104.待ち伏せ(前)
麗花さんと会った翌日――その日は予報通り朝から小雨が降っていた。
葉月ちゃんは朝一で本家にきてくれて、一緒に朝食をすませてから屋敷へ行き、姫様の私室である奥座敷と貴重品類を置いている納戸以外、自由に使ってもらえるようにした。
「それじゃあいってきます。すみませんが留守の間、よろしくお願いします」
諸々の支度をすませると、玄関でお見送りしてくれる彼女にあらためて頭を下げる。
葉月ちゃんは笑いながら手でオーケーサインを出した。
「はーい任されました。気をつけていってきてね。お菓子あげるからって言われても変な人についていっちゃ駄目よ?」
「ふふっ、はい。ではいってきます」
手を振る葉月ちゃんに手を振り返し、いざ! と出発する。
昨日からの緊張と不安は相変わらずだったけど、一夜明けるとやってやるぞという気持ちも強くなっていた。
大丈夫、きっとなんとかなる。
そう念じながらお父さんのコウモリ傘を片手にバス停を目指す。
今日着ているのはメリヤスにブラウス、厚手のセーター。外套には臙脂色のコート。
いつもならそこにスカートを履くところだけど、今日は雨とあって歩きやすい黒のズボンを選んでいた。合わせているのは焦茶色のエナメル靴だ。
本当はゴム長を履きたいところだけど、さすがに初対面の人と会うのにそれはどうかと思いやめておいた。
バスや電車は雨であってもほぼ定刻通りの運行だった。おかげでなんの問題もなく最初の目的地にたどり着く。
洋品店で葉月ちゃん用の布地を買い、濡れてしまわないように屋敷から持ってきた油紙でしっかり包めば一つ目の任務は無事完了。
それからまた電車に揺られて田上さんの勤め先近くに降り立ったのは十一時過ぎだった。
紙に書かれた住所と電柱に付けられた番地や案内板を確認しながらきょろきょろ歩いていると、会社名が掲げられたビルを発見する。ありがたいことにビルのすぐそばには喫茶店もあった。
完璧だ。
会社のお昼休憩まで時間をつぶすにはもってこいだし、うまい具合に自分もご飯をすませておける。
雨であること以外すべてが順調で思わず顔がにやけてしまう。
『喫茶スワン』と書かれたビニールの庇の下、さっそく傘をたたんで真鍮のドアノブを引く。
ベルの音が美しく尾を引き、冷えきった頬に暖かな空気がふわりと当たった。
「あ。いらっしゃいませー、何名様ですか?」
お店に入ると奥のカウンターに肘をついて退屈そうにしていたウエイトレスさんがパッと顔を輝かせた。
制服の前をさっとなでるとすぐにこちらにやってくる。
「一名です」
「一名様ですね、こちらのお席にどうぞー」
奥の席に案内されつつなかを見渡すと、あいにくの雨とあってかお客さんは数人しかいなかった。みんな初老の一人客で静かに本や新聞を広げている。
シャンソンの流れる薄暗い店内はいくつかのペンダントライトと卓上ランプが灯るだけ。
紫煙でぼやけた空気とあいまって、なんだか冬の囲炉裏端のように心安らぐ光景だった。
赤いビロードの小さなソファに腰を落ち着けると、すぐにお冷とおしぼりが運ばれてくる。
置いてあるメニュー本を眺めつつ、ここは軽い腹ごしらえにしておこうと決めて顔をあげた。途端、待ち構えていたようにウエイトレスさんがやってきてくれる。
サンドイッチと紅茶をお願いして、あとは待つのみ。
食事をすませたら正午の五分前にお店を出よう。
麗花さんいわく、田上さんはいつも近所のパン屋さんでお昼ご飯を買うらしい。そこを捕まえて話してもらえたら、とのことだった。
人相については教えてもらえなかったけど、会社から出てきた人に聞けば田上さんを教えてくれるだろうとのこと。
いよいよその時が近づいてきてわずかに鼓動が早くなる。
運ばれてきたサンドイッチを焦らないようにゆっくり食べ、紅茶で一息つくと少しだけ気持ちに余裕が出た。
懐中時計を確認すると、時刻はお店を出る十五分前だった。
その時、リ――……ンとベルの音が響く。
「…………あれ?」
なにげなく入口に顔を向けて思わず声が出た。
相手もすぐに気づいたらしく、目が合うとお出迎えのウエイトレスさんを無視して一直線にこちらへやってくる。
「岡部さん、ですよね? どうしてここに?」
その相手は麗花さんの付き人――岡部さんだった。
わたしの言葉に対して彼はなぜか目元を険しくする。ただでさえ厳めしい顔つきが一層厳めしさを増した。
大柄な体躯も相まって仁王像に睨まれているようだ。
「やっぱり来たんですね」
正面の席にどっかり座った岡部さんは開口一番、不可解なことを言う。
その迷惑そうな声にわたしも困惑するしかなかった。
「それは……はい。昨日お約束しましたので……」
やっぱりもなにも、田上さんのもとへ今日行くように言ったのは麗花さんだ。岡部さんの言葉はちょっと意味が分からない。
ウエイトレスさんがお冷とおしぼりを運んできた。
ぎこちない笑顔の女性を一瞥し、岡部さんはメニューも見ずにブレンドとパフェ、と低い声を出す。
「岡部さんはどうしてここに?」
「麗花様のご指示です。あなたがちゃんと約束を果たすか確認するようにと」
すごい念の入れようだ。
麗花さんの並々ならぬ意気込みに思わず苦笑する。
「そうでしたか。それなら大丈夫ですよ、これからちゃんと田上さんとお話ししてきますから。安心してください」
安心してくださいと言っても岡部さんは表情を緩めない。それどころか露骨に顔をしかめた。
やっぱりわけがわからない。
「あ。もしかして田上さんが麗花さんと話をするってわかるまで帰れないとかですか?」
「いえ……そういうわけではないのですが」
言葉をにごすと背広の胸ポケットに手をやり、でもすぐに舌打ちしながら腕組みした。なんだか様子がおかしい。
ほどなくしてコーヒーとパフェが運ばれてきた。岡部さんはちらっと腕時計を確認すると、空いたお皿を下げるウエイトレスさんに今度はチキンドリアを頼んだ。
なんだか不思議な注文の仕方だ。
と思っていたら彼は自分の前に置かれたパフェグラスをわたしのほうに押しやった。
「え?」
「どうぞ。食べながら私の話を聞いてください」
「あの、せっかくですが結構です」
咄嗟に断ってしまったけど――でも実際、食べてる暇なんてない。
なんだか胸がざわつく。
そこでベルの澄んだ音がした。それが間髪入れずに何度か続く。
首を伸ばして見ると、背広姿の男性たちが数組、思いおもいの席につこうとしていた。
まずい、もうお昼の時間になったのかもしれない。
「すみません岡部さん。わたし、もう出ないといけないので。ここで失礼します」
「倉橋あかりさん」
立ち上がったわたしを岡部さんが呼び止めた。
その硬い声に思わず足が止まる。
「私は今、麗花様の命令でここにいます。そして、麗花様のお父上の命令も受けて、ここにいます」
麗花さんの――お父上?
岡部さんの顔を見ると、彼は決意のこもった目でうなずいた。
「座って、話を聞いてください」
「でもあの、もう行かないと……!」
「お願いします」
岡部さんがテーブルに額がつきそうなほど頭を下げる。
どうしよう。正直早くお店を出たいけど……このまま彼を放っておくわけにもいかないし。
「…………わかりました。そのかわり手短かにお願いします」
仕方なく席に戻ると岡部さんはすぐに顔をあげた。
コーヒーに口をつけて、わたしにもパフェを食べるように無言で促してくる。
仕方なくスプーンを取りあげて盛られたホイップクリームの一角を少しだけすくった。口に含むとふわっとした舌触りと甘さが広がって、ついつい口の端が上がってしまう。
「昨日は麗花様がいたので言えませんでしたが……あなたにお伝えしなければいけないことがあります」
岡部さんはテーブルに両肘をついて指を組むとこちらをじっと見つめてきた。
「単刀直入に申します。田上さんに会うのはやめてください」
「…………へ?」
すくいあげた桃を落としそうになって慌ててグラスに戻す。
一瞬、聞き間違えかと思った。
でもわたしの目を見て彼はもう一度同じことを言った。
「田上さんでは麗花様を幸せにすることはできません。そのことをわかっておられるからこそ、あの方は身を引いたのです。どうかそのお気持ちを汲んであげてください」
「なにを言って……一体どういうことですか?」
スプーンをグラスに差して目の前の男をじっと見る。
そこでふいに気づいた。
「田上さんが麗花さんを嫌いになったというのは、やっぱり嘘なんですね?」
「旦那様……麗花様のお父上は、田上さんをお認めではありません」
わたしの問いかけに返ってきたのは冷ややかな声だった。
その冷ややかさが移ったかのように、わたしの頭もすっと冷える。
お認めではありません――その言葉が耳にこだまするようだった。
ここでもまた、親の反対なのか。
注文していたチキンドリアが運ばれてきた。
岡部さんはそれをスプーンですくいながらこちらに目を向ける。
「麗花様は緑川家の一粒種です。彼女には緑川病院の後継ぎとしてそれなりの婿を取っていただく必要がある。しかし田上さんにはその資格がありません」
「資格って、そんな――」
「旦那様は倉橋さんを婿に迎えたいとお考えです」
彼は強い調子でこちらの言葉を遮るとわずかに目を伏せた。
「倉橋さんはとても理想的です。私は身上書を見たわけではありませんが……彼なら緑川病院をさらに良いものにしてくださるでしょう。緑川病院のことはご存じですか?」
「確か、東京の大きな病院なんですよね?」
詳しくは知らない……とういうか、本当にそれくらいのことしか知らない。
でも彼にはそれで十分だったらしい。満足げにひとつうなずき、スプーンを口に運んだ。
「資格がないからって、それで麗花さんのお父様は二人の仲を引き裂いたんですか?」
「聞こえは悪いですがそういうことになります。田上さんには私から旦那様の言葉を伝えました」
一瞬、耳を疑った。目の前の男は平然とドリアを食べ続けている。
この人、今……なんて言った?
知らず知らずのうちに手が震えてきて、テーブルの下でぎゅっと拳を作る。
この人は昨日の麗花さんの言葉をどんな気持ちで聞いていたのだろう。
彼女の涙を見てなにも思わなかったのか。
麗花さんの付き人というからには、きっと他の人たちより彼女に近い存在だっただろうに。
彼女に味方はいないのか。
「緑川家を思えばこそ、麗花様を思えばこそなのです。どうか邪魔をしないでいただきたい」
「あなたたちが思っているのは家のことだけですよね?」
自分でも驚くほど冷えびえとした声が出た。
岡部さんがスプーンを止める。
「麗花様を思えばこそ? 一体どこがです? 麗花さんのことなんてこれっぽっちも考えてないじゃないですか。麗花さんの人生なのに本人の気持ちはまるで無視、まわりが勝手にあれこれ決めて……。あなたたちのしていることは、あまりにもひどすぎるんじゃないですか?」
思わずテーブルに身を乗り出して相手をにらむ。
ふ、と男の口に笑みが浮かんだ。
嘲笑――のわりには、それはやけに優しい笑みだった。