10.嫉妬
「それでは今夜はこの辺でおいとましますね」
「おや、もう行くのかえ? 少し早くないかのう」
泰明さんがいつもより早くそう切り出すと、加加姫様が不満そうに口を尖らせた。
「すみません、ちょっと野暮用があって。あかり、今日もとってもおいしかったよ。ご馳走様でした」
「ありがとうございます。お粗末様でした」
丁寧な言葉にわたしも頭を下げる。
「週末はゆっくりできるのであろ? 年始で良い酒をたくさんもらったから、みなで利き酒大会でもしようぞ」
「それは楽しみですね。僕も秘蔵っ子を持ってきます。それじゃあ、おやすみなさい」
帰り支度をすませた泰明さんは姫様と九摩留に会釈する。
姫様は手をひらひら振るけど、九摩留は囲炉裏端でこっくりこっくり舟をこいで聞いていないようだった。狐は夜行性の生き物だけど、彼の場合は早寝早起きなのだ。
姫様に言われるでもなく、わたしも泰明さんと一緒に外に出る。
夜なので朝とは一転、綿入り半纏と普段使いの袷の羽織も着て防寒はばっちりだ。
というのも彼が帰るとき、外で少しだけ立ち話をするのがいつの間にか定着しつつあったから。でも今日は用事があるようだし、すぐに行ってしまうかもしれない。
今夜も空には雲一つなく、満天の星が広がっていた。
夜なのに外は驚くほど明るくて、月が木陰を作るほど眩い光を落としている。
「ところで山菜を採ってきた話だけど。九摩留が最初ふてくされたのはどうしてかな?」
前を行く泰明さんがふとしたように尋ねてくる。
「あれは、実は姫様が九摩留の山菜取りにケチをつけてしまって。あの子が出かけたのは昼過ぎだったんですけど、姫様はもっと早朝に行くものだって言って。二人ともなんで相手に意地悪しちゃうんでしょう……」
「喧嘩するほど仲がいいとも言うけどね。それで?」
「え?」
「言われっぱなしの九摩留じゃないよね?」
「えーと……九摩留が怒って山菜を庭にまいて、そのまま出て行ってしまいました」
途中を少しだけ端折って話す。
すると庭の真ん中あたりで泰明さんが振り返った。
青白い光に照らされた顔は穏やかで、でも陰った目元からは物言いたげな視線を感じる。
気のせいでなければ、少しだけ怒っているような気配もした。
「他にはなにもなかった?」
「あ……ええと……」
ふいに、理解した。
彼は九摩留がわたしに抱きついたことを知っている。わたしが料理している間に姫様が話してしまったのかもしれない。
九摩留とわたしの距離が近すぎると、この前言われたばかりなのに。
「すみません……今後は気をつけます」
気分が落ち込むまま頭を下げると、慌てたような気配が伝わってくる。
「ごめん、怒るつもりじゃないんだ。自分でも筋違いってわかってる。でもどうしてもその……」
言葉が途切れて沈黙が落ちる。
少しして、ふっと息を吐く気配とともにすまなそうな声が聞こえた。
「ごめんね」
思わず顔を上げると、先ほどとは一転、叱られた子どものようにしょんぼりと肩を落とす泰明さんがいた。
「どうして、泰明さんが落ち込むんですか」
「それは……」
沈黙の中で言葉を探しているのがよくわかる。
砂利を踏む音とともに泰明さんが近づいてきた。身体が触れてしまいそうなほどの距離まで来ると、彼は少し困ったように笑った。
「だってあかりは嫁入り前の女の子なんだから。あんまり無防備でいたらいけないよ」
「………………そ、う……ですか…………」
なぜだろう。
わたしを心配してくれている言葉だとわかるのに。
わかるのに、どうしてかその言葉が――胸をえぐった。
「そういうことでしたら……安心してください。わたしはどこにもお嫁に行きませんから」
気がつけば言葉がするりと出ていた。
その声の硬さに自分でも驚き、そして彼も驚いたように目を丸くする。
「わたしは誰とも結婚しませんので」
念を押すようにもう一度言って泰明さんに背を向ける。
どうしよう――つい反抗的になってしまった。
でも、後悔している一方で、余計なお世話だと思ってしまっている自分もいる。
怒りとも悲しみともつかない感情が押し寄せて、なぜだか無性に泣きたくなる。
ああ、胸の中がぐちゃぐちゃだ。それに寒い。
芯まで凍えてしまいそうだ。
屋敷の玄関ガラスから漏れる光があたたかくて、吸い寄せられるように足が出る。
まだ「おやすみなさい」も「また明日」も言ってないけど……今夜はちょっと言えそうにない。
「待って」
突然手首を掴まれて身体がすくむ。
「ごめん、余計なことを言った。本当にごめん……」
「謝らないでください。泰明さんはなにも悪いこと言ってませんから。あと、手を放してください」
放してと言ったのに、拘束は緩むどころか強まった。
軽く痛みさえ感じる力に思わず眉をしかめる。
「お願い、ちゃんと謝らせて。それに今言ったこと……できればどういうことか聞かせてほしい」
その言葉にカッと頭に血が上るのが分かった。
「言いたくありません! 泰明さんには関係ないことです!」
お見合いするくせに。
結婚してしまうくせに。
わたしの前からいなくなってしまうくせに。
もやもやした思いが明確な言葉となって胸の内に浮かび、その場に凍りついた。
昼間聞いた話は忘れようと思っていたのに。
嫌な気持ちは胸の奥底にしまっておこうと思ったのに。
どちらも全然できていないことに、あらためて気づかされる。
どす黒い感情は渦を巻いてどんどん膨れ上がる。今にも余計なことを叫んでしまいそうで、わたしは必死に奥歯を噛んでこらえた。
――ふいに手首が軽くなった。
思わずそちらを見ると、泰明さんが片膝をついて身体を折り曲げていた。
「え……」
どうしたのかと声をかける前に白檀の香りがふわりと漂い、自然と意識がそらされる。
「あかり」
鈴の音のような声にハッとした。
振り返れば、姫様が燐光をまとって佇んでいた。
風もないのに真っ白な髪が緩く広がり、いつもは赤い瞳が鬼灯の実のような朱金色に染まって不思議な輝きを放っている。
その神秘的な姿に一瞬見惚れ、でもすぐに泰明さんの異変を思い出した。
「姫様! どうしよう泰明さんが!」
「落ち着けあかり、大丈夫だ。大丈夫だから」
小さな両手がわたしの両手を包み、安心させるように繰り返す。
でも、と視線を戻そうとしたときだった。
『あかり』
不思議な声音に動きが止まる。
姫様の大きな眼がこちらを食い入るように見つめてきて身体が硬直した。
『疾く眠れ』
その一言で、わたしの意識は途切れた。
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