99.青年と美女(前)
約束の時間、待ち合わせ場所にやってきた泰明は軽く深呼吸した。
停まっている自動車の数メートル手前まで近づくと運転席から大柄な影が降り立つ。さらに近づくと影が無言で後部ドアを開けた。
帰りたい――話をする前からそう思いつつ青年は車に乗り込んだ。
「こんばんはダーリン」
「よくも彼女を巻き込んだな」
隣からの挨拶を無視して泰明は怨嗟のこもった声を出す。
すでにお互い性格――もとい本性を知っているからこそ、青年の態度は遠慮がなかった。
麗花も悪びれることなく、くすくす笑う。
「だって、あなたにお願いしたってまともに取りあってくれないでしょ? だからこうするしかなかったのよ」
女が運転席の背もたれをひとつ叩く。それを合図に車が動きだした。
外灯のない道は暗い。おまけに空には雨雲が広がっているせいでどこまでも濃い闇が広がっていた。
この先を暗示しているかのような景色に青年はため息をつきたくなる。
「それにあなたの生まれ育った土地を見てみたかったし。世話役様……あなたの愛してやまないお嬢さんがどんな人かも興味あったし。来るのはこれが最初で最後のつもりだから許してちょうだいダーリン」
車中が真っ暗なのをいいことに泰明は顔をしかめる。
世話役という言葉を出すからには村に関する調査もそれなりにしたということだ。
きっと加加姫が定期的に不在になる情報をも入手し、それに合わせて両親や祖父母、兄といった屋敷の関係者も村不在となるように仕組んだのだろう。
でなければ彼女がいくら望んだところで世話役と会うことなどできない。
世話役は山神の代理人であり山神と同等の価値ある存在とされる。
あかりは知らなかったようだが、そういう事情もあって外部との交流はあまりよしとされていない。世話役宛ての手紙や荷物さえも本家にいったん留め置きされるほどの念の入れようなのだから。
「それにしても驚いたわ。本当に不思議なことが起こる場所なのね」
青年の思いとは裏腹に麗花はどこかはしゃいだ声を出した。
「今日ね、あかりさんのお宅にお邪魔しようとしたんだけど、何度入ろうとしても入れないってことがあったの。それにカラスの大群にも囲まれちゃって……まるで魔法の世界にいるみたいでドキドキしちゃった。あれが噂のお山様の力?」
「君は仮にも科学者だろ。魔法だかお山様だか知らないけど、そんなものが本当にこの世に存在すると思ってるのか?」
屋敷に入れないのは姫神の結界、カラスは自分の『眼』――屋敷へ続く山道に配置していた式だった。もちろんそんなことは言えないのでしらばっくれるしかない。
麗花は意外にもそれ以上の追及はしてこなかった。そのかわりなぜか微笑むような気配が伝わってくる。
泰明はふと思った。
自分にはヒト以外の血が流れている。
それならこいつだってヒト以外の血が流れているかもしれない。
「なぁ。君の先祖に悪魔と番った奴がいるだろ」
「藪から棒に失礼ね。敬虔な神の信徒になんてことを言うのかしら」
ムッと顔をしかめるのが目に見えるようだった。
女は胸の前で十字を切ったのか、車内の空気がわずかに揺れる。
「でもまぁ元気そうでなによりだわ。やっぱり話をするなら相手の顔を見てするのが一番よね……特に込み入った話なんかは」
この真っ暗な状況で顔を見てもなにもないだろうが――それでも泰明には彼女がチェシャ猫のように笑っているのがわかった。
「あかりさんて、とっても素直で優しい素敵な人ね。私も彼女となら仲良くやっていけそうだわ」
「やっていかなくていい。この先一生ずっと関わらないでいてくれ」
「それはあの人の活躍次第。私と結婚するのが嫌だったら、あなたもあかりさんをサポートしてあげてね」
くすくす笑う麗花に対し、青年は眉を寄せる。
「話がよくわからない。そもそもこの見合い話は君たちが自由になるための方便じゃないのか? 田上さんが承知したからこそ君が動いたのかと思っていたけど」
「……振られちゃったの。私のことはもう嫌いなんですって」
女はそれまでの華やいだ気配を消し、悲哀のにじむ声でつぶやいた。
泰明はわずかに首をかしげる。それは夕食時にあかりから聞いていたことだったが、正直麗花本人から聞いてもにわかには信じがたいことだった。
泰明も田上アキラには何度か会ったことがある。
二人の間にあるそれは激しく燃えさかる恋情というより、しなやかに絡みあう強固な愛情だと思っていた。
その深い絆は生半可なものではなく、この先も二人は一緒にあり続けるのだろうと思っていたが。
「振られたって、本当に?」
「残念ながらね」
「そうか……お悔みを言うよ」
青年は窓の外を見る。しかし見たところで目に入るものもなく、真っ黒い液体をたたえた水槽でも眺めている気分だった。
窓の向こう、雑木林の流れていく気配がなければ本当に車が進んでいるのかすらも怪しく思えてきただろう。
(まだなにかあるな)
麗花はいかにも落ち込んでいるように見えるが、泰明はそう直感した。
「どうせ君がろくでもないことをしたんだろう」
「まっ、ひどいわダーリン。傷心の乙女になんてこと言うのよ」
「君は乙女じゃなくて妖婦だろ。乙女に謝れ」
泰明は窓にもたれながら麗花をにらむ。
「傷心だかなんだか知らないけどあかりを頼るのはやめろ、本当に迷惑だ。というか初対面の人間に明日出かけてこいだなんてよく言えるな。君は本当に恥知らずで遠慮知らずで面の皮が厚くて――」
「いやんダーリン、そんなに褒められると照れちゃうわ。お礼に一億麗花ポイントさしあげてよ」
憂いを一瞬で消し去りのらりくらりとのたまう麗花に苛立ちがつのる。
暖簾に腕押し、糠に釘。なにを言っても響かない相手に口をきくだけ無駄だった。
そう思ったのがわかったのか、隣の気配が急に小さくなる。
「こんなことに巻き込んであかりさんには悪かったと思ってるわ。でも彼女がいろいろ適任だったの。このお礼は必ずするから、どうか許してちょうだい」
「駄目。僕が君に同情すると思う?」
ささやくような涙声でいかにもすまなそうに語られる言葉は、青年にはまるで届かなかった。
彼女は涙を自由に出したり引っ込めたりできる。おまけに演技が得意だ。
女も最初から期待していなかったのだろう。すぐに忍び笑いがもれる。
「もちろんダーリンにも謝罪するわ。でも私、あたなのことはとっても気に入っているの。どうせまやかしの結婚をしなきゃいけないなら、あなたがいいと思ってた。それは本当よ?」
麗花が肩にしなだれかかってくる。
甘い吐息がふわりと頬にかかった。
「尋常小学校から大学まで成績は常にトップ。身体能力にも秀でて文武両道。おまけに輝くような美貌の持ち主……あなたなら私のいいアクセサリーになるし病院の広告塔にも最適だわ。もし本当に結婚したら、その才能を余すことなく活かしてうちを盛り立ててちょうだいね」
「僕は地味で平凡な男だよ。家だって田舎の小金持ちでしかない。かつてのお貴族様とも縁がある緑川家にはふさわしくないよ。緑川病院だって僕より他の優秀な人に来てもらいたいはずだ。君に恥をかかせるのは忍びないから他を当たってくれ」
泰明は身震いするように肩をゆすって麗花の頭を振り落とす。
緑川家は古くは武士の家系だ。元華族というわけではないが、そうした上流階級とも繋がりがある。
それに緑川病院と緑川脳病院――精神病院は関東大震災や空襲を奇跡的にかいくぐり、数えきれないほどの病人や負傷者を救ってきた歴史ある病院だ。
その病床数は両方あわせて五百近く、海外の最新の研究も積極的に取り入れるなど進歩的でもある。
名実ともに名門なのだ。
だが青年の言葉に女はくすくす笑う。
「あらあら謙遜しちゃって。あなたのおうちだって名家で、おまけに資産家じゃないの」
麗花が腕にするりと抱きついてくる。
とっさにぶんぶん腕を振るが、女はへらへら笑っているようだった。
「倉橋家は代々名主を務め名字帯刀を許された豪農。明治以降は穀物や金融、海運などでも財を成し、あなたのお父様がその規模をさらに拡大中。次期当主とその後ろにいるお姉様も非常に商才豊かなようだし、ゆくゆくはこの国有数の企業になるのでしょうね。まさに金のなる木だわ」
こいつはまるで蛇だな、と泰明は遠い目で思う。
絡んだ腕はまるでほどけそうになかった。
「それにあなた、まだ医学生でもない頃から外で腕を磨いてきたでしょ。努力家なところは買うけど……いけない人ね。おまわりさんに言っちゃおうかしら」
青年はなにも言わない。無言で腕を振り続ける。
そのことを知っている者は家族友人含めて誰もいないはずだが、もう驚くことはなかった。
「そしたらあなたは逮捕されちゃうのかしら。そうなったらあかりさんに軽蔑されちゃうかもしれないわね。きっと嫌われ――」
青年の動きが止まるのと車が止まるのは同時だった。
泰明の手が麗花の細い首を掴み、岡部が腕を伸ばしてその手首を掴んでいた。
「今のは冗談よダーリン。岡部、車を出して」
「しかし」
「大丈夫。だってほらこの通り、圧迫はされていないから。さぁダーリン、手を離してちょうだい。このまま私を殺したら本当にあかりさんに嫌われちゃうわよ?」
岡部がしぶしぶ手を離す。泰明も手を開き、何事もなかったように座席に座り直す。
車内に充満していた殺気が解けて、麗花は小さく深呼吸した。