110.ご休憩(四)
抱きしめていた布団が突然爆発した。
いや――田上さんが掛け布団を跳ね上げて立ちあがっていた。
その目は濡れて光っている。
「ひどい……」
ぽつりとつぶやくと彼女はカッと目をつり上げた。
「ひどい、ひどすぎる! なによそれ! 何様なのよ! 絶対許さない!」
「ちょ、お、落ち着いてください」
突然の剣幕にこちらの涙が引っ込む。そのぶん田上さんがボロボロ涙をこぼす。
泣きながらこちらをにらむ彼女になにを言っていいかわらかない。
「あんた……なんで平気なのよ。私だったらそんな親、絶対見つけだして同じ目にあわせてやる。彫刻刀で背中ギッタギタにして殺してやる!」
掛け布団をつかむと田上さんは勢いよく壁を叩きだした。
バフボフと音がして埃が舞い、白い布団カバーがべろりとめくれあがる。このままだと生地が裂けて綿が出てくるかもしれない。
「お、落ち着いてください田上さん! ほんとは刺青じゃなくて焼印ですから! ね、いったん落ち着きましょう!」
慌てて掛け布団を抑えると、彼女は床に叩きつけるようにしてそれを離した。
「はぁ!? 落ち着けるわけないでしょこんなの! ていうか焼印てどういうことよ! 赤ん坊は饅頭でもどら焼きでもないのよ!? 信じられない……焼きゴテで頭へこむまでぶん殴ってやる!」
「わ――――! 田上さんちょっとごめんなさいね――――!」
今度は枕を掴んでぶんぶん振り回す田上さんに掛け布団をかけて、ひるんだすきに上からのしかかる。
布団は畳の上でしばらくジタバタしていたものの、やがて動きを止めた。
「いきなりごめん」
なかからぼそりと謝罪が聞こえてくる。
布団をめくると、バツの悪そうな彼女と目が合った。
「こちらこそすみません。でも……ありがとうございます。本当に優しいですね、田上さんて」
「はぁ? 優しいとかじゃないから。誰だってそんな話聞いたら怒るに決まってるでしょ」
「そう……ですか?」
「じゃああんた、自分の友達からそんな話聞いたらどう思う?」
「……田上さんと同じかそれ以上になるかもしれません」
キミちゃんの場合を想像して、竹槍を掴みたくなった。
彼女にそんなことをした人はたとえ肉親だろうと地の果てまで追い詰めて刺す。
田上さんは目元をぬぐうと、盛大なため息をついた。
「なーんか訳ありっぽいと思ってたけど、想像以上だったわね」
「すみません」
「なんで謝るのよ」
浴衣がはだけるのも構わずに田上さんは片膝立てて畳に座る。
その正面に正座すると、彼女はボサボサになった髪を手櫛で整えながらこちらをじっと見つめてきた。
「私は女だから麗花と一生一緒にはいられない……。あんたは背中にあるもののせいで好きな人に好きって言えない、か。お互いつらいわね」
「そうですね。でもわたし……なんだか今すごく……気持ちがすっきりしています」
「奇遇ね。私もよ」
そう言うと彼女はふふっとおかしそうに笑った。
わたしもつられて笑ってしまう。
現実は変わらない。
でもはじめて自分から誰かにこの背中のことを打ち明けて、たったそれだけのことで心が軽くなっている。
それに受け入れてくれる人がいるとわかったことも、思いもよらない嬉しい誤算だった。
胸の奥にじーんと痺れるような感覚がある。
身体はぽかぽかふわふわして、心が沸きたつような高ぶりを感じていた。
「田上さんも、誰にも言えずにいたんですか?」
「そりゃそうよ。言えるわけないじゃない、こんなこと。まぁ私は倉橋さんにちょっと愚痴ったりはできたけど……」
「田上さんも、たくさん悩んできたんですね。ずっと……苦しかったですね」
悩んで、でも誰にも言えなくて。
すごくつらかっただろうと思う。
なのに麗花さんと二人でいるときはすごく幸せで……それがまたつらかっただろうなと思う。
――今、ふと気づいた。
つらかったのはこの現実だけじゃない。
孤独であることもまた、同じくらいつらかったのかもしれない。
境遇は違ってもはじめて仲間と思える人を見つけて、ただそれだけのことで心強さを感じていた。
「一人じゃないっていいですね」
「一人じゃない……か」
田上さんは少しの間天井を見つめ、小さく笑った。
「なんか、大声出したらお腹空いちゃったわ。ちょっと待ってて」
そう言うとさっと浴衣を直して部屋を出ていってしまう。
そういえばわたしも少しお腹が減っている。今何時だろう?
とりあえずぐしゃぐしゃになった布団を元に戻してから懐中時計を見る。
時刻は七時半。
一度目を閉じてから、もう一度盤面を見た。
七時半。
「…………ぅ、うわっ、うわあああああ!」
まずい。非常にまずい。
電話した帰宅時間に間に合わない。
急いで衣桁にかかっている服を取る。多少乾いているようだけどまだ湿っている。
でもそんなことを言ってる場合じゃない。
「ねー、おにぎりもらって……どしたの? そんな血相変えて」
「たっ田上さん! わたしもう行かなきゃ! 早く帰らないと大変なことになるんです!」
「は?」
「帰宅時間に間に合わないんですッ。あああどうしよう、絶対めちゃくちゃ怒られる……!」
状況をわかってくれたのか、田上さんはおにぎりの載ったお盆を部屋の隅に置くとバサッとなにかを投げてよこした。
「あんた、そっちを着なさい。それはまだ乾いてないでしょ」
駆けよってきたと思ったら履きかけているズボンを強奪されてしまう。
その勢いに負けて畳に転がりながら、さすがのわたしもムカッとしてしまう。
「なにするんですか!?」
「多分サイズは問題ないと思うわ。濡れたのはこっちでまとめるから早く着替えなさい」
その言葉に、投げられたものがロングスカートと長靴下であることに気づく。
濡れていないそれは田上さんがこの旅館に預けてたという荷物入れから出されたものだった。
「ダメですそんな、悪いですッ」
「いいから着なさい。風邪ひきたいの? ていうか時間ないんでしょ?」
「~~~~っすいません! お借りします!」
確かに一刻を争う事態だった。こういうやりとりの時間ももったいない。
決心して手早く着替え、すぐにコートを羽織る。
幸いコートは裏地まで濡れてはおらず、帰り道に凍えてしまうことはなさそうだった。
「こっち。早く」
廊下に出ると、田上さんは浴衣に裸足のまま走りだす。
来た方向とは違う気がするけど必死であとをついていき、そうしてたどり着いた先にあったのは小さな玄関だった。
入ってきたときと違う玄関に来てしまって、わけもわからず田上さんを見る。
彼女は三和土に置かれている下駄箱からめぼしい扉を見つけたのか、表面につけられた銀色の小箱に木札を差し込んだ。
そうして開いた扉から出されたのは、なんとわたしの靴だった。
「すごい、忍者のからくり屋敷みたい」
状況を忘れて思わず感動してしまう。
出入口が複数あって、いつの間にか靴も移動していて。
そういえば部屋の地袋も偽物だったし、探せば他にも面白い仕掛けがあるのかもしれない。
「馬鹿なこと言ってないで聞きなさい。いい? 前の通りを右にまっすぐ行くと十字路に出るから、そこを右に曲がるのよ。その次の十字路は左、その次は右。あとはまっすぐ行くと駅に出るから。そこまで行けば帰れるわね?」
厚手のケープでこちらを真知子巻きしながら田上さんが見つめてくる。
それに向かってわたしも大きくうなずいた。
「はい、大丈夫です。十字路を右左右ですね」
その通り、と言うように彼女はふっと笑った。
傘と手提げ、それに着てきた洋服入りらしい風呂敷包みを渡されて、肩をトンと叩かれる。
「気をつけて帰りなさい。倉橋さんによろしく。じゃあね」
「あ、待って!」
あっさり部屋に戻ろうとする田上さんを慌てて引き留める。
背中越しに振り返った彼女に、わたしは大きく頭を下げた。
「突然押しかけてすみませんでした。でも話を聞いてくださって、どうもありがとうございました。それに服とかお風呂とか……本当にありがとうございます。このお礼はまたあらためてさせてください」
「いいわよ別に。その服だってもらいものだし。欲しかったらあげるわ」
田上さんはなぜか急にむすっと表情を変える。
目はまたつり上がっているけど……でももう怖いとは思わない。
もしかしたらあまりにもいい人すぎるから、あえて怖い態度を取って人を寄せつけないようにしているのかもしれない。
「あっ、そうだ宿代! ちょっと待っ……あれ、これってなんですか?」
「もーいいからさっさと行きなさい! 倉橋さんに怒られるんでしょ!?」
「そうですけど! でもこういうのはちゃんとしないと」
田上さんがドスドスと床を鳴らしながら戻ってきた。
手提げから謎の包みを出したところで手をガシッと抑えられる。
顔をあげると田上さんがより一層怖い顔でこちらをのぞきこんできた。
「だったら次会うとき、そのとき色付けて返しなさい。それで全部チャラよ」
「次……」
田上さんはぱっと手を離すと歩きだしてしまう。
「また会ってくれるんですか? 会ってくれるんですね?」
「だーもーうるさい! 早く行け!」
その背中に向かって声をあげると、彼女は振り返りもせずに怒った声を出す。
「絶対ですよ田上さん、また会いにきますからね。そしたら今度こそちゃんと作戦立てましょうね。約束ですよ」
「はいはいわかったわかった。じゃあねバイバイ」
田上さんは廊下を曲がって見えなくなってしまった。
薄暗い玄関に一人取り残されて、でも不思議なことに――寒さはまったく感じなかった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
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