109.ご休憩(三)
丸まった掛け布団――もとい田上さんを抱きしめながら、どうしたものかと考える。
お隠れになった天照大神はどうすれば出てきたんだっけ? 確か天宇受売命が裸踊りをして……うん、それはさすがにわたしにはできない。
思えばわたしは家さえも絡むような個人間の問題を仲裁したことがない。せいぜいが同級生の喧嘩を仲裁するくらいだった。
それにどれもこれも恋愛絡みじゃない。この手の話にはとんと疎いのだった。
『相手に信頼してほしいのなら、まずは己から相手を信頼することだ』
ふいに思い出した言葉は、姫様からのもの。
そうだ……相手に心を開いてほしいなら、まずは自分から心を開くのが礼儀かもしれない。
ちょっと恥ずかしいけど、意を決して抱えた布団に顔を近づける。
「実はその……わたしにも好きな人がいまして。その人には他に好きな人がいるんですけど、わたしはその好きな人の好きな人も大好きだから、二人が一緒になってくれたらなって思ってるんです。でも最近、好きな人のことをますます好きになっているみたいで……。相手にはちゃんと別に好きな人がいるって、そうわきまえなきゃいけないのに……それが抜けがちになっちゃうんですよね」
田上さんの反応はない。
「そういえば、好きな人の好きな人にはこれまた別に好きな人がいるんです。でもその方は故人でして……亡き人を超えるには一体どうしたらいいんですかね」
「……さっきからなんの話?」
いぶかしそうな声が返ってきた。
そう言われると困ってしまう。
「えーと。人生は、特に色恋沙汰は……なかなか思い通りにはいかないなぁ、という話です。多分」
なんじゃそりゃ、という無言の声が聞こえた気がした。抱きしめた布団から脱力する気配が漂ってくる。
すべてを拒絶するような空気が呆れたような空気に変わって、ちょっとだけホッとした。
腕の下で田上さんがもぞりと動く。
「ねぇ。あんたの好きな人ってどんな人?」
自分に興味を持ってもらえた。
それが嬉しくて、つい頬がゆるんでしまう。
「優しい人です。いつも穏やかで思いやりがあって、家族愛がとても強くて。それにかっこいいのにかわいいところもすごくあって。でも少し……だいぶ心配性で」
「ふぅん」
「知れば知るほどいろんな面が見えてくる、万華鏡みたいな人ですかね」
「……ちょっとだけ麗花に似てるかも」
「あ。そういえば麗花さんも似た者同士って言ってましたね」
「ん?」
「え?」
「……なんでもない」
相手のいぶかしそうな気配に首をかしげる。
麗花さんは自分たちを油だとも言っていた。二人とも清流のように澄んだ雰囲気があるから、どちらかといえば水のような気もするけど。
「あんたはいいの?」
布団がふたたびもぞりと動いた。
「その人に好きだって言わないの?」
彼女の言葉に思わず苦笑する。
「例えばですけど、田上さんは麗花さんが好きじゃないですか。そんなときに特になんとも思ってない人から好きって言われたら、どうですか?」
「……気持ちは嬉しいけど、ごめんなさいって言うわね」
「そうですよね。それにもしも――」
慌てて口を閉じる。
無意識に背中のことを言おうとしていた。それに気づいてゾッとする。
でも同時に……無性に彼女の反応を知りたいと思ってしまった。
もしも家族のように親しくなった人の背中に刺青――いや、焼印があるとわかったら。
普通の人はそれをどう思い、その後の付き合いをどうしようとするのか。
もちろん予想はできる。現に田上さんには強い忌避感を持たれた。
でも、もしも。
もしも仲良くなったあとに知ったとしたら、どういう反応になるのだろう。
わかりきったことだとしても試しに聞いてみたい。
「もしも、なによ?」
興味を引かれたように田上さんが促してくる。
田上さんは泰明さんじゃない。村の人でもない。
……旅の恥はかき捨てだ。
「もしも麗花さんと出会う前に田上さんがその人といい雰囲気になったとして、その人から背中に彫り物があるって打ち明けられたら。田上さんはどうしますか?」
できるだけ感情を込めずに、淡々と聞こえるように言ってみる。
布団から漂う空気がはっきりと強張った。でもそれは数拍してゆるゆると弛緩していく。
「うーん……そうねぇ……」
彼女は小さくうなりながらつぶやく。
すごく考えてくれているのがひしひしと伝わってきて、それだけでなんだか泣きたくなってしまう。
「まぁ、なんでそうなったのかは聞くわよね。で、今はちゃんとカタギなのかとか、周りに迷惑かけてないかとか確認するかしら」
意外な反応におや、と思う。
その声には嫌悪感がないようだった。
「嫌いになったりはしませんか?」
「嫌いには……ならないと思う。例えば麗花の背中に昇り龍とか鳳凰が飛んでたらってことでしょ? とりあえず親からもらった身体になにしてんのよって怒るわね、うん。それで二、三発ビンタしちゃうかも。それにまだヤクザな世界にいるようだったら、それを絶たない限り私はあの人を拒絶する。私、まっとうに稼がない人間て大っ嫌いだから」
怒ったような声は、でもすぐに穏やかになった。
「でもちゃんとそっちの世界を絶ってくれたなら……私はあの人を受け入れる。背中になにがあってもいい。ずっとそばにいたいと思う」
「…………そ…………ぅ」
声が震える。
気づいたときには視界が歪み、ぱたた、と音を立てて涙が布団に吸い込まれていった。
受け入れる。
背中になにがあってもいい。
その言葉のまぶしさに、声が詰まる。
もちろん田上さんの麗花さんへの想いが、大きな愛があってこそのものだとわかっているけど――まさかの返答に胸が熱くなった。
どうしよう。
どうしようもなく嬉しい。嬉しすぎる。
というか田上さん、本当に麗花さんのことが大好きじゃないか。
「……答えたくなかったらいいんだけど、あんたの場合はどうして?」
どこかいたわるような声に、洟を一度大きくすすってから息を吐いた。
浴衣の袖で目元を拭きつつ呼吸を整えて、力強く答える。
「実は、よくわからないんです」
「……ごめん」
「あ、いえ、答えたくないんじゃなくて。本当にわからないんです」
布団がもぞっと動いた。
不可解そうな空気に、それもそうだろうなと苦笑する。
「わたし、赤ん坊のときに山に捨てられたんです。そのときにはもう、そうなってたみたいで。だから理由は誰にもわからないんです」
「は…………?」
あっけにとられたような声にうなずく。
布団がもぞもぞっと動いた。
「な……に、それ。まさか親に彫られたってこと? え、赤ちゃんに彫ったの? ていうか捨てるって……」
「よくわからないですけど、そうするだけの訳があったんでしょう。そういうわけで、わたしは好きって言うわけにもいかないんです。出自不明で、今後なにがあるかわからないですし。きっと相手を困ら――」
ボッ、と。
抱きしめていた布団が突然爆発した。