102.深夜の反省会(中)
少しのあいだお互い無言で夜食を楽しんで、お腹と気持ちが落ち着いたところでほっと息を吐いた。
それが合図のように隣で青年の背が伸びる。彼は湯呑みを置くとこちらに向きなおった。
「あかり。夕食のとき、頭ごなしに否定してごめん。それに勝手に怒って、ごめん」
謝罪の言葉に、一瞬いつものように大丈夫と言いそうになった。
でもすぐにもやもやした気持ちが呼び起こされてしまって、ほろ酔いの口がつい滑る。
「……そうですよ。ひどいですよもう。びっくりしました」
作業台を向いたまま自分の気持ちを正直に告げると、隣からすまなそうな空気がひしひしと漂ってくる。
「本当にごめん……ごめんなさい」
「……いえ、謝らないでください。わたしのほうこそすみませんでした」
こちらを恐るおそる見てくる青年にそっと笑いかける。
「心配してもらってるのにそれに怒ってるようじゃ、まだまだ子どもですよね。それにお誘いを断ってるのに出かけることも、本当に全部自分の都合しか考えてなくて……最低なことをしたと思ってます。本当にごめんなさい」
泰明さんの気持ちを踏みにじったのはわたしだ。
子どものようなわがままを言って、怒って、傷つけて。
また目蓋の奥がしみる感覚がして、ぎゅっと強く目をつぶった。
閉じた視界でも隣で首を振る気配が伝わってくる。
「ううん、あかりはいいんだよ。僕のために行動しようとしてくれたんだから。……まぁ、確かにちょっとショックだったし、悲しかったけど」
こちらをいたわるような声は途中で笑いを含んだものに変わる。
目を開けて横を見ると、彼は卓上の湯呑をじっと見つめていた。
「僕こそ大人なんだから冷静でなきゃいけなかったのに、いきなり不機嫌になったり怒ったりして。子どもっぽくて、本当にごめん」
「……じゃあ、お互い様ってことにしませんか? それでこの話はもうおしまいってことで」
「うん。すごく賛成」
図々しくも提案すると、青年がすぐにうなずいてくれた。
こちらをちらりと見てどこかおかしそうに笑う。
「なんだか前にもこんなことがあったね」
「そうですね」
そのときは姫様が仲介役になってくれた。
まだひと月ちょっとしか経っていないのになんだか妙に懐かしい。確かあのときは仲直りの証に――と思って、とっさに記憶を追いやった。
今では毎晩それをするようになったとはいえ、恥ずかしいものは恥ずかしい。
平常心、と言い聞かせてから泰明さんに笑いかける。
「きっとこの先も、こういうことが何度もあるかもしれませんね」
「……そうならないように気をつけるよ。あかりを悲しませたくはないし」
彼は視線を落として作業台にのろのろ伏せっていく。
そうして突っ伏してしまうともごもごした声を出した。
「僕って本当に駄目だなぁ。もっとちゃんとしたいのになぁ……」
なにやら背中から哀愁が漂ってきて、思わずそっと手を添える。
普段は地中深くに根を下ろした大樹のようで何事にも動じない印象があるけど――今はごくごく普通の、同じ年頃の男の子のような感じがした。
「泰明さんでも弱気になることがあるんですね」
思わずそう言うと少しだけ頭が持ち上がり、腕からちょっといじけた目が覗いた。
「そんなのしょっちゅうだよ。もしかして感情に振り回されることなんかないって思ってた?」
「……いえ、そんなことは……」
図星だった。
青年が悲しげにため息をつく。
「僕はいたって普通のごく平凡な男だよ。好きな人の前でみっともない姿を見せたくないから……嫌われたくないから一生懸命取り繕っているだけ。本当はぐちゃぐちゃどろどろの感情を抱えた欲深い奴なんだ」
そう言って上体を起こすと片肘ついた手に頭を載せた。
こちらを見つめる半眼はどこかやさぐれた感じもして、それが普段と違いすぎてちょっと面白い。
「失望した?」
「まさか。ずっと完璧な人だって思っていたので、そうじゃないってわかって安心したくらいです」
酔いに任せて意地悪な言い方をすると、泰明さんが意外そうに目を瞬かせた。
「九摩留だって、泰明さんのことを血筋も立派な美形の医者だって言ってました。麗花さんも泰明さんの頭の良さは異次元だと言ってましたし、それで誰に対しても礼儀正しくて優しい美人さんってなったら……隙がなさすぎて近寄りがたくなっちゃいます。欠点のある人のほうが、わたしは好きです」
泰明さんの瞳が揺れる。
かすかに開いた唇は、でもなにも言わずに閉じてしまった。
きっと失礼な奴だと思われているに違いない。今だけは酔っ払いの管に巻かれたと思って許してほしい。
「だから、なんだかちょっと嬉しいです。そういうところも知れてよかったです」
ティーカップに残ったお湯割りを飲みきって小さく息を吐いた。
ふわふわして現実感が薄い。少し、いやだいぶ酔っている気がする。
軽くなった口が止まらない。
「優しいけどだいぶ心配性で。いつも落ち着いてるのにたまにちっちゃな子どもみたいで。かっこいいしかわいいし。そういうの、ずるいですよ」
知れば知るほど深みにはまっていく。愛おしいと思ってしまう。
これ以上わたしを惚れさせるのはやめていただきたい。
横目で軽くにらむと泰明さんはなぜか嬉しそうな笑みを浮かべた。
だからそういうのはずるい。やめていただきたい。
「それじゃあいい機会だし、もう少し自分を下げておこうかな」
青年は湯呑に口をつけてからちょっと声を落とす。
「僕は誰にでも礼儀正しくはないよ。田母山神社の大先生とは会うたびに喧嘩になるし、あかりに……家族に失礼な態度を取る人は絶対に許せない。すぐカッとなっちゃうしそれを抑えられない」
「あー……。そういえばそんなこともありましたね」
言われてみればそのどちらも目撃していた。
道切りのとき、それから初午のとき。彼は穏やかさのおの字もなく林田さんと大先生を威嚇していた気がする。
「そういうの、どう思う?」
「そうですねぇ……いつでも冷静に振る舞えたらいざこざを回避できますから、そういう意味では感情を抑えることは大事だと思います」
酔いで鈍くなった頭を動かしながら、少し慎重に答える。
「でも、大事な家族を傷つけられても黙っていなきゃいけないかといったら……それはちょっと違うんじゃないかって思うんですよね。もちろん人それぞれ立場というものがありますから、じっと耐え忍ばなきゃいけないことだってあるとは思うんですけど」
その筆頭は世話役だ。
世話役は誰からなにを言われようとも決して心を動かしてはならない。喜怒哀楽を覚えれば隙ができるからだ。
特に怒りを覚えれば――それに呑まれてしまえば物事の本質を見失い、周りも見えなくなり、そして簡単に罠にかかる。
そんなことでは世話役は務まらないと、お父さんから口酸っぱく言われ続けてきた。
「世話役がこんなことを言ったらダメかもしれないですけど、でもわたしは……家族を誰よりも守りたいです。どうしたって守りたいんです。でも事なかれ主義でいたら、結局は自分が一番大事な家族を傷つけてしまいそうな気がして」
泰明さんしかいないのをいいことに、酔いに任せて昔から思ってきたことをさらけ出す。
自分が傷つけられるのは平気だ。それは我慢できる。
でも例えば九摩留が狐のくせに生意気だ、みたいなことを言われたらわたしだって頭にくる。
だけど諍いを避けるためになんでも聞き流していたら、それを九摩留が知ったとき、きっと悲しい思いをさせてしまう。
守ってくれるはずの人が守ってくれないとわかったら、もう信頼なんてできない。
「だから、冷静でありつつ言うべきことはちゃんと言う……ただしなるべく穏便にすむように、言い方には気をつける……というのがいいんじゃないかって思ってます」
夕食時のことを思い出しながら自戒を込めて言うと泰明さんがこくこくと何度もうなずいた。それを可愛いなぁと思いながら、つい自嘲めいた笑いがもれてしまう。
「でも本当に……お父さんにはきっと叱られちゃいますね。こんな感情的な世話役見たことないって。はぁー……もう本当に世話役失格で……どうしましょう」
今度はわたしが作業台に突っ伏すと大きな手が背中をなでてくれた。
「あかりはもうちょっと感情的になっていいと思うけどな。先代殿はあまりにも厳しすぎたよ。なにを危惧していたかはわかるけど、それにしたって限度ってものが」
「危惧?」
思いがけない言葉に顔をあげると、青年はあっと声を出して手を振った。
「えっとほら……拝み屋をさせるんだったらともかく、あかりは仕立屋なんだからさ。世話役とはいえそこまで厳しくしなくてもって思って。もちろん怒りっぽいのはよくないことだけどね」
そう言いながら泰明さんがこちらの頭をなでてくる。
なんだか微妙に話がずれた気がするけど――彼の手にドギマギしてしまって頭が働かない。指で髪を梳くようになでられていると、なんだかすべてがどうでもよく思えた。
ふたたび作業台に伏せて平べったくなると静かに笑う気配が伝わってくる。
「感情が豊かなのはいいことだよ。もともと君は感受性や共感力が強いから……世話役の修行はつらかったね」
すべてわかっているような口ぶりに、彼も同じ経験をしてきたのだと悟る。
昔の泰明さんはとにかく物静かで淡々としている印象だった。きっと修行のたまものだったのだろう。
「泰明さんもつらかったですか?」
「んー……僕はあかりが屋敷にくるまでは無感情な奴だったから、良くも悪くも平気だったかな。でもあかりには、先代殿の教えは拷問でしかなかったと思う。僕の代わりに……ごめんね」
「なにを言いますか。世話役候補を譲ってもらえてよかったと思ってるんですから。そういうのはやめてください」
顔をあげて笑いかけると青年はわずかに唇を噛んだ。
視線を落として、でもすぐに目を上げる。
「これまでつらいことがたくさんあったと思う。本当に、よく頑張ってきたね」
ふいをつく言葉に思考が止まる。
胸の奥がぎゅっと締めつけられて、慌てて身体に力を込めた。
でないと目からなにかが溢れてきそうだった。
「ねぇあかり。人はみんな気質も性格も異なるんだからさ、世話役だって十人いたら十通りの世話役になると思うんだ。だから君は君らしく、感情豊かなままの世話役でいいんじゃないかな」
「感情豊かな世話役って……そんなのいいんでしょうか」
「きっとみんながあかりに求めているのは先代殿のような冷徹さじゃなくて、人間味あふれる親しみやすさなんじゃないかな。大丈夫、時代も環境も変われば世話役のあり方や求められるものだって変わるんだから」
「……そう……ですね」
「あ、納得してないって顔だ。なにが気になるの?」
泰明さんはくすくす笑いながらわたしの頭から手を離し、こちらに身体ごと向き直った。
わたしも身体を起こして彼にまっすぐ向かい合う。
「だってお父さんみたいになれなかったら……これまでずっと受け継がれてきたものが終わってしまうと思うんです。ただでさえ拝み屋が廃業してなくなってるのに世話役の心得まで次に繋ぐことができなかったら、そんなのいよいよ世話役失格じゃ――」
「そう?」
こちらの焦りや不安とは裏腹に、泰明さんは不思議そうに小首をかしげる。
「拝み屋が廃業になったからこそ、その心得はこれからの世話役には不要というか……むしろ余計な負担だと思うけどな。人と人との仲介だってそもそも世話役の仕事じゃないし。あかりはちゃんと本質を身につけてるんだから、だから大丈夫」
「本質……」
「そう、本質。世話役にとって一番大事なもの」
青年の手が伸びてきてそっと頬に添えられた。
こちらを見つめる黒い瞳は優しく和んで、どこまでも温かい。
「君は誰に対しても柔和で公平で、すべての声に耳を傾けられる人だよ。それに誰よりも姫様のことを想っていて、その身を尽くして心を込めてお世話できている人なんだから。そんな人が世話役失格なわけないでしょ。田母山様だって、あかりはもとの正しい世話役をしているって言ってたよ。だからね、大丈夫だよ」
言いながら親指がこちらの目の下を優しくさする。
ふいに青年の目が悪戯っぽく輝いた。
「それに完璧な世話役なんて近寄りがたいじゃない。実際、先代殿はみんなの信頼も厚かったけどちょっと怖がられてたし。相手に親身なほうが……一緒に泣いて笑って怒ってくれるような世話役のほうが、僕は好きだな」
それは先ほどわたしが言った言葉をなぞらえているようだった。
膝に置いていた手をぎゅっと握りしめる。でないと添えられた手に手を重ねてしまいそうだった。
相手の胸にすがりたいような衝動がこみ上げて、でもなんとかそれを我慢した。
「だからさ。これからも僕に対して嫌だなって思ったときは、我慢しないで嫌って言ってね。それでもし喧嘩になっても毎回ちゃんと仲直りすればいいんだから。というわけで、はい」
目の前で泰明さんがぱっと両腕を大きく広げる。おいでおいでをするように手をこまねいてもいる。
思わずまばたきすると、青年はにっこり笑った。
「仲直りのハグがまだだったね。ほら、早くしよ?」