108.ご休憩(二)
お風呂はまさに極楽だった。
張られたお湯がかなり熱めというのもあって、短時間で頭の先からつま先まですっかりポカポカになっている。どうやらくしゃみも止まったようだ。
教えられた通り『さくら』の扉を三回叩くと、カチンッと音がして田上さんが顔をのぞかせた。
「おかえり。私もお風呂もらってくるわ。部屋の鍵、ちゃんとかけとくのよ」
「あっ、はい。いってらっしゃい」
すでに浴衣姿になっている彼女を見送り、鍵をかけてあらためて部屋を眺める。
廊下から続く床板には上がり框と小さな板間がついていて、まるで小さな玄関のようだ。
襖の向こうは四畳半ほどの畳部屋で布団が一組敷かれていた。正面には窓があり、その下で巨大なアコーディオン状のもの――本家の応接室にも置かれているスチーム暖房がカンカンと音を立てている。
壁際にある鏡台の卓上には大きなガラスの水差しとグラスが二つ置かれていた。
「飲んでいいのかな……?」
部屋の温度は湯上りにはちょっと暑くて、表面に水滴をつける水差しに思わず喉が鳴った。
グラスに水を注いで、それをいただきながら窓を少しだけ開けさせてもらう。
「あ。雨、弱くなってる」
雨だけじゃなく風も落ち着いているようだった。
凍えるほど寒かった空気が今は肌に心地よい。グラスの水もよく冷えていて、おまけに柑橘の風味がしてとても美味しい。
心の底からほっと一息つくと、すぐ脇にある屏風型の衣桁に目がいく。
そこにはハンガーを使ってわたしのズボンやコート、靴下などが重ならないように掛けられていた。
「田上さんてすごくいい人だなぁ……」
最初こそ怖かったものの、ここに来るまでのことを思い出してしみじみつぶやいてしまう。
そういえば麗花さんは、田上さんのことを気が強いけど繊細でお人よしと言っていた。お人よしというよりは、とても親切で面倒見のいい人だと思う。
見ず知らずの――おまけにカタギじゃないかもしれない人に対してここまで優しくできるなんて、なかなかできないことだと思う。
「よし」
お風呂でとろけた頭が冷たい夜風でしゃっきりする。
窓を閉めてとりあえず部屋を占領している布団を片づけようかと思うも、ここには押し入れがないようだった。そのかわり片側の壁に地袋のような低い襖がついている。
座布団が入っていることを期待してそこを開けてみるも、残念ながら空間はなかった。
「なんで鏡?」
あったのは座布団じゃなくて鏡だった。なぜか壁にそって横長に伸びている。
畳から膝上くらいの高さしかないから姿見とは違うのだろう。でもまるで意味が分からない。
「とりあえず……パジャマパーティーってことでいいのかな」
着ているのは浴衣だし、お茶やお菓子はなくとも布団の上でお喋りするならパジャマパーティーと言ってもいいはず。
掛け布団を三つ折りにしてよけておき、敷布の上に座って髪を拭いていると、少ししてドアが叩かれた。
「おかえりなさい!」
「……ただいま」
さっそく田上さんを出迎えると一瞬相手の目が丸くなり、なぜかむすっとした表情をされる。
「はぁ~。もうここには来ないと思ってたのに……私ってほんと馬鹿。ほんとお人よし。なにやってんのかしらね、もう」
田上さんはどこかあきれたような声を出しながら、さっきのわたしと同じように部屋の窓を開けた。
グラスに水を注いで渡すと一気に飲み干し、こちらをじろりとにらんでくる。
「で、あんた倉橋って言ったわよね。もしかして倉橋さんの妹? にしちゃあ全っっっ然似てないけど」
「もしかして……泰明さんのことですか? でしたら、わたしは彼の親戚です」
田上さんの元恋人である麗花さんは泰明さんと恋人を演じていた。
それなら田上さんも泰明さんに会ったことがあるのかもしれない。
「ふーん、親戚ね。じゃあいっか」
田上さんは空のグラスを鏡台に置いてわたしの隣にやってくる。
小山になった掛け布団にゆったりしなだれると、どこか皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「で、どうする? せっかくだしやることやっとく?」
「やること?」
「寝るかって聞いてんの」
「今からですか?」
確かにお風呂はいただいたし布団の上だし、いつでも寝れますという状況ではある。
でも今寝たら夜寝られなくなるかもしれない。それに九時には村に帰っていなければならない。
「寝るよりお喋りをしませんか? わたし、田上さんとお話ししたいです。えっと……田上さんてお休みの日はなにされてるんですか?」
会って早々いきなり本題に入ったことを反省し、まずは相手の人となりがわかりそうな質問をしてみる。すると彼女はぷっと吹き出した。
「なによそれ、お見合いじゃないんだから。……そういえばあんた、最初すっごくいぶかしそうにこっち見てたけど。まさか私が女って聞いてなかった?」
「はい。てっきりその……男性だとばかり」
村にも晶という名前の女性がいるけど、昭という男性もいる。
それに麗花さんの――女性の恋人だから、と先入観を持ってしまった。
「はぁ。あの人のやりそうなことね。麗花は人を驚かすのが好きだから」
麗花、と口に出す田上さんは穏やかな表情をしていた。
今なら本題に入っても大丈夫かもしれない。
「あの……麗花さんは田上さんのことを今でも愛してるって言ってました。田上さんは麗花さんのこと……どう思ってるんですか?」
穏やかな表情が一転、しかめっ面になった。
口紅の取れた唇がへの字に曲がる。
「…………嫌い」
「本当に?」
「嫌いよ、あんな人」
彼女は少し大きい声を出すと掛け布団の上で仰向けになった。
「いつだって勝手気ままでわがままで、人の迷惑なんてまるで考えないんだから。高慢で傲慢な悪い女王みたい。あるいは他人の生き血をすすって美貌を磨く魔女か。どっちにしろろくなもんじゃないわね」
「そ、そうなんですか?」
なんだかすごい言われようだ。
「それなのに変なところでやせ我慢する変人で。遠慮すべきところは遠慮しないくせに、遠慮しなくていいところは遠慮する天邪鬼なのよ。それになんでもかんでも全部ひとりでやろうとするかっこつけ。おまけにド変態。もう最っ低」
「じゃ、じゃあその部分を直してもらえたら、田上さんは麗花さんのこと――」
「麗花はそれでいいのよ。それが麗花なんだから」
上半身を起こした田上さんは苦笑する。
「…………やっぱり本当は好きなんですね」
岡部さんも言っていた。
田上さんは、本当に麗花さんを愛しているからこそ身を引いたのだと。
じっとその目を見つめると彼女は無言で視線をそらす。
「田上さん。このままだと麗花さんは泰……倉橋さんと結婚することになりますよ? それでもいいんですか?」
「いいもなにもできないでしょ、倉橋さんが断固拒否なんだから。麗花も馬鹿よね。本当に縁談を取り付けてくるとは思わなかったわ」
「え?」
「私は麗花と違って両想いの人たちを引き裂いてまで自分を優先したいとは思ってないの。倉橋さんはちゃんと愛する女性と堂々結婚できるんだから――」
「待ってください。それ、どういうことですか?」
なんだか聞いた話と微妙に違う気がする。
思わず田上さんに顔を近づけると、彼女はきょとんとしたように目を瞬かせた。
「麗花はね、倉橋さんとの結婚を隠れ蓑にして一生一緒に暮らしていこうって……ずっと前からそう言ってたのよ。あの人なら絶対に自分には指一本触れてこないし、それに男と肌を重ねなくても子どもを作る方法はあるからって。もうめちゃくちゃでしょ?」
「めちゃくちゃというか……麗花さんは田上さんと別れてしまったから、だから泰明さんと結婚するつもりだって……」
「……もしかしてあんた、麗花と倉橋さんの結婚には反対だったりする?」
問われて咄嗟にうなずく。
田上さんが、ははーんとつぶやいて目を細めた。
「なるほどね。だからあんた、こんなこんな犬も食わないことに首つっこんでるのね。麗花にいいようにされて可哀そうなこと」
「じゃ、じゃあ麗花さんと田上さんがよりを戻したら、いよいよ泰明さんは麗花さんから逃げられないってことですか? そんな――」
「よりは戻らないわよ」
彼女の静かな声にハッとする。
掛け布団に肘枕してこちらを眺める田上さんは、どこか遠い目をしていた。
「確かにその話はすごく魅力的だったわ。心が揺れなかったと言ったら嘘になる。でもね、私は誰かの不幸のうえに成り立つ幸せなんて欲しくないの。よりにもよって親しくしてた倉橋さんを犠牲にするなんて……それだけは絶対駄目」
きっぱり言い切ると田上さんがくすっと笑う。
化粧の取れた顔はあどけないけど、その毅然とした表情はどこまでも大人だった。
「岡部さんから麗花と別れてほしいって言われたときね、ここが潮時だって思ったわ。女と女、ご令嬢と庶民……最初からいろいろ無理があるのよ。あんただってそう思うでしょ?」
「それは…………」
言葉が続かない。
彼女の言葉はどこまでも悲観的だ。
でも同時に残酷なことではあるけど――どこまでも現実的だった。
「私と別れたらあの人もそのうちあきらめるでしょ。あの人にとっても、みんなにとっても……こうするのが一番いいのよ」
「……でも、それだと田上さんが……」
「私はいいのよ」
そう言うと彼女はもたれていた掛け布団に顔をうずめてしまう。
眠いわー、とくぐもった声が聞こえてくる。それはきっと嘘だ。
「……考えましょうよ、一緒に」
田上さんのそばに膝を寄せて、顔を囲む腕にそっと手を載せる。
「だって田上さんは、麗花さんのことが好きですよね? 麗花さんだって田上さんのことが好きなんです。なにかいい方法はないか考えましょうよ」
「無理。考えたって無駄よ」
「えーとほら、たとえば……駆け落ちとか?」
心中や駆け落ち以外と思いつつも、ついついそう言ってしまうと彼女の気配が強張った。
「駆け落ちしてあの人に貧乏暮らしを我慢させるの? 冗談言わないで。あの人にそんな苦労させたくない」
田上さんは顔をあげない。
声だけじゃなく全身から刺々しさが伝わってくる。それが痛々しい。
「わかってるわよ。だから私が諦めればいいんでしょ? そうすれば全部まるく収まるんだから」
「田上さんが諦めたってまるく収まるとは限りませんよ」
「もーいちいちうるさいなぁ。あんたには関係ないでしょ、ほっといてってば」
「ほっとけません」
即座に返すとその身体が大きく震えた。
次の瞬間、バッと掛け布団にくるまってしまう。
なぜか天岩戸という言葉が浮かんだ。
「余計なお世話よこの出しゃばり女! そういうのすっごく迷惑だから! もうあっち行って!」
「……ごめんなさい。でも想い合っているお二人を見て、どうにか力になれないかなって思っちゃうんです」
「バーカバーカ。なにもできないくせに勝手なこと言ってんじゃないわよ。あんたに私のなにがわかるってのよ。もうここから出てってよ。早くいなくなってちょうだい」
田上さんはすっかり自暴自棄になっているらしい。
でもその気持ちはわからなくもない。
自分さえいなければすべてうまくいく――そう知ってしまったら、わたしだって同じ選択をするだろう。
ちょっとだけ途方に暮れながら、わたしは丸まった掛け布団を抱きしめた。