106.電話をしよう
「ごちそうさまでした」
「はーい、ありがとうございます。お代はお連れ様からいただいてますので結構ですよ」
そう言ってウエイトレスさんはにこっと笑う。
それに会釈しつつ、わたしはカウンターの上にあるものを見つめた。
総レースの敷布に鎮座しているのは黒く艶光りする丸みを帯びた箱。
穴の開いた円盤がついたそれは黒電話と呼ばれるものだった。
帰宅が約束の時間より遅れるとわかった以上、屋敷の留守をお願いしている葉月ちゃんにそれを連絡する必要がある。
問題はその手段だった。
通常、郵便では間に合わないような急ぎの連絡がある場合には電報を使う。前に友達とデパートへ出かけた帰り、電車の大幅な遅延があったときにはお父さん宛に電報を打っていた。
でも今回は本家の電話にかけてみるのもありかもしれない。
本来電話は――それも市内ではなく市外への電話は身内の危篤を知らせるときなど、本当に緊急の用があるときだけと相場が決まっている。なぜなら通話料金がとても高いからだ。
でもこの支払いはわたしだし、きっと怒る人もいないだろうし。使っちゃいけない理由がない。
ずっと使ってみたいと思っていた電話……今使わずしていつ使うのか。
「あのっ。そちらの電話、お借りできますか?」
「もちろんいいですよー。一回十円です」
十円。いただいた紅茶の三分の一以下ですむとは、思っていたよりだいぶ安い。
「すみません、実は電話を使うのがはじめてでして……。使い方を教えていただいてもいいですか?」
「いいですよー。まずはその受話器を取り上げて耳に当ててください。コードが伸びてるほうは口の近くに寄せてくださいね。かけたい番号は?」
「えっと、ちょっと待ってくださいね」
お財布や懐中時計をしまっていた手提げから雑記帳を取り出す。裏表紙の内側にはなにかあったとき用に本家の電話番号を書きつけてあった。
開いたそれをウエイトレスさんがのぞきこんで、きゅっと眉を寄せる。
「もしかして市外です?」
「はい」
「すみませーん。市外は駄目なんですよー」
彼女はにっこり笑うとわたしの手から素早く受話器を取り上げて元に戻した。
「あ、そうでしたか。それはどうもすみません」
電話にもいろいろ種類があるらしい。
そういえばまだ多くの電話が壁にかけられた大きな木箱型だと聞くし、そういう大型のものじゃないと市外へかけられないのかもしれない。
「この近くに市外にもかけられる電話ってありますか?」
「二軒隣のタバコ屋に赤電話があるんですけどー……あれって確か市内だけ? 市外もできるんだっけ、マスター?」
カウンターのなかで新聞を読んでいたマスターさんは黙って肩をすくめる。
ウエイトレスさんは長いおさげをゆらしながらあごに手をやった。
「でもあそこの電話って外にあるから、話すにしても傘さしながらじゃ大変ですよねー。ちょっと離れたところに電話ボックスがあるんですけど、それなら雨風しのぎながら市外にかけられると思いますよ。よかったら道案内しましょうか?」
「おい……」
にこにこと笑う彼女にマスターさんが顔をしかめる。
でも彼女はどこ吹く風だった。
「だってお客さん全然来ないじゃないですかー。ご常連の皆様方も注文してくれないし。暇なんだもーん」
そのあけすけな声にこちらを見ていたおじいさん二人がささっと顔を伏せる。
「これも人助けですよマスター。すぐ戻るし、ちょっとくらいいいでしょ?」
「あのっ、大丈夫ですよお姉さん。外は雨ですしお姉さんまで濡れちゃいますから。道を教えていただけますか?」
「雨なんてへーきへーき! ねぇーお父さんいいでしょー?」
「おい」
「マスター、ねぇー」
どうやらウエイトレスさんは彼の娘さんだったらしい。
カウンターに身を乗りだして拝む彼女をじーっと見たあと、マスターさんが大きなため息をついた。
「お嬢さん。そいつを使いな」
「え、でも市外は駄目なんじゃ」
思わず首をかしげると、二人は意味ありげに視線を交わした。
「本当はかけられるんでーす。ねーマスター?」
「悪い奴がいたもんでよ。市内へかけるふりして市外へかけて、料金をごまかす奴がたまにいるんだ。あんたはもう自己申告してるし、ちゃんと料金払ってくれりゃあ構わないよ」
「そうでしたか……。ありがとうございます、では遠慮なくお借りします。ちなみに市外っていくらくらいするんでしょうか?」
ドキドキしながら尋ねると、マスターさんとウエイトレスさんはふたたび視線を交わした。
それから同時に首をかしげる。
「さてな。かける場所によって変わってくるし、即時か待時かでも違うな。まぁ即時ってのはできる場所が決まってるが……お嬢さんはどこにかけたいんだい?」
「あ、同じ県内なんですけど――」
思いきって本家の住所を伝えると、マスターさんはうなずきながら口ひげをなでた。
「じゃあ待時だな。それにも種類があって普通と至急と特急ってのがある。これは相手が出るまでの待ち時間が違うんだ。特急料金は普通料金の三倍かかるが、文字通り相手に早く繋がるよ」
「そうですか。だったら特急……いえ、至急にしてみます」
「それなら三分以内に話したとして百円くらいかな。ちなみに至急だと三、四時間待つ場合もあるから覚悟しときな」
「え!? それはちょっと……」
予想外の待ち時間にぎょっとする。
電話って意外と時間がかかるものなのか。普通を選んだ場合は一体何時間待たされてしまうのだろう。
というか――。
「そんなに待つならウナ電と変わらねぇって思うだろ? 笑っちまうよなぁ」
「今度ウナ電と電話、どっちが早いか試してみるか」
うしろで面白がるような声が上がった。振り返るとおじいさんたちがこちらを見て笑っている。
ウナ電とは至急電報のことだ。普通電報より高いけど大体二、三時間で相手に電報が届く。
料金は市外、十字以内で六十円。そこから五字ごとに十円が加算されていく。十五字書いたとして七十円、ウナ電にして百四十円……。
「ちなみに特急電話にするなら待って一、二時間かな。通話料は百四十円とかそれくらいだろう」
「ははぁ……。電話って案外、料金も所要時間も電報と大差ないんですね」
紅茶約五杯分のお値段で一、二時間待ち。でもそれなら田上さんの退勤時間にも間に合う。
なんにせよ五時まで暇だし、むしろここで時間もつぶせてちょうどいいかもしれない。
「わかりました。じゃあ特急電話でいきます」
「よし。そんなら、まずは連絡したいことをできるだけ簡潔に書きだしな」
「そーそー。はじめてだとあがっちゃって、なに喋っていいかわかんなくなっちゃうもんねー」
「俺も最初はまぁ緊張したっけなぁ」
「俺なんて泡吹くかと思ったぜ。どうしていいかわかんなくてよ、黙ってたら交換手の姉ちゃんに怒られちまった」
カウンターにおじいさんたちも集まってきて、みんな懐かしむように電話体験談を喋りだす。
それに耳を傾けつつ台本を書きあげると今度は電話の心構えやお作法を教えてもらった。
念のため喋る練習もして、いよいよ受話器を耳に当てる。
耳元でツーという音を確認しマスターさんに向かってうなずいた。
「よし、そしたらまずは百番にかけな。この数字の書いてある穴に指を入れて、ダイヤルをストッパーのところまで回すんだ。ダイヤルが戻りきる前に次の数字を回すんじゃないぞ?」
「そしたら交換手が出るからよ、何番って聞かれたら、かけたい電話番号を教える。相手の名前と自分の名前も忘れんな」
「あとで向こうがかけ直してくるからな、この店の電話番号も教えるんだぞ。言うこと言ったらあとはあっちで線を繋げる作業になる。受話器を戻していったん切る、と」
「どれだけ待つかは神のみぞ知る、なんだねー」
「わかりました」
みんなが見守るなか、ドキドキしながら教えてもらった数字のダイヤルを回す。
コロコロコロ、ジ――……と小気味いい音がしてなんだか楽しい。
三度ダイヤルを回して少しすると、いきなり女性の声が聞こえてきた。
『もしもし。何番ですか?』
「うわっ、あの、ええと」
練習したけど緊張のせいか咄嗟に言葉が出てこない。
というか――すごい。わたしは今、ここにはいない人と喋ってるのか。
『もしもし? 何番ですか?』
「あっ、ごめんなさい! えっと、市外をお願いします」
いけない、感動している場合じゃなかった。
慌てて雑記帳にある本家の電話番号と名前、それから差しだされた喫茶店のマッチ箱にある電話番号を読みあげる。
「通話は特急でお願いします。あと、通話が終わったら料金を知らせてください」
『はい、それではお繋ぎします。受話器を戻してそのままお待ちください』
言われるまま受話器を置いて、ふーっと大きく息をつくとまわりで小さな拍手が起こった。
なんだかちょっと照れくさい。
でもあとはとにかく待つだけだった。
待ち時間はまるで退屈しなかった。
ご常連だというおじいさんたちとカウンターに並んで座って、マスターさんとウエイトレスさんも交えて電話の話に花が咲く。
昔はダイヤルがなかった、電気も自分でハンドルを回して起こした、音質はもっと悪かった、最近の交換手はぶっきらぼうな奴が多い……などなど。
その興味深い話を聞きながら、二杯目の紅茶を飲み終えた時だった。
ジリリリリリリリ! と、電話から激しい音がして全員ビクッと肩が跳ねる。
「来たぞ! ほら出ろ嬢ちゃん」
「一時間半か、まあ妥当だな」
促されるまま受話器を取ると、先ほどとは別の女性の声が電話を繋いでもいいか確認してくる。
返事をして待つことしばし――。
『もしもし。倉橋でございます』
「もっもしもし! 倉橋あかりです! タタ、タエさんはいらっしゃいますか?」
出た。繋がった。
電車で二時間も離れた場所にある本家の誰かと、わたしは今喋ってる……!
ふたたび感動しつつも、今度は少しだけ落ち着いて女中頭のタエさんをお願いする。
すると受話器の向こうからパッと明るい気配が伝わってきた。
『おやまぁあかりさんですか? 私、タエでございますよぉ』
「タエさん! よかった、あのっ、葉月ちゃんに伝言をお願いします。すみませんが帰りが遅れます。八時か九時に帰りますとお伝えください」
『はぁ、ちょっとお待ち下さいね……葉月嬢ちゃまに、遅れると……八時か九時……。かしこまりました』
「あ、それと! もし泰明さんがそちらに来たら、泰明さんにもその旨お伝えください」
『えーと葉月嬢ちゃまと、それに泰明坊ちゃまにも……。えぇえぇ、かしこまりました』
「ありがとうございますっ。では切りますね、どうも失礼しました」
受話器を戻すと拍手が起こり、それにぺこぺこ頭を下げて応えた。
ほどなくしてジリリリリリリリ、とまた電話が鳴る。あ、と思ってマスターさんを見ると、わたしが取るように促された。
『ただいまの通話は――』
電話に出るなり女性が喋りだす。それはあらかじめみんなから教えてもらっていた通話料金の案内だった。
電話を切るとさっそくその料金と、待っている間にいただいた紅茶のお金をカウンターに置く。
「どうもありがとうございました。電話をお借りできて助かりました。それにいろいろ使い方も教えていただいて、本当にありがとうございます」
「どういたしまして。連絡できてよかったな」
「相手の人にも、もーすぐ会えるねぇ。よかったねぇ」
ほら、とウエイトレスさんが壁掛け時計を指さす。
時刻は四時五十分――なんやかんやですっかりいい時間になっていた。
少し事情が込み入っていることもあって、みんなには細かな説明を省き、急遽知り合いに会いに来たと話している。ウエイトレスさんにはなぜか痴情のもつれと思われているようだった。
「またなお嬢さん」
「気をつけてねー」
「「風邪ひくなよー」」
マスターさんとウエイトレスさん、そしてご常連のおじいさんたちに見送られて喫茶店を出る。
外はすっかり暗く、おまけに雨脚が強まっていた。
強風まで出ているせいでそれまでの暖かさが一瞬で奪われてしまう。
乾いてきていたズボンや靴下がふたたび濡れていくのを感じながら、ビルの正面でじっとその時が来るのを待っていると――やがて一人の男性がガラスのドアを押して出てきた。
傘が飛ばされないように持ち手をしっかり掴みながら急いで男性に近寄る。
「すみません! この会社の方ですか?」
「えぇはい、そうですけど……なにか?」
相手は傘をさしながら驚いたように目を丸くする。
「あの、こちらに田上アキラさんという方はいらっしゃいますか? その方にお会いしたいんですけど……」
「田上? 田上田上……あー、確かそんなのがいたな。ちょっと待ってて」
そう言うと彼はビルに戻ってしまう。
ぞろぞろと大量のサラリーマンが出てきて、その波が引いた頃に男性が戻ってきた。
「お待たせお嬢さん。こいつが田上です」
「…………この方が、田上さん?」
男性のうしろから現れた人を見て、そう言わずにはいられなかった。
相手もわたしを見て訝しそうに眉をひそめる。
「私が田上ですけど。なにかご用ですか?」
そう名乗ったのは――女性だった。