100.青年と美女 (後)
車は村を遠くあとにしてどこまでも林道を走っていく。
道端には外灯もなく、車内は真っ暗でなにも見えない。なのに泰明の隣は燦々と輝くような気配に満ちていた。
「そういうわけで、努力家な人は大歓迎よ。実際、あなたは頭も腕も両方素晴らしいんだから言うことなし。誰もあなたを反対する人なんていないから安心してね」
青年に首を絞められそうになったにも関わらず、麗花は平然と話を続けて鮮やかに笑った。
冷静さを取り戻した泰明は死んだ魚の目になってぼそりとつぶやく。
「あのとき君に声をかけた自分を呪うよ。こんな目に遭うなら君と関わるんじゃなかった」
「ふふっ、あなたも叔父様と同じ大学に行けばよかったのに。そしたら私たち、きっと出会わなくてすんだわ」
「よかったらもなにも落ちてるからね。君は僕を買い被りすぎ」
女の言葉に泰明は笑う。
叔父の泰時はこの国最高峰と名高い東京の大学を出ていた。父親に言われるままそこを受験したものの、結果は不合格。
そもそも自分の本命は別だったので特に不満はない。
すると麗花が愉快な冗談を聞いたとばかりに声をあげて笑った。
ルームミラー越しに岡部の視線を感じ取る。
「調べによるとね、その時の入試で名前と着席番号を書かなかった人が一人だけいたそうなの。そしてその答案用紙がどれも最高点を出したのですって」
「……へぇ。おっちょこちょいな人がいたものだね」
「そうね、このおっちょこちょいさん」
隣でごそごそとなにかを探る気配がし、カチッと音がして車内が明るくなった。
麗花に差しだされるまま点灯したペン型ライトを持つと、大振りの封筒も渡される。
無言で促されるまま中の書類を出し、文字を目で追っていくほどに青年の眉間が寄っていく。
そこには自分の経歴や素性、人間関係、周囲の評価などが事細かに記載されていた。
外部には知り得ないはずの入試の件もそこに載っており、さらには村における山神信仰や世話役のこと、これまで起きた非科学的な事象についても大まかにではあるが記されていた。
よくこれだけ調べたものだと呆れ、同時に感心してしまう。
「それにしてももったいないことをするわね。なんでわざと落ちるのかしら」
その不可解そうな声に、青年は馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「せっかく家から通える場所に良い学び舎があるんだ、そっちに行かない理由がないだろ。わざわざ東京に出るなんて不経済だ」
「通えるって……だってあなた最初から下宿してたじゃない。どうせ下宿するんだったら東京でも変わらないでしょ?」
「入学が決まってから父親に追い出されたんだよ……」
泰明は暗い目でぼそりと答える。
中学高校の進学にあたり、村を出ていたのは親や加加姫たちの指示によるものだ。それは自分でも納得している。
もし村にとどまっていたら無理やりあかりをものにしただろうし、いよいよ死人が出る恐れもあったからだ。
ただ、大学はあかりの近くで生活しながら通えるものだと信じて疑わなかった。それに一度は父親の許可も得られた。
だがそれに異を唱えたのが加加姫と先代世話役だ。
関係者による話し合いの結果、結局泰明は大学にいる間も村の外で生活することを命じられ、そしてそれまでと同じように極力村に戻ることも禁止されたのだった。
当時は非常に憤慨した。
まるで信用されておらず、獣扱いされるのが悔しかった。
だが結果として彼らの判断は正しかったと思う。大学を出た今でさえ、ともすれば感情を制御できないのだから。
「…………っ」
夕食時、あかりのこわばった表情を思い出して喉の詰まりを覚える。
だが即座に気持ちを切り替えてふたたび書類に目を落とした。
「でもやっぱり東京じゃなくてよかったと思ってるよ。向こうは人が多すぎるし、それにたまにあの子が近くまで来てくれたし」
泰明があえて明るい声を出すと、隣で不可解だと言わんばかりの空気が流れた。
「それってあなたに会いにきたわけじゃないでしょ? 彼女はお友達とデパートに遊びに行っただけで、あなたに会いに行ったことは一度もないはずだけど」
「きっと僕のことを無意識に気にかけていたんだろうね。ほら、あのデパートって大学からわりかし近いし……僕たちは遠く離れていても引き寄せられてしまう運命なんだよ。すごくロマンチックだと思わない?」
ライトの明かりに照らされた女の顔は実にしらけていた。
「その当時はてんで相手にされてないって、それに書いてあったけど?」
「やだなぁ、こんなずさんな報告書を信じたら駄目だよ。僕たちは昔から想い想われの関係なんだ。周りに隠していただけで」
「うちの威信を賭けて、その報告書の信憑性は非常に高いと断言するわ。嘘はついちゃだめよダーリン?」
麗花が朗らかに笑うのを見て舌打ちしたくなる。
確かにあかりは自分に会いにきたわけではなかった。それに自分の家族か彼女の養父母が同行していなければ接近禁止でもあった。
なので仕方なく変装してあかりのあとをつけていたわけだが――。
泰明がひとつ咳払いする。
「君こそ東京に住んでるならそっちの大学に行けばよかったじゃないか。わざわざこっちに来る意味が分からない」
「……あの大学、アキラの職場に近いのよ」
「……あぁそう」
同じ穴の狢という言葉が浮かぶ。
麗花も同じことを思っているらしく、その横顔はどこか苦々しかった。
「とにかく君が詮索好きということはよくわかったよ。これだけ調べてるなら僕には子種がないことも知っているんだろ? 君のご両親も親族方もそんな男に用はないはずだ。僕のことは諦めて他をあたってくれ」
話を変えると彼女が座席に座り直す。
少しの沈黙のあとで麗花が口を開いた。その気配はどこか毅然としていた。
「そうね、あなたの優秀な遺伝子を得られないのはとても残念に思うわ。でも一族にとって一番重要なのは私の胎を通じてこの血を残すことなの。言ったでしょ? 私はあなたたちの邪魔はしないって」
ふ、と横で小さく笑む気配がした。
「ねぇ。処女受胎だなんて聖母マリア様のようで素敵だと思わない?」
「……AIDか」
AID――非配偶者間人工授精。
男性不妊の夫婦にあって、夫以外の第三者から提供された精子を子宮内に注入して妊娠をはかる方法だ。日本では戦後の混乱期に実施された記録があり、実際に子どもも誕生している。
以降、不妊治療のひとつとなっているが――医学や法律、道徳面での諸問題も存在する方法ではある。
だが彼女にそれを問うつもりはなかった。
「あなたならうちで立派な功績を残せるでしょうし、種付けができなくても十分価値はあるのよ。それにただの綺麗な優等生じゃない……豪胆で、いざとなれば人を傷つけることにも躊躇なし。うちの魑魅魍魎どもとじゅうぶんやりあえるでしょ」
女の言葉を裏付けるように、青年が読み進める調査書にはこれまで起こした傷害沙汰についても記載されていた。
中学高校大学における学友や教員たちの評価は軒並み『穏やかで人当たりのいい人格者』とあるのに、尋常小学校以前の村での評価は『大人しいが時折軽挙妄動になる危険人物』とある。
今もそう思われていたらどうしよう、と泰明は少しだけ遠い目をしたくなった。
「ねぇ、うちへいらっしゃいよ。あかりさんはうちが全力で保護するし、あなたたちが心から幸せになれるようにあらゆる面で支援するから」
「断る。君が僕の妻になった時点で僕もあかりも一生幸せになれない。これに関しては今まで何度も断ってきただろ。いい加減あきらめてくれ」
「わかったわ、それじゃあお見合いの席で私をこっぴどく振ってちょうだい。深く傷ついた私は男性不信になって、二度と縁談を受けないと宣言するの」
「最初はそうするつもりだったんだけど、断るなら穏便にって釘を刺されてるんだ。あまりスポンサーの機嫌を損ねるとあとに響くからやめておくよ」
緑川との見合いの席で暴れればさすがの父もほっといてくれると思う。
ただ、それは別として今度は緑川家がほっとかないだろう。麗花を傷つけたかどで倉橋家に報復してくるかもしれない。
そうなったら申し訳ないという気持ちもあるが、あかりとの結婚を認めない家など知ったことではない。
青年は小さく息を吐いた。
「とにかくこの件はさっさと終わらせたい。手を貸すから考えていることは全部話せ。友達のよしみでサービス価格にしといてやる」
「友達……。まさかあなたが私をそんな風に思ってくれているなんて……感激だわ」
どうやら本当に意外だったらしい。彼女は心底驚いたような声を出した。
数少ない友人の一人と思っていたのに、相手にはわかってもらえていなかったようで泰明は少し悲しくなる。
「そうね、じゃあ――Hier kommen wir ins Spiel」
その突然のドイツ語は、ここからが本題だという意味だ。
『彼にも聞かれたくない、と』
泰明もドイツ語に切り替える。
ライトで書類を照らすフリをしながら、鏡のようになった運転席の窓をひそかに窺った。
岡部はまっすぐ前を見てなんの反応も示さない。
学生時代――泰明と麗花は恋人であることを周知させるため、定期的に大学周辺や繁華街を練り歩いていた。その際、過激な話をすることも多かったため使う言葉は英語、よっぽど聞かれたくない話をする場合はドイツ語にしていた。
岡部は英語がわかる。
最初からドイツ語を使わなかったのは、この男の耳に入れておきたい情報があったということか。
『そもそもどうしてこんなことになったのか、まずはそこからお話しましょうか』
麗花はことの発端といくつかの企てを語りだす。
すべてを聞いたあとで青年が半眼になった。
『やっぱりろくでもないことしてるんじゃないか』
『だって! だって……あなただってわかるでしょ? ときには相手の愛を試してみたい、そう思うことの一つや二つ――』
『あるけど絶対やったら駄目なやつだろ。馬鹿だね』
バッサリ斬ると露骨にむすっとした気配が伝わってくる。
企てのひとつに絡めて麗花がしたこと――それは相手の愛情を試すことだった。そしてそれが原因でアキラは麗花のもとを去ったという。
気持ちはわからなくもないが、自業自得以外の言葉が見つからない。
『事情はわかったよ。それでどうするつもり?』
麗花が今後に向けての計画を明かす。
それはあまりにも荒唐無稽な話だった。子供向けの冒険小説のようでもある。
呆れてものも言えない。
『寝言は寝てから言ってくれる?』
しばらくの沈黙を経て、泰明はため息交じりに告げた。
『君にしてはずいぶんお粗末だね。そんな都合よくうまくいくとは思えないけど?』
『あらダーリン、人はみんなドラマチックな展開を心密かに望んでいるものなの。大掛かりな装置に劇的な演出を用意してあげれば誰もがすすんで役者になってくれるわ。それに手品と一緒で、こんなことはありえないって思うからこそ簡単に騙されるの。常識が邪魔をしちゃうのね』
麗花はほほえみながら芝居がかった調子でささやく。
「All the world's a stage, And all the men and women merely players」
この世は舞台、人はみな役者である――それはシェイクスピアの作品に出てくる有名なセリフだった。
ドイツ語から英語になったためか、ミラー越しに岡部の視線を感じ取る。
隣で笑みが大きくなった。
暗闇に紛れてきっと不気味に笑っているのだろう。
『というわけで、あなたの力が必要なのよ。手を貸してくれる?』
『すごいね、君は犯罪に加担しろと言うわけだ。その見返りは?』
『私とあの人が死ぬこと以外なら、あなたのお願いをなんでも聞いてあげる。ただし一つだけね』
『へぇ。僕が誰かを殺せと言ったら殺せると?』
『殺害方法と遺体確認後の処理を任せてくれるなら、いいわよ』
なんのためらいもなく返された言葉はきっと、この場をしのぐ嘘ではないのだろう。
緑川病院――いや、緑川脳病院にはいくつかの噂がある。
大学ではなくアルバイト先で幾度か耳にしたそれは黒い噂だ。その筋では有名な話であるらしい。
泰明はわずかに逡巡したが、覚悟を決めた。
『アンプタ。やるとき手伝え』
『……………………本気?』
アンプタ――意味するものは四肢の切断。
誰を、とは聞かなくてもわかるのだろう。貉だから話が早くて助かる。
『しないかもしれないし、するかもしれない』
『ふぅん。でもどこでやるの? うち? それともまさかあなたのところ?』
『そこは気にしなくていい。あてがある』
『あぁ、例のアルバイト先ね』
青年が小さく舌打ちした。
彼のらしくない行為に麗花がほくそ笑む。
『それじゃあ私のお願い、聞いてくれる?』
なんてわがままな奴だろう。童話に出てくる質の悪い女王のようだ。
そう思いつつ、泰明は相手に合わせて芝居めいた返事をした。
「Yes, Your Majesty」