103.深夜の反省会(後)
「ほら、おいでよ。膝に座っちゃっていいからさ。ほらほら」
青年は座ったまま腕を広げてにこにこしている。
逆にわたしは腕組みして、無言でそれはちょっと……と訴えた。
「あの……さすがにここでは……」
「大丈夫、こんな時間に人なんて来ないから。昨日だってぎゅっとしてもらってないし、もうストレスも限界。今日はいいでしょ?」
「そう言われましても……」
昨日は食事会が終わったところで泰明さんが家族全員に取り囲まれ、そのまま玄関までお見送りされていた。
あまりにも急なことだったから抱擁はもちろんできていない。
いやそもそも、本家に滞在中はぎゅっとするのは避けておきたい。
とにかく人の目が多すぎるし、あらぬ噂が立ったら非常にまずい。
「あー……。あっ、なんだかちょっと眠くなってきました。泰明さんもそろそろ戻ったほうがいいですよ? 明日もお仕事なんですから」
ようやくいい言い訳を思いつくけど、それは決して嘘じゃない。
濃い目のお湯割りを飲んだこともあってようやく眠気が訪れていた。
身体はぽかぽかになったし、泰明さんとのお喋りで心もすっかり柔らかくなっている。今なら布団に入った瞬間ぐっすり眠れるはず。
そそくさと立ちあがって空いたティーカップとお皿を流し台に運ぶ。すると背後に気配を感じた。
振り返る間もなく腕が伸びてくる。
「あかり」
甘える声とともにうしろからぎゅっと抱きしめられる。肩口に顎が載せられて、顔のあまりの近さにぶわっと変な汗が吹きだした。
「や……泰明さん、誰かに見られますから! ダメですよ!」
小声で叫ぶと耳元で小さな笑いが起きる。
「見られても大丈夫だよ。みんなわかってくれてるから」
「なにをですか!? ちょ……っふ」
頬ずりされて、そのまま耳の縁を唇にたどられてしまう。
ゾクッとするようなくすぐったさに首をすくめると半纏の下に手が差し込まれた。襦袢越しに脇腹をなでる手つきはゆっくりで、その動きを否応なく意識してしまう。
心臓がそのうち破裂するかもしれない。それくらいバクバク音を立てていた。
「かわいい耳……」
「ひぁっ」
吐息混じりの声を直接耳朶に吹き込まれて変な声が出た。恥ずかしさで泣きたくなる。
その一方で声なく笑う気配になにかが加わった。
じっと息を殺して獲物を注視するような、気配が――。
「泰明さん! ふっ、ふざけないでください!」
「しー。静かにしないとみんな起きちゃうよ?」
「う…………ゃあ」
唇で耳をやんわり食まれ、おへその上をそっとなでられて、よくわからないけど限界だった。
このままだとカップもお皿も落とす。
落とせば割れる。みんな起きる。見られる。大惨事。
なんだか目の前がぐるぐるしてきた。
ふいにおへその窪みを指で押され、腕がびくっと跳ねる。
その瞬間手が滑った。
あ、と身体が強張り思わず目をつぶって――でも大きい音はしてこない。
「危なかったね」
代わりに聞こえたのは落ち着いた声だった。
そっと目を開けると、ティーカップが青年の手で受け止められていた。
背中が急に軽くなる。
泰明さんはティーカップを流しの底に置くと一度離れて、すぐにわたしの横に並んだ。
「これもお願いしていい?」
「もちろんです!」
差し出された湯呑を受け取り、蛇口をひねる。
横を見れない。絶対に見れない。
今のは一体なんだったのか。
九摩留といい泰明さんといい、こういうからかい方をするのが男の人に流行っているとか? きっとそうだ。そうに違いない。
じゃないと余計なことを考えてしまう。考え続けてしまう。そして悶々としてしまう。
「あかりは本当にかわいいねぇ」
「ぐっ」
甘やかな声が耳に毒だ。
きっと自分の顔は真っ赤になっているはず。
なにか話題……この空気を変えられる話をしなければ。
「や、いやぁーこうしてすぐ水が出るっていいですね! 本家は浴室にも蛇口がついてましたしお風呂作りも楽ですよねきっと。ちなみに屋敷のお風呂は水を張るのに井戸を何往復もするんですけどそれってバケツ何杯分だと思います? はい泰明さんどうぞっ」
盥に水を張りながら早口でクイズを出すと、うーんと小さな唸りが聞こえた。
そちらにちらっと目を向ければ、彼は口元に手を当てて難しそうな顔をしている。
「ちなみに正解するとなにか出るのかな?」
「豪華賞品が当たるかもしれません」
「あかりをもらえたりするのかな?」
「それじゃあ豪華じゃないですよ。もっといいものがもらえます。温泉旅行とか」
つい強気に出てしまうけど、大丈夫。なにせ当たるわけがない。
屋敷の鉄砲風呂は少し大きくできている。泰明さんが普段入っているであろう院長先生のお宅のお風呂は一般的な大きさだろうし、逆に本家のお風呂は二、三人で入れるほどの大きさがある。
つまり屋敷のお風呂の大きさなんて彼にはわからないのだ。
ちなみに屋敷のお風呂をいっぱいにするにはバケツで二十五杯の水を必要とする。
「僕はあかりがいいなぁ。正解したらちゃんとくれる?」
「……姫様と共有でよろしければ」
わたしの所有者は姫様だ。
でもそのうち泰明さんもわたしの主になるだろうから、当たったところで特に困らない。
いずれ泰明さんもわたしの所有者になるのだから。
彼が真剣な面持ちでわたしをじっと見つめる。
ふふんと内心ほくそ笑むと、形のいい唇が弧を描いた。
「二十五」
「…………せ、正解です」
そんなはずはないと思うけど、頭の中を読まれたようで寒気を覚える。
青年はわたしを見つめたまま悪戯っぽく笑った。
「だって僕、屋敷にいた時は毎日お風呂作ってたからね」
「あ……」
馬鹿だ。わたしは大馬鹿者だ。
泰明さんだって昔は屋敷で暮らしていたのに、それがすっぽり抜け落ちていた。
これじゃクイズにもなっていない。
「それじゃあかり、今夜から僕と一緒に寝ようね」
「寝……!?」
「だって姫様と一緒に寝たりするんでしょ? それなら僕だって一緒に寝てもいいわけだよね。だってあかりは僕のものになったんだもんねぇ」
ふふふ、と照れたように両頬に手を添えて夢見るように微笑まれる。
どうしよう……。
言葉なく固まっていると泰明さんが舌を出した。
「なんてね、さすがに今のはなしでいいよ。ちゃんと正攻法でいくから安心して。僕もまだ死にたくないし」
「? そ、そうですよね、今のはなしですよねぇあははははは!」
よくわからないけど安心していいらしい。
泰明さんはたまにおかしな冗談を言うから困る。きっとこういう反応を見て面白がっているに違いない。ちょっとくやしい。
でも青年はこちらの気持ちを知るよしもないわけで。
流し台に寄りかかるとなにかを懐かしむように目を細めていた。
「あの頃はいろいろやることがあったけど、そのなかでも水汲みが地味に大変だったな。他のお宅だと数日に一度しか沸かさないっていうし、楽でいいなーっていつも思ってたよ。毎日あったかいお湯に浸かれるのはすごく嬉しいんだけどさ」
「わたしも小さい頃、キミちゃんたちに毎日お風呂に入ってるって言ったらびっくりされました。それに二日に一回は髪を洗ってるって言ったら、そんなの絶対嘘だーって」
泰明さんと同じようにわたしも昔を思い出す。
最近ではどのお宅でもほぼ毎日の入浴、そして週に一回はするという洗髪だけど、子どもの頃はその頻度がとても低かったと聞く。
姫様はお風呂が大好きだし綺麗好きというのもあって、自分はもちろんのこと世話役をはじめ屋敷の全員に毎日の入浴を命じていた。
ありがたいことに髪は姫様が一瞬で乾かしてくれるから真冬であっても洗髪はまったく苦痛じゃない。
「そういえばあかりの髪、髪油をつけてないのにいつも滑らかだよね。使ってるのはシャンプー?」
「いえ、普通の石鹸です。それだけだとゴワゴワするんですけど、洗い終わりにお酢をちょっと入れたお湯ですすぐとスルスルになるんです。なんでかはわかりませんけど、お父さんに教えてもらいました」
姫様はシャンプー石鹸を使っているけど、それは贅沢品という印象が強いしお父さんにも使うなと言われていたから普通の石鹸を使っている。
お酢ですすいだあとは綺麗なお湯でまたしっかりすすぐ必要があるけど、昔の洗髪よりは楽だと思う。
お母さんいわく、昔はふのりとうどん粉を混ぜたもので髪を洗っていたそうだ。
洗うのにすごく時間はかかるものの、洗いあがりはしっとりして艶も出たという。
「お酢……」
青年はつぶやいてにっこり笑う。
「泰明さんはわかるんですか?」
洗い終わった食器を脇の簀の子に並べてから隣に向き合うと、お礼とともにハンカチが渡された。
ありがたく手を拭かせてもらいながら首をかしげると、彼はこくりとうなずく。
「えっとね。髪の表面てとっても小さな鱗みたいなものに覆われてるんだけど、髪はアルカリ性になると膨らんで、その鱗が開いちゃうみたいなんだ。普通の石鹸はアルカリ性だから、それで洗うとゴワゴワになっちゃうと」
「開く……。鱗が逆立つ、毛羽立つ感じですか?」
「そうそう。だからお酢を入れたお湯に髪をつけると、その鱗みたいなのが閉じて毛羽立たなくなる。お酢は酸性だからアルカリ性に傾いた髪を中性に戻すんだね」
「中和、でしたっけ」
中学の理科の授業を思い出しながら言うと、泰明さんはふたたびにっこり笑う。
「わたしの髪にも鱗があるんですねぇ……。知らなかったです」
なんとなく自分の髪をつまんでまじまじと見つめる。
鱗のようなものはまったく見えないけど、見えなくてもそういうものがあるとわかっただけでちょっと楽しい。
お父さんに理由を聞いたときは説明してもらえなかったけど、こうしてわかりやすく教えてもらえると理科も身近に感じられた。
「見てみたい?」
「え、見られるんですか?」
「うん。髪の表面を型取りすれば顕微鏡で見られるから、明日か明後日の夕食後に医院においでよ」
「でもご迷惑じゃ……」
「あの二人はそういうのは大丈夫だと思うよ。そんなに時間もかからないし。じゃあ僕からお願いしておくね」
そう言うとこちらの髪に触れてくる。
指の隙間から髪をサラサラとこぼしながら彼は目を細めた。
「普通の石鹸だと髪に優しくないし、洗うのもキシキシゴワゴワして大変でしょ。今度シャンプーを作ってきてあげるね」
「そんな、大丈夫です。それには及びませんので」
「えーなんで?」
どこかいじけた目で見つめられて困ってしまう。
なんでと言われても。
「だって泰明さんはお忙しいんですから。時間もお手間も取るわけにはいきません」
「またあかりの悪い癖がはじまった……。じゃあ今度シャンプーを買ってくるから、それを使ってくれる?」
「もー……あまり無駄遣いしちゃダメですよ。ちゃんとご自身のために使ってください」
「無駄遣いじゃないよーだ。髪が洗いやすくなったらあかりのお風呂も短くなって、それだけ姫様に尽くせる時間が増えるでしょ?」
「……た、確かに」
思わずつぶやくと青年がほほえむ。
なんだかいいように言いくるめられている気がするけど、一理ある。でもそれでいいのかな。
うーん、とあごに手を当てて考えていると、泰明さんがおもむろに大きなため息をついた。
「僕も明日、あかりについていきたいなぁ。仕事休みたい……」
「ダメですよー。つらい思いしてる患者さんたちが待ってるんですから。ちゃんとお仕事しましょうね?」
「……はーい」
しぶしぶといった声で返事をして、それからわずかに表情をあらためた。
真剣な面持ちにわたしも思わず背筋が伸びる。
「明日は気をつけて行ってきてね」
「はい。わかりました」
返事をすると、彼はそっと目元を和ませた。