけた心が閉じてしまう。
それに借りている服だって早めに返したい。
「わかった。それじゃあ今度の土曜日、行っておいで。ただし帰りは僕と一緒だからね」
わずかな沈黙のあとで泰明さんは言った。
あまりにもあっさりと許可が下りてしまい、逆にちょっと不安になる。
「い、いいんですか……?」
「本当は僕も同席したいけど午前中は仕事があるからね。それに田上さんも君と二人だけで話すほうがいいだろうし」
「本当に……本当にいいんですか? というか帰りは一緒って」
「僕もちょうどあっちに野暮用があるんだ。だからお互い用事をすませたら一緒に帰ろ。それでもいい?」
もちろんわたしに異論などあるはずもなく、ぶんぶんと何度もうなずく。
よかった。彼の逆鱗には触れなかったらしい。
「じゃあ田上さんの会社の最寄り駅、夕方五時に待ち合わせ。話がついてもつかなくても、時間は厳守すること。守らなかったらお仕置きだからね」
笑いを含ませながらそう言うと青年はオート三輪から降りる。
わたしもドアを開けて身を乗りだそうとしたときには、すでに彼がこちらにまわっていて降りるのに手を貸してくれた。
「そういえばあかり、田上さんが女性ってことは知らされてなかったんだね」
ドアを閉めると泰明さんがこちらに背中を向けてしゃがみこむ。
首を回して見上げてくる彼にわたしも小さく苦笑した。
「はい、まったく聞いてませんでした。なので最初お会いしたときはすごくびっくりして……ところであの?」
しゃがんだままの姿勢でいる泰明さんに首をかしげる。
暗闇でも彼がにっこり笑うのがわかった。
「危ないからおんぶしてあげるよ。ほら、早く背中に乗って」
「いやいやいや! いいですってそんな!」
咄嗟に断ると、その笑みは深くなったようだった。
「また転びたいのかな?」
「う」
痛いところを突かれて口から音が漏れる。
とはいえもう雨も風もやんでいて、地面はぬかるんでるけどだいぶ歩きやすくなっている。
慣れた山道だし、さすがにもう転ぶことはない……と思いたい。
「でもあのほら、わたし重いですし。いつもより慎重に歩きますから、だから大丈夫ですよ」
「慎重に歩いてたら時間がかかるでしょ。僕が君をおぶっていくほうが安全に早く屋敷に着くんだから、あきらめて乗って。乗らないならここから動かないよ」
ぷいっと子どものようにそっぽを向かれてしまう。そこまで言われるとうなずくしかなかった。
失礼します、と声をかけて恐るおそる背中におぶさると、ぐんっと視界が上がった。
「危ないからちゃんとしがみついて」
「は、い」
肩に載せていただけの手を首に回すと青年が歩きだす。
腿の裏を大きな手がしっかり掴んでいて、それが無性に恥ずかしい。
首まわりにしがみついたことで頬が彼の耳に当たってしまう。
胸と背中はこれ以上ないほどぴったり密着していて、きっと心臓の音が相手にも伝わっているはず。間違いなくそう思う。
「あかりはさ、そういうのは平気?」
「え?」
突然の質問に半分抜けていた魂が戻ってくる。
「彼女たちのこと。女性同士ってこと」
「それは……特に気にしないですね」
いわんとすることがわかって、ひとつうなずく。
「お互いの好きという気持ちが本物なら、それでいいんじゃないでしょうか。同性愛を悪いとかダメとか思ったことはないですね」
それどころか『我ら少年探偵組!』で怪人が大森少年に懸想しているかもしれないと思ったときは物凄くドキドキしたし、妄想のなかで二人が仲睦まじく散歩したり食事したりする様子を思い浮かべてはニヤニヤワクワクしていた。
麗花さんと田上さんという女性のアベックに対しても、不快には思わないし否定しようとも思わない。
不思議なほどすんなりと、あぁそうだったのかと受け入れていた。
二人の行く先には様々な問題が待ち構えていると思う。
世間は少数派に厳しいし、差別や偏見だってあるだろう。
でも、これからは自由の時代だ。
自由をはき違えてはいけないけど――少しでも自分らしくいられる時代になっていけばいいと、そう思う。
「ちょっと込み入ったことを聞いてもいい?」
ところどころ月明かりがさすゆるやかな山道を登りながら、泰明さんが遠慮がちに切りだした。
「あかりは姫様に対して、特別な想いというのはない? 姫様から嫁って言われてるし、なにかその……恋愛感情みたいなのを持ったことは……?」
「姫様に、ですか?」
訊かれて思わずまばたきする。
わたしにとって姫様は主だけど、同時にわたしの母であり姉であり妹のような存在でもある。
唯一無二の大好きで愛してやまない姫様だけど――そういう恋愛要素のある『好き』とは別といえるだろう。
「そういうのは……ない、と思います」
答えた声を心もとないと感じたのか、腕を回している首がわずかに動く。
本当に? と聞かれた気がして言葉を重ねた。
「姫様のことはもちろん大好きです。本当にもう、心の底から愛していると胸を張って言えます。でもそれは……愛は愛でも、特別な家族愛というか」
もう少し前だったら、もしかしたらよくわからなかったかもしれない。
でも今ならちゃんとわかる。
のぼせてしまうような心地も、甘やかな胸の痛みも知っている。
それを教えてくれたのは姫様じゃない。
意識しないように気をつけていたのに、おんぶしてもらっているこの状況がまた恥ずかしくなる。それにやっぱり後ろめたい。
思わず身じろぎすると腿を抱える腕がぎゅっと力強さを増した。
「姫様からは、求められることはない?」
「え?」
「ほら、たまに一緒に寝るっていうし……。それって本当はどこまでなの?」
「どこまで……?」
そこでふと気づいた。
もしかして泰明さんは、わたしが恋のライバルになるんじゃないかと心配しているのかもしれない。
彼に敵だと思われるのはすごく嫌だし、それはとんだ誤解だ。
コホンと咳払いして、できるだけ柔らかい声を出す。
「確かにわたしは姫様から嫁と言われてますけど、それはなんというか愛称の一種だと思いますよ? 本当にお嫁さんという意味で言ってるわけじゃなくて――」
「もし夜伽を求められたら、あかりはそれに応える?」
どこか硬い声にさえぎられて、一瞬思考が停止した。
夜伽。
それは確か、みとのまぐわいと同じ意味だ。
訊かれていたことの意味がわかって顔が一気に熱くなる。
「わ……わたしと姫様がですか!? ないですないない! ありえません!」
「ちゃんと断れるの?」
「断るとかそれ以前に姫様はそんなこと求めてきませんから! 今までだって一度もそんなことはないですし、そもそも姫様がそういう愛情を持つ相手は泰治様だけです!」
「…………うん、そうだよね。そういうのは泰治様だけだよね、きっと」
青年の静かな声に、自分の失言を悟った。
泰明さんは姫様と一緒になりたいと思っているのに、わたしはなんてことを言ってしまったのか。
「ごめんなさい……」
「え?」
「今、すごく無神経なことを言いました」
一瞬、胸の下からいぶかしそうな気配を感じ取る。
でもそれはすぐに困ったような、でもなにかを面白がるような気配へと変わった。
「そのことなんだけど……」
そこで青年は口をつぐんだ。
さっと視界が開けて目の前に屋敷の門扉が現れる。
「ごめん、やっぱりなんでもない」
泰明さんは穏やかな声に戻ると、わたしを背中からゆっくりと降ろした。