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111.遅い帰宅(前)

 さいわい雨も風も旅館を出たときにはやんでいた。

 お父さんの傘を支えにして急いで駅へと向かい、無事に電車には乗れたものの――結局村の最寄り駅についたのは九時を大幅に過ぎた頃だった。

 本家に着く頃には十時を回っているかと思うと、もう絶望しかない。


 帰りのバスがまだあることを祈りつつ、早足で改札へ向かって――勝手に足が止まった。

 改札の向こうに背の高い人影を見つけてうなじのあたりがザワッとする。

 相手もわたしに気づいたようで、電灯の下に歩みでてきた。


 橙色の明かりの下でも白く見える面差しは、まったくの無だった。


「た、ただいま戻りました……」

「おかえり、あかり」


 改札を抜けると、いつもより低い声で泰明さんが出迎えてくれる。


「遅くなって……本当にごめんなさい。申し訳ありませんでした」


 深々と腰を折ると頭上で小さなため息が聞こえた。


「とにかく無事でよかったよ。ちゃんと電話を入れてくれたのもよかったけど……でも今何時かわかってる? 本当にすごく……ものすごく心配したんだよ?」

「ごめんなさい……。本当に、すいませんでした」


 声は静かで一見怒っている様子もない。

 でもかなり無理をしているのだとわかった。

 硬く張りつめた声の裏にある怒りの気配に冷や汗が出てくる。


 約束を繰り返し破ったのだから、もう許してもらえないかもしれない。

 いよいよ嫌われたかも。

 そう思うと身体の芯から凍っていくようだった。


「とにかく……ちゃんと帰ってきてくれてよかった」


 突然、ぐいっと腕を引かれて荷物を落とす。

 そのまま転びそうになるのを泰明さんが受けとめてくれて、強く抱きしめられた。


「おかえり。あかり」

「ただいま……帰りました」


 まだ嫌われて――いないらしい。それがわかって心底ホッとする。

 息が苦しくなるほどきつく抱きしめられて、心配かけてしまったことを深く反省した。

 薬品の複雑な匂いと石鹸の匂いがする。泰明さんの匂いだ。

 いつの間にか馴染みあるものになった匂いを吸い込みながら目を閉じかけて――ぎょっとした。


 駅の階段を下りたところに院長先生が立っていた。

 彼は煙草をふかしながらのんびりこちらを眺めていて、目があった途端にっこりと笑いかけられてしまう。


「泰明さん、ちょ、一回離れ……泰明さん!」

「やだ」

「でもそこに院長先生がいてててててッ!?」


 ふいに両手首を掴まれたかと思うと片方を背中に捻られてしまう。そしてそれが支点となって、もう片方がうしろにキリキリ引き伸ばされていく。


「泰明さ――」

「ねぇ、これなんの匂い? 知らない石鹸の匂いがする」


 泰明さんが身体を離してこちらをのぞき込んでくる。

 逆光で真っ黒になった顔にゾワリと肌が粟立った。


「髪も湿ってる。服だって朝と違う。なんで?」

「そ、それは……って、わたしたち朝会いッ!?」


 勢いよく腕を引かれて肩の関節が悲鳴をあげる。

 正面でひそやかに笑う気配がした。


「ねぇ、どこでなにしてたの? 言って」

「言います、言いますからッ! 腕を――」

「ヘイヘイヘーイ」


 ふいにわたしの横で声があがり、青年の顔に大量の煙がかかる。

 次の瞬間、彼は激しく咳き込みながら手を離した。わたしも突然の煙に軽い咳と涙が出てしまう。

 いつの間にか隣にきた院長先生が、今度は輪っか状の煙を吐きながらくつくつと笑った。


「ははぁ、煙草の煙が苦手とは。お前ってやっぱり魔性なんだな」

「誰がッ! こんなことされたら誰だって――」


 言いかけて、身体をくの字に折りながらゲホゴホと何度も咳きこむ。

 慌ててその背中をさすると彼は大丈夫だというように片手をあげた。


「大丈夫だったかい、あかりちゃん?」

「あ、はい。わたしはあの……大丈夫です」


 泰明さんではなくわたしに問いかける院長先生に、ひとつうなずく。


「大丈夫ですか、泰明さん」

「だいじょ……ぶ。ごめん、あかり……」

「いいえ、お怒りはごもっともですから。あとで拳骨でも平手でもなんでもしてください」


 後半部分は小声で伝えると、彼はハッと息を飲んだ。そのままなぜかうなだれてしまう。

 その丸まった背中を院長先生がバシッと叩いた。


「さ、帰ろうぜ。話は車の中ですればいいだろ。葉月も待ってることだし」

「葉月ちゃん! そうですね、早く行かないと……行きましょうか、泰明さん」

「……うん」

「あ、泰明。帰りはお前が運転な」

「はい……。さっきはすいません、ありがとうございました」

「いーってことよぅ」


 なぜかお礼を言う青年に院長先生は大きく笑った。




 車はバス停のそばに停められていた。

 後ろの席に院長先生と並んで座ると、泰明さんが運転席に乗り込みエンジンをかける。

 慣れた様子で車を動かす姿にちょっと驚きつつ、さてどこから話したものかと思っていると肩を優しく叩かれた。


「あかりちゃん、お腹空いてない? よかったらこれお食べ」

「わ、どうもありがとうございます。いただきます」


 渡されたのは竹の皮でひとつひとつ包まれたおにぎりだった。ありがたくひとつをいただき口に運ぶ。

 でも実は、お腹はそれほど空いていなかった。


 手提げに入っていた謎の包み――それは田上さんが入れてくれたおにぎりだった。

 そのおにぎりを帰りの電車でいただいたおかげでひもじい思いをせずにすんでいたのだ。田上さんには感謝しかない。


「で、だ。食べてるところ悪いんだけど、泰明の質問に答えてあげてくれる? あかりちゃんは今日、どこでなにをしてたのかな?」

「ええと……」


 口のなかのものを飲み込んでから隣の院長先生に顔を向けた。


「昨日、急ぎの仕立て依頼がありまして。それで今日は生地を買いにデパートの近くまで行っていました。でもその帰りに……実はちょっと転んでしまって」


 本当は田上さんに会うのが目的だったわけだけど、院長先生がどこまで知っているのかわからないのでその部分は伏せておく。


「雨のなかというのもあって服や髪がびしょびしょになってしまったんです。それで困っていたら田……親切な女性が助けてくださって。お風呂をいただいたり服をお借りしたり、いろいろよくしていただきました。でもそのぶん帰りが遅くなってしまって……。本当にすみませんでした」

「あらまぁ大変だったのね。にしてもずいぶん優しい人がいたもんだ。わざわざ知らない人を家にあげるなんざぁ、そうそうできることじゃないよな」

「あ、お家じゃなくてお宿に連れていってもらいました」


 院長先生の言葉を訂正すると奇妙な沈黙がおりた。


「「宿?」」


 運転席と隣でいぶかしそうな声があがる。

 わたしはおにぎりをかじりながらうなずいた。


「はい。といっても泊まらなくていいお宿でして。からくり屋敷みたいな楽しい旅館でした」

「「からくり……?」」


 また声が重なる。


「えっと、そこは行きと帰りで違う玄関を使うんです。脱いだ靴がいつの間にか別の玄関に移動しててびっくりしました。部屋にも偽物の地袋があって、それは鏡になっていたんです。面白いですよねぇ。ちなみにお風呂は七つもあるそうで。なんだかすごいお宿でした」

「へー。で、あかりちゃんはその人と一緒にお風呂入ったの?」


 ガックン、と勢いよく車が停まる。


「泰明ぃー安全運転だぞー」

「すいません……」


 青年が暗い声で謝り、ふたたび車が動きだす。

 なんだか車内の空気が重苦しい。ちょっと戸惑いながらもわたしは首を横に振った。


「いいえ、お風呂はもちろん別々に入りましたけど」

「へーその人も入ったんだー」

「おじさん……」

「だってお前も気になるだろ? まぁこの様子なら大丈夫だと思うんだけどー……。あかりちゃん、その人と寝たりした?」


 車内の温度がガッと下がった気がした。

 二人の妙な雰囲気に思わず眉をひそめる。


「いえ……ずっとお喋りをしてましたけど……」

「だよね~!」


 院長先生が明るく言い、運転席からは盛大なため息が聞こえてくる。

 車内の温度が少し上がった。


「それじゃあね、あかりちゃん。今の話は絶対誰にもしちゃ駄目だぞ~」

「え、なんでですか?」

「そこは連れ込み宿といって――」


 ガクン! とまた勢いをつけて車が急停止した。

 すぐに泰明さんが運転席から身を乗りだして院長先生と向かいあう。その顔はこちらからは見えないけど、機嫌の悪そうな空気だけはひしひしと伝わってきた。


「おじさん。余計なことは言わなくていいです」

「なんだよちっとも余計なことじゃないだろ? 彼女も年頃なんだし、そういうのはちゃんと知っておいたほうがいいって」

「まだ知らなくていいです。そのうち僕が教えます」

「どういうことですか? 連れ込み宿ってなんですか?」


 なんだかよくわからないけど、わたしはなにかおかしなことを言ったのかもしれない。連れ込みという言葉はどことなく不穏だった。

 泰明さんが背中越しにこちらを見る。その目は妙に優しげだ。


「あかり、とにかく今の話は誰にもしちゃ駄目だよ。きっと誰かに話したくてうずうずしてるかもしれないけど、それは絶対――」


 そこで口をつぐんだ。

 暗い中でも青年の気配がパッと明るくなる。


「いや……僕と一緒に行ったってことにしたらいいのか」

「へ?」

「うん、それならいいや。僕と一緒にそういうお宿に行ったよって話すならいいよ。僕もその体でみんなに話すから。あとで情報共有しよ?」

「ヘイ泰明ちゃん。俺の前で堂々悪だくみたぁいい度胸だね」


 運転席に戻った泰明さんを今度は院長先生が追いかける。


「見逃してくれませんか?」

「そんじゃお前の給料、この先一年半額にしちゃおっと」

「……あかり、やっぱり今のなし。誰にも話しちゃ駄目」


 拗ねたような声に、院長先生が満足そうにうなずきながら席に戻る。

 よくわからないけど結局言わないほうがいいらしい。

 ちょっと腑に落ちないけど、二人がそう言うのなら仕方がない。


「わかりました。でもその……連れ込み宿というのは?」

「いやー世の中にはいろんなお宿があるもんだね。おじさんの知ってるとこだと壁に天井に鏡がついててさー」

「おじさん黙って!」

「そういやあかりちゃん、うちの顕微鏡使いたいんだって? だったら今度、加加姫様のおこもりが明ける前に夕飯うちに食べにおいでよ」


 壁に天井に鏡? と思っていると話題が変わってしまった。

 思わず目をしばたたくと、彼は窓に肘をつきながらこちらを見てくる。


「ほら、前から飯食いにおいでーって言ってたじゃん。うちで一緒に鍋でもつつこうぜ?」

「いいんですか?」

「もっちろーん! そんじゃ決まりね。そういやこの前さぁ――」


 流れるように院長先生の話は続く。

 その後は車が停まることもなく、院長先生の面白い話を聞いているうちにあっという間に倉橋病院に到着した。

 連れ込み宿がなんなのかはわからなかったけど、あとで辞書で調べてみよう。

 そう思いながらわたしは車を降りた。



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