105.待ち伏せ(後)
岡部さんはスプーンを置くとコーヒーを手にした。
湯気の出ていないカップの上を吹いてゆっくり口をつける。少しの間ぼんやりした目でテーブルを眺めたあと、ふたたびこちらに視線を戻した。
「あの二人が結ばれる方法はひとつです。心中しかありません」
ささやくような声は、気の毒にとでも言いたそうだった。
心中。
それは相思相愛の二人が現世で結ばれることを諦め、来世で結ばれるべく――ともに自殺すること。
脳裏に麗花さんの声がよみがえる。
なにがあっても必ず一緒になってみせる、という彼女の言葉は――あれはそういう意味だったのだろうか。
「そもそも田上さんを選ぶということは家族も病院も捨てるということです。なんの不自由もなくここまで育ててくれた両親を悲しませ、大勢の期待を裏切り混乱に陥れ……そこまでして己の欲を優先させたいですか? それで本当に幸せになれますか?」
岡部さんは食事を再開しながら話を続ける。
「心中でないにしても、駆け落ちだって無意味です。旦那様は麗花様を連れ戻そうとするでしょう。それから逃れるためには日陰の道を行かねばなりません。生活はすぐに行き詰まるでしょうね」
逃げても無駄なのです、と。
男は低くつぶやく。
「それにあの方は小さい頃から家業を継ぎ次代へ繋ぐことを求められてきた。いつも飄々とされてはいますが、その責任感は非常に強い。逃亡生活のなかで己のしたことが心を蝕み、病み伏せってしまうかもしれません」
器のふちについたチーズの焦げをスプーンでこそげながら、岡部さんが目をあげる。
そこにあるのは憐れみだった。
「一時の感情に流されればいつか必ず後悔します。本人が冷静な判断を失っているのですから、まわりが諫めずしてどうしますか」
「……でも……」
「あなたが麗花様のために心を砕いてくださるのは嬉しく思います。ですが、これ以上はどうかお控えください」
岡部さんが背筋を伸ばし、深々と頭を下げる。
言葉が出てこない。頭がうまく働かない。
厳しい現実を突きつけられて、目の前が暗くなるようだった。
「田上さんは……」
かすれる声に、一度咳をする。
「田上さんは、麗花さんを今でも愛しているんですよね? せめて、田上さんの本当の気持ちを麗花さんに伝えることはできませんか?」
岡部さんの瞳がわずかに揺れた。
「麗花さんは田上さんに嫌われたと思っています。本当は愛されているのに嫌われたと思ったままで別れるのは、それはあまりにも悲しすぎます」
「駄目です。田上さんの本心を知れば麗花様はますます後には引かないでしょう。そうなれば破滅しかありません。さて……昼休憩は終わりました」
「え。…………え!?」
慌てて懐中時計を出すと、昼の一時を過ぎていた。
そういえばなんとなく聞こえていた周囲のざわめきもなくなっている。話に夢中でベルの音にも気づけなかった。
いつのまにか彼の料理も飲み物も空になっている。
愕然としていると岡部さんが立ち上がった。
「田上さんが次に出てくるのが五時頃だとして……そこから会って話をすると、帰路につくのが六時、七時ですか。そこからさらに二時間ほどかけて帰るとなると、だいぶ帰宅が遅くなりますね。うら若き娘さんが一人で出歩く時間ではありません。きっと倉橋さんも大層心配なさるでしょう」
……やられた。
まんまと相手の時間稼ぎにのせられていたらしい。
「最初から田上さんに会わせないつもりだったんですね」
「その通り。ですから今日はもうお帰りください。そしてここにはもう二度と来ないでください」
思わず男をにらむと、彼は口元に小さな笑みを浮かべた。
「麗花様にはあなたがちゃんと田上さんに接触されたとお伝えします。あなたの話を聞いたうえで田上さんが麗花様に会わないと決められたなら、それはもうどうしようもないこと。あなたはやれるだけのことはしたわけで、その結果まで責任を負うものではありません」
テーブルに置いてあった伝票を男の手が取りあげる。あ、と思って手を伸ばすも彼は首を横に振って紙を遠ざけた。
正直頭を下げたい気分ではないけど仕方なく黙礼する。
岡部さんも軽く会釈を返して歩きだし、ふと足を止めた。
「そうそう、私がお伝えしたことですが……麗花様には内密に願います。麗花様と旦那様の関係は悪くはないですが、良いともいえません。このことを知れば関係は一気に悪化して病院をも巻き込んでの内紛に発展しかねませんので」
「岡部さんは……最後まで家のこと、病院のことなんですね。麗花さんの気持ちに寄り添ってあげる気はないんですか?」
なんだか悔しくて、ついそう言ってしまった。
もちろん岡部さんだって主人の麗花さんのことを気にかけているはずだろうけど、ずっと事務的な態度を崩さない姿には反感を覚えてしまう。
振り返った男はわたしを見て警戒するような目をした。
「田上さんは麗花様を本当に愛しているからこそ身を引いた。あなたは決して余計なことはしないでください。いいですね?」
そう言い残すと岡部さんは足早に行ってしまった。
大きい背中がドアで隠れてしまうと、無意識に大きなため息が出てしまう。
「どうしよう……」
テーブルの上のパフェを見つめて思わずつぶやく。
岡部さんは田上さんに会うなと言った。
わたしは本当に田上さんと会わないほうがいいのだろうか。
二人が一緒になれる方法はないのだろうか。
「心中や駆け落ち以外の方法……」
二人が周囲の反対にあっている原因は、田上さんが麗花さんの婿養子になれるだけの資格がないからだという。
資格というのは……やっぱり家柄とかそういうことだろうか。
それに麗花さんは東京の大きな病院の跡取りだというから、お相手もお医者様じゃないといけないのかもしれない。
田上さんは会社勤め――サラリーマンのようだから、きっとお医者様ではないのだろう。
となるとこれから勉強して専門の学校に行くとして、どれくらいでお医者様になれるものか。
……いや、今からお医者様を目指すのは現実的じゃない。麗花さんと泰明さんのお見合いはもうすぐなのだから、それに間に合わなければ意味がない。
お医者様じゃない場合で周囲も納得できそうなもの……例えば大富豪になるとか?
でもそれだって成功するまでに時間がかかりそうだ。
田上さんが会社でどういう立ち位置にいるかはわからないけど、きっと社長さんぐらいすごい人にならないと認めてはもらえないだろう。
となると、一攫千金を狙えるもの……宝くじ? 徳川埋蔵金を見つけ出す?
ダメだ、どれも現実的じゃない。
それ以外でなにかないか。
「そうだ……麗花さんの命の恩人になるとか?」
娘の危機を救ったことでその父親から認められて夫婦になる話は昔話にもよくある。
となると麗花さんはまず悪者に誘拐されたりなにかの生贄になる必要がある。
うん、ダメだ。
現実離れにもほどがある。せめて火事とか水難あたりだろう。
さすがに火事は怖いから近くの海で漂流なんていうのはどうだろうか。
そうだ、いっそのこと二人の死を偽装するのもいいかもしれない!
そうすれば麗花さんの家から追っ手がくることだってないだろうし、日向の道を生きていける。
「……なーんて、どれもダメだよねぇ……」
ひとしきりあれこれ考えて、自分の脳みそに限界を感じた。
どれも現実離れしすぎているし、よく考えたら全部『我ら少年探偵組!』に出てきた内容だった。
これを真面目に田上さんに話したら頭がおかしいと思われるかもしれない。
こんなことならもう少し社会勉強できるような難しい小説を読んでおけばよかった。ついつい子ども向けの冒険小説や推理小説ばかり手にしていたことが悔やまれる。
恋愛小説だってそうだ。いやでも恋愛小説は成人するまでずっと禁止されていたんだからしょうがない……けど成人して二年が経とうとしてるのに全然読まなかったのは単純に自分のせいだ。
もうダメだ。
おしまいだ。
「……大丈夫ですか?」
「へ?」
突然の声にハッと我に返る。
テーブルのそばでウエイトレスさんがこちらを心配そうにのぞき込んでいた。
「あ、いえ、なんでもないです。パフェ、お下げしますか?」
「あー…………食べます。すみません」
岡部さんにおごられるのはなんだか癪だけど、このまま残すのももったいない。
パフェを作ってくれた人に失礼だし、パフェにだって失礼だ。
それに、落ち込んだ時は甘いものを食べるに限る――キミちゃんの金言もある。
「いただきます」
あらためて手を合わせてホイップクリームを口に入れる。
ふわふわしてなめらかで、甘い。なんだかほっとする。フルーツもみずみずしくて、心を元気にしてくれるようだった。
「…………よし」
パフェを食べ進めるほどに元気が出てくる。
悩んだ時は、まずは自分がどうしたいかを考えてみよう。
わたしは、麗花さんや田上さんに不幸になってほしいわけじゃない。
田上さんを想って涙する麗花さんと、麗花さんのために身を引いたという田上さんに、二人で一緒に幸せになってほしいと思う。
そしてそれ以上に……泰明さんに幸せになってほしいと思う。
わたしがここに来た理由は、田上さんに会うため。
田上さんが麗花さんに会ってくれるようにお願いするためであり、できればその約束を取りつけるためだ。
ここで二人によりを戻してもらわないと泰明さんが幸せになれない。
今日、なんとしても田上さんに会おう。
わたしは今日ここに来るために泰明さんを傷つけた。葉月ちゃんにも迷惑をかけている。それを無駄にしてはいけない。
もちろん駆け落ち――それにもっと最悪の事態である心中だって、二人には絶対に避けてほしいと思っている。
だからわたしと田上さんと麗花さんの三人で、どうにか状況を打開できないか策を練るのだ。
三人寄れば文殊の知恵。きっと、絶対、いい方法は思いつくはず。
泰明さんにも寄ってもらえたら文殊以上のなにかが出てくるかもしれない。
「ごちそうさまでしたっ」
やれるだけのことはしよう。あがこう。
そう心に決めてパフェを空にし、手を合わせた。
懐中時計を見ると、時刻は三時になろうかというところだった。
田上さんに会えるのは五時以降。岡部さんの言う通り、そこから話しをして帰路について――となると村に着くのは早くて夜の八時。
泰明さんや葉月ちゃんには夕食前――七時前には帰ると言ってしまった。
「…………ぅ…………」
一瞬、泰明さんのあの真っ黒い目を思い出して胃がひくっと動く。
お父さんに叱られるときは頭に拳骨または頬に平手が定番だった。いつも二、三発で許してもらえたけど、泰明さんもそれくらいで勘弁してくれるだろうか。
「……やめよう。考えたらきりがないし」
また気持ちが暗い沼に沈んでいきそうになって、ぶんぶんとかぶりを振った。
悪いのは自分なのだから、すべて甘んじて受け入れるしかない。
そう自分に言い聞かせて、わたしは席を立った。