1.闘気
高校を退学し、フリーター生活も三年目にさしかかる頃、俺は人生に積極的な意味を見出せなくなっていた。
両親は俺に何も期待していないようで、コツコツと長年続けた積み立て投資と、若いころから払い続けてきた年金のおかげで老後は安泰らしかった。俺が自分の生活費を自分で稼いでいる限り、何も言われることはなかった。
コンビニエンスストアの店員制服をロッカーにしまい、自転車にまたがり颯爽と漕ぎ出す。
夜風が心地よかった。
春の匂いがした。草と花の匂いだ。
夜の音がした。虫と梟の鳴く音だ。
空に大きく輝く、まん丸の月を見上げる。
「あーあ! 生きるのって、つまんねーーー!!!」
『生きる目的』が俺には無いから、人生がつまらないのかもしれない。
俺には趣味がなかった。同級生がアイドルだとかゲームだとかアニメだとかに本気でハマっている間、俺は何にも熱中できなかった。
なんとなく本を読んだり、なんとなく動画を見たりしていただけだ。ドラマやアニメも、なんとなく見て、五、六話あたりで飽きて見るのをやめる。ゲームもちょっとやってみて、一週間くらいで飽きてやめる。そんなものだった。
誰かを好きになったこともない。誰かに好きになってもらえる気もしなかった。
やりたいことが、ない。
段々と、自転車を漕ぐのが遅くなっていく。何もない俺の過去が、泥になって脚を絡め取っていくような感覚だった。
閉塞感ってやつなのか? 何か、やりたいこと。やりたいこと……。
気が付けば俺は、俯きながら自転車を押して歩いていた。
現状を打破する方法を考えながら、手押し自転車特有のカチカチとホイールの鳴る音を聞きながら、横断歩道に差し掛かった。
あ、そうだ。運転免許。
車の運転ができるようになれば、何か変わるかもしれな
ガンッ! と大きな音が響く。ほんの少し遅れて、衝撃と共に体がぶっとんだ。
薄れていく視界の端で、歩行者信号の色を見る。
『赤』かよ…………
頭の中から血の抜ける感覚がする。呼吸が消えていく。
どうやら俺は、自分の間抜けで死ぬらしい。
◆
「という記憶が俺にはある!」
闘技場の横にある空き地で、でかい木箱の上に立った俺は、いつものように語りを終えた。
少年シービーは訝しがるような目つきだ。
「テンキっていつもその話だよな。妄想たくましい」
「だーかーらー! 本当にあるんだって! この記憶が」
「ふーん……」
俺の名前はテンキ。八歳。なんか知らんが、気が付いたらこの世界に生まれていた。物心ついた時から『前世の記憶』があるのだが、今のところ何か特別なイベントに巻き込まれたことはない。
いわゆる異世界転生というやつなはずだが、この世界にやってきて日が経ちすぎて記憶も曖昧だ。最近は本当に日本とかいう国で生活していたのかすら怪しんでいるところがある。
生まれた時から、俺はこの街、港湾都市グリップスに縛られている。このままだとこの街から一歩も出ることなく死ぬの確定だ。しかも成人を迎えることもないだろう。
というのも、残念ながらこの世界における今の俺のポジションがいわゆる『奴隷』だからだ。
しかもただの奴隷じゃなく、剣奴。この街にある闘技場で、死ぬまで命を賭けて戦う剣闘士の男に拾われた孤児、というのが今の俺の現状である。
あまり詳しくないけど、普通はこういうのって地方貴族の三男とかそんな感じのポジションで転生するんじゃないのか? いきなりハードモードすぎるだろ。
俺と唯一同年代の剣奴である少年シービーもまた、俺と似たような境遇の男だった。
集合宿舎にて、皆で晩飯を食っている間のこと。
ガヤガヤと騒がしい中で突然、シービーが変なことを聞いてきた。
「なあ、テンキ。お前、死後の世界ってあると思う?」
「はぁ? ……あるんじゃねえの? 魔導士のやつらってなんかそういう難しい話よくしてんじゃん」
少年シービーは、亜麻色の髪に、碧眼の美少年だ。剣奴特有のみすぼらしい服装とボサボサの髪さえどうにかすれば、召使いか何かとして近くに侍らせたがる偉いやつらは多いだろう。
死後の世界か。そんなの、考えたって仕方がない気がするけど。
くっそ不味くて硬いパンを口にほおばりながら答える。
「ま、前世がニホンジンの俺からすれば、この世界こそが死後の世界と言っても過言ではないんだが……」
「ほら、ゼットが死んだだろ? 僕の父親みたいな存在だったからさぁ……」
「あ、そういうことか!」
ゼットは街中に捨てられていたシービーを拾った剣奴だ。怖い顔をしているが根は優しい奴で、よく俺らに神話を語って聞かせてくれた。
でも、まあ……。
「あいつ、弱かったしな。しかも相手が大蛇なら、そういうこともあるだろ」
「テンキさあ! お前って本当にさあ!」
泣きそうな顔をするシービー。
というか泣いた。俺が泣かせたらしい。
「おいテンキ! おめぇ、またシービー泣かせたのか!? 何度言ったら分かるんだ!」
怒りに顔を歪ませた大男がやってくる。
無精ひげを生やしたこいつの名前はクラウだ。年齢は四十代っぽい。俺を拾ってくれた剣奴……つまり、俺の父親のような存在でもある。この部屋にいる他の剣奴と同じように、ボロ同然の衣服を着ている。
俺の胸倉を掴みながら、凄まじい剣幕で唾を飛ばしてくる。
「俺たち剣奴は仲間だ! 仲間を泣かすのは正しい行いか? 答えてみろ、テンキ!」
「うーん……間違ってる?」
「なんで三秒も悩まねえとわかんねえんだ!」
そのまま床に叩きつけられた。受け身を取りつつ、しかし鋭い衝撃は感じる。
「っつー……。ごめんな、シービー。俺、配慮ってもんが足らないからさ……」
「うっ。ひっく……ゼットは、俺たちにあんなに優しくしてくれたのに、おま、おまえっ。人のこころって、やつが……うああああああああああん!」
「あー……」
この感情、難しいんだよなあ。
ゼットは確かに良いやつだったし、死んで悲しくないかと言われればそりゃ悲しいが、でも、それだけだった。
俺たち剣奴は毎日が命懸けだ。人気のある強いやつは商品価値が高いのでいくばくか優遇もしてもらえるが、弱い奴は本当にゴミみたいな扱いをされる。というかそもそも毎日の飯がゴミだ。ゴミを食って血肉に変えているのだから、やっぱり俺たちはゴミなんだろう。
ゴミが死ぬのは当たり前。だから、ゼットが死んだのは悲しいけど、それだけだった。
そもそも同僚の剣奴が死ぬのなんてもう何回目か数えるのもやめたぐらいだ。知り合いの死に対して鈍感になっていた。
いつのまにか鋭い目つきになっていたらしい。クラウは俺の眉間に人差し指をちょん、と突き立てた。
「なあ、テンキ。おめぇを拾ったのはもう五年以上前になる。雨の中、死にかけていたガキをよぉ、俺は見捨てられなかった。ゼットだってそうだ。だからアイツはシービーを拾ってきた。興行の主催陣はよぉ……それはもう、酷ぇよ、あいつらは。俺たちのことをゴミか何かだと思ってやがる。おめぇらガキの飯を用意するようなことは当然なかった。だから俺らは、自分の飯をおめぇらに分けて育ててやったんだ。そのことに感謝の気持ちってもんは、ないのか? 本当に少しでいいんだ。本当に、全く、微塵も感じないのか?」
「そんなことはないよ。感謝してる」
「ゼットが死んで、おめぇは悲しかったのか?」
「うん」
「そうか。なら、いい」
クラウはそれから席に戻り、自分の飯を食べ終えると、皆の食器を洗いだした。
俺たち剣奴に流水の使用許可はない。バケツいっぱいに溜めた水を使って皿を綺麗にしていくのだ。
「……なあ、シービー」
「ひっく。うぅ……なに?」
「俺のパン、あと少し残ってるからさ、それやるから……元気出せよ」
「……いらね」
食べかけはいらなかったらしい。
◆
夜中になった。
俺が寝床にしている部屋は二段ベッドが部屋の両端についている。つまり四人が寝る場所ということになる。
初めのうちこそ、奴隷の割にベッドが用意されてるんだなぁ、とか思っていたが、それはより質の高い戦闘を観客に提供するためだ。睡眠の質は戦いの質に直結する。ふらふらしてヨボヨボのおっさんが戦っているのを見ても面白くはないんだろう。
同室のやつらは皆おっさんだ。でも、おっさんだからと侮ることはできない。四十代超えて剣奴として生き残っているというのは、それだけの実力者という証なのだ。
「ま、五十超えたらどこかのタイミングで死ぬけど」
俺たち剣奴の死に方は主に三種類。
一、戦って死ぬ。
二、病気で死ぬ。
三、逃げようとして殺される。
最も馬鹿な死に方だとされるのは三だ。逃げようとして「バレて」殺されるってことだからな。
最も勇敢な死に方だとされるのは一だ。剣奴は戦うことこそが己の宿命だからな。
俺はこっそりと宿舎を抜け出し、宿舎と直結している演習場へとやって来ていた。敷地の外に出さえしなければ殺されることはない。
「さて、どうしたもんかね……」
木剣を手に取り、雲居から差し込む月光の下、構えをとる。
振る。
振る。
振る。
最近は良いスイングというものを理解してきた。
クラウをはじめとする強い剣奴の動きを目でよく見て、耳でよく聞いて、舐めるように観察した成果が出てきていた。
ただ、剣を振る。
上から、下へ。
それだけの単純な動き。
でも、これを上手くできるかどうかが、俺たちの生死を分ける。
前世の古代ローマ帝国では、剣奴と言えば人vs人がメインの見世物だったような気がするが、この闘技場では基本的に戦う相手は『獣』だ。
港湾都市グリップスには遠い地域から様々な人種があつまり、それは当然、様々な人種の奴隷が集まって来るということにつながる。
違う人種同士での争いは、例え剣奴のものであろうと問題がある。そういうことなんだろうと理解している。
闘技場が提供するのは『興行』であって、観客の怨嗟をかき立てることがあってはならないのだ。
頭の中でイメージするのは、血に飢えた猛獣だ。虎っぽい哺乳類とか、なんかやたらデカい鳥とか。そんな奴らと戦わされることが多い。
俺みたいな子供は対戦相手もまた子供の獣ということになるが、その内アホみたいに強い獣と戦わされることになるのは目に見えている。
今のうちに実力をつける必要がある。生き残るために。
自分に迫る猛獣の脳天を叩き割るように、振る。振る。振る!
いつしか雑念は消え、ただひたすら稽古に集中していた。
そう、奇妙な話だ。とても、とても奇妙な話。
どう考えてもおかしいことなのだが、
俺は、充実していた。
この生活に充足感を覚えていた。
素振りを千回終える。
「俺は、何に充実してるんだ?」
汗を頬から垂らしつつ、肩で息をしながら、自分に問いかける。
前世の頃よりも、生きている実感があった。おそらくそれは、自分の手で生を勝ち取っているという感覚があるからだった。
剣奴になってからの、たった一つのシンプルなルール。生きるための、唯一の条件。
「強くあれ……」
俺は毎日強くなっている。昨日よりも、今日の方が強い。そして、明日はもっと強い。
一歩一歩進んでいる感覚があった。そこに閉塞感はなかった。
強くなりたい。
いつまでもこんな場所にいるつもりはない。必ず、剣奴を抜け出してやる。自分の手で『自由』を、『生』を掴み取ってやる!
そのためにも……
俺はもう一度木剣を構え直すと、再び稽古に戻った。
◆
クラウはこの闘技場で最強の剣奴だ。
その強さの秘訣を知りたかった。
「レディ、ファイッ!」
司会の男が叫ぶと魔法が発動し、猛獣を繋ぎとめていた鎖が破壊される。
今日のクラウの対戦相手はなんかライオンっぽい生き物だった。正式名はしらん。
俺たちは控室からクラウの対戦を観戦する。
下卑た声援や野次を飛ばす観客たちとは違い、多くの剣奴はただひたすらにクラウができるだけ傷を負うことなく勝つことを願って、じっと見ていた。
シービーも、固唾を飲んで見守っている。
俺は目をギンギンにかっぴらいて、クラウの一挙手一投足を見逃さないように注視する。
クラウの武装は鉄棒だった。剣よりも軽く、リーチが長い。取り回しの良さと、その割に高い破壊力から、比較的パワー効率の良い武器だと俺は考えている。
ライオンが突進してくる。クラウはギリギリまでひきつけて、その頭を踏みつけるように跳躍。そして空中でトンボを切り、天地が逆転したままの姿勢でライオンの顔面に向けて一撃をお見舞いした。
ライオンがのけぞる。着地した瞬間、振り向きざまにもう一撃。今度は顎だ。
さらに鉄棒を地面に突き立て、回転の勢いを殺さないままに今度はカカトで蹴り上げた。これも顎に入った。
ライオンは死んだ。
「三発……三発? おかしくないか?」
「どうしたのテンキ」
「ん? あ、いや、独り言」
「?」
首をかしげるシービーを無視しつつ、ふと湧いた疑問を考察する。
いくらクラウが強いとはいえ、人間の膂力であの猛獣を三発で沈めるのは無理がある気がする。
この世界には魔法があるのを考えると、身体強化魔法的なものが存在していてもおかしくない、か。
でも、クラウが魔法を使えるとか聞いたことがないぞ……?
と、いうわけで今日の閉場後にクラウに質問してみた。
「ああ? 身体強化魔法だぁ? そんな高尚なもんじゃねえよ」
床で腹筋をしながら、額に汗を浮かべたクラウが答える。
「オーラっつうのかな。闘気? とも言うが。ほら、人間には『気』ってもんがあるだろ?」
いや、ねーよ。
「だから、その『気』をコントロールして、『闘気』に変えるわけだ。闘気は俺たちの身体能力を強化、補助してくれる。達人は大岩を砕くことだって可能らしいぜ。俺だって、上手いことやればあんな雑魚、数発で仕留められるってわけ」
「へー。闘気、ねえ。っていうかあのライオン、クラウにとっては雑魚だったんだ」
「ライオン? あの獣ってそんな名前なのか」
「いや、しらね」
良いことを教えてもらったな。
早速、その日の夜から俺は『気』を感じるトレーニングを始めた。
いつもの通り、誰もいない演習場で木剣を構える。
しかし、今日は振るつもりはない。
闘気というのは、これはきっとアレだ。
少年漫画でよくある、強くなるには必須の特殊能力的なやつだろう。多分。
魔法の使い方がさっぱり分からない上に剣奴の中にも使えるやつが一人もいないという現状を鑑みると、より強くなるためには魔法の習得よりも闘気の習得の方が現実的に思えた。
ただひたすらに剣を構え、じっくりと時の流れを感じる。
ヨガみたいな感じでトレーニングを積めば、自然と自分の中を流れているらしい『気』なるものを感じ取ることはできるようになるだろう。
そして、一時間。二時間。三時間。
「……わっかんねーな」
え、本当に『気』なんてもの存在するの?
あやしいよな。実在がな。
「ま、続きは明日でもいーか」
そんな感じで、俺は剣奴の少年として毎日毎日、来る日も来る日も特訓と実戦を重ね、そして二年が経過した。
◆
十歳ぐらいになったが、俺は今でも闘気が使えない。その足掛かりすら掴めないでいる。
クラウ曰く、熟達した剣奴の中でも闘気を扱える者はごくわずからしい。
その『ごくわずか』全員から話を聞くが、皆が皆、口をそろえて言うのはこういうことだ。
『なんかいつの間にか使えるようになってた』
感覚的だなぁ……。
こうなったらひたすら分析するしかない、ということで、闘気使いの剣奴の試合は必ず観戦し、目をかっぴらいて充血させて瞳をギョロギョロさせながら、つぶさな所まで観察しつくした。
空き地のど真ん中で考え事をする。
「闘気使いの共通点は、皆とりあえず強いってことぐらいか……? あとは動きが速いよな、やっぱり。先の先タイプでも、後の先タイプでも、とにかく瞬発力が半端じゃない」
木の枝で地面に日本語でメモをしつつ、頭の中を整理する。
『気』を『闘気』に至らせるヒントは、瞬発力? いや、もっと本質的なところな気がする。時の流れを、より精密に感じ取るという……
「うわ! テンキ、何コレ!?」
「んあ?」
買出しから戻ってきたシービーが驚くような表情で指さしている。
「何これって……メモだけど」
「えー!? テンキって、文字が書けるの!?」
「あ~……いや、無理」
「は?」
いや、書いてるじゃん現に……みたいな目つきになったシービーだが、俺が説明するのを放棄したらしいことを察すると話題を変えた。
「で、何やってんの?」
「『闘気』がどうやったら使えるようになるのか考えてた」
「またそれー? 『闘気』なんて眉唾だよ~。存在しないよ~」
「うーん、まあ、そう……なのかなあ」
シービーは『闘気』の実在を信じていないらしく、熟達した戦闘者が行きつく無意識的な体の動かし方の合理化……これを闘気の正体だと考えているらしかった。
ぶっちゃけ俺もそんな感じが最近はしてきているので、そこを突かれるとなんとも痛い。
「はぁ……参っちゃうよなぁ、ほんと」
「どうした急に」
地面に座り込むと、シービーに向かって弱音を吐きたい気持ちになってきた。
「ほら、俺たちって馬鹿だろ?」
「……まあ、学がないのは確かだと思う」
「この世界がどういう仕組みで動いてるのか、俺たちはまるで知らない。だって奴隷だからな。致命的なのは、字が読めないってことだ。そのせいで本が読めない。これはヤバイことだぞ、シービー。なぜか分かるか?」
「えっと……知識を人づてでしか知ることができないから、本を読める人と比べると、得られる知識に制限があるよねっていう話?」
「お、おお。その通りだ。お前、賢いな」
「えっへん!」
俺は前世がバリバリの日本人だからこのぐらいの思考水準は当たり前に持っているが、シービーは正真正銘、この世界に赤子のうちから捨てられて、剣奴のやつらとだけ関わって生きている少年だ。それでこれだけの理解力は目を見張るものがある。
「まあ、つまりだな。『闘気』が実在するのかどうかっていう、こんな簡単な問いにさえ、俺たちは答えを出すことができないってことだ。ぜっっっっったいにそこらへんの武術書を読めばその答えは載っている。多分、街にいる知識人ならば常識として知っていることだろう。でも、俺たちはその答えにたどり着くことすら至難なのさ。しかも人脈も自由もないから、武道の達人から直接その答えを聞きだすこともできない。アホくさいだろ? 俺らは『闘気? あるよ、あるある』みたいないい加減なことばっかいう剣奴からヒントを聞き出して自分の頭で考えることしかできないんだよ」
「酷い言い草」
はあー。大きくため息を吐くと立ち上がり、ザッと地面のメモを足で消した。
「じゃ、そろそろだから行ってくるわ」
「あ、今日ってテンキの試合か」
ま、テンキなら大丈夫でしょ。頑張ってね~……と、シービーは雑な応援を俺に残し、宿舎に入っていく。
まあ、実際大丈夫だろう。ここ最近、俺は歳の割に強くなり過ぎた。
毎日の練習が実を結んでいるという事実は大変喜ばしいことだったが、成長が停滞しているのも感じつつある。
自分が、強くなったという実感が持てないでいた。
次のステージに上がるためには、やはり『闘気』の習得は必須事項だろう。
そのことで頭が一杯だった。
控室に入ると、クラウが俺を待っていた。
「来たか。テンキ」
「ん? どうしたの、クラウ」
いつにもまして真剣な表情だ。
無精ひげを少しいじると、クラウは重たさを感じさせる声で告げる。
「おめぇは、多分」
「たぶん?」
「多分、今日で死ぬ。だから、最後の見届けにきた」
「……へ?」
ふと気づいた。控室をぐるりと見渡す。
皆が沈痛な面持ちだった。
「……おい、どういうことだよ。俺が死ぬって、え?」
「……」
「おい、みんな! 何とか言えよ!」
「テンキ」
クラウの顔を見る。その目には何か強い決意のようなものを感じた。
「おめぇは、強くなりすぎた。……最近の試合成績を鑑みて、今日のおめぇの対戦相手は、『大蛇』になるということだ。ゼットを殺したのと同じ種族だ。分かるな?」
「大蛇……」
熟練の剣奴なら勝てるかもしれない、という相手だ。
ゼットを殺した相手。
ゼットは正直、そんなに強くなかった。でも、それなりに生き延びてきた剣奴なのは間違いない。
もしかして、今の俺よりは、ゼットの方が強かったんじゃないか……?
「はぁ……! はぁ……! はぁ……!」
「落ち着け。今からテンキに重要なアドバイスを授ける。よく聞け」
「ちょ、ちょっと、ちょっと待って。呼吸整えるから」
心臓の鼓動が耳まで届いた。ジクジクと血管の脈動する感覚が指先を覆う。
死ぬ? 俺が、今日。大蛇に食い殺されるのか?
ふと、この二年間ひたすらに続けてきた『気』を感じる修行を思い出した。
座禅やヨガを参考にした修行だった。
ただひたすらに、心を落ち着かせ、自らの体内を巡る『気』を感じるという修行。
結局、『気』を感じることはできなかったが……意外に、心の平静はすぐに戻った。『気』を感じ取るための修行を通して、心を落ち着かせることが得意になっていたらしい。二年間の修行の成果だった。
「よし、頼むよクラウ。アドバイス、くれ」
「おう」
クラウの顔をじっと見つめる。
筋肉質で、少し角ばった顎の輪郭。
こいつは、俺の父親みたいな存在だった。
感謝していないと言えば、嘘になる。
「自分を信じろ」
真っすぐな瞳で俺を見つめている。
「おめぇの実力を完全に発揮すれば、勝てない相手ではない」
「……わかった」
「ただ、勝てばいい。それだけだ。それ以上考えるな」
「……わかった!」
勝つ。
勝つ……。
勝つ!
そして時間になり、俺は控室から日の当たる闘技場へと、鉄の剣を携えてやってきた。
円形の闘技場、その中心部にぐるりと鎌首をもたげて居座るのは巨大な蛇だ。
前の世界じゃ見たこともないほどの大きさ。全長十五メートルほどか。
闘技場のルールは至極単純。時間になったら戦闘を開始し、獣を殺せば剣奴の勝ち。獣に殺されれば剣奴の負け。生きるか死ぬか、二択しかない。
もしこの会場から逃げ出せば、その時点で剣奴は処刑。
剣奴が勝つと賭けた客も、獣が勝つと賭けた客も、両方等しく損をすることとなる。
だから、逃げるということだけは絶対に許されない。逃げるくらいなら死ね。そういうルールだった。
俺が勝つ方に賭けた客が後悔する声を上げた。この馬鹿の目には勝敗が明らからしい。
獣が勝つ方に賭けた客が歓声を上げた。この馬鹿の目には勝敗が明らからしい。
馬鹿ばかり。剣奴の方が……クラウの方が、よほど賢い。
なぜなら、勝つのは俺だからだ。
「レディ、ファイ!」
蛇を繋ぎとめる鎖が破壊される。
◆
ただ、勝つことだけを考えればいい。
俺は完全に集中していた。
蛇行しながら大蛇が迫る。こいつは毒こそ持たないが、鋭く太い牙に噛まれると余裕で体に穴が開く。もし腕を噛まれれば二度と物を持つことはできなくなり、もし脚を噛まれれば二度と歩くことはできなくなる。
大口が目の前に迫っていた。
「伏せろ!」
クラウの声が聞こえる前には、既に体を地面すれすれまで潜らせ、その一撃を回避しつつ、大蛇の腹に剣を突き刺す。
残心とともに前へ。大蛇の二撃目も回避し、距離を取る。
俺は相手に一撃を入れた。相手は俺に一撃を入れられなかった。
あとはこれの繰り返し。これで勝てる。
再び大口が迫る。腰を落として回避、
「ダメだ! 跳べテンキ!」
下にスペースがなかった。
「やべっ」
とっさに右足をひねって跳躍。ぎりぎり回避。
しかし無理な動き方だった。足を痛めた。
「くそっ!」
空中で蛇に強烈な斬り込みをいれ、着地したらすぐに距離を取る。
いや距離を取れない。目の前に口が迫っていた。
対戦ゲームでいうところの『着地狩り』というやつだ。
右足はだめだ。左で跳ぶ必要がある。
ほとんど反射神経に任せて左足を地面に叩きつけ、横に吹っ飛んだ。
体を回転させ、何とか受け身を取る。
大蛇の顔を見る。ちろちろと細長い舌を見せていた。
「へへっ。余裕そうだなお前」
追撃がくる。跳ぶべきか、潜るべきか。生死を分ける二択。
絶体絶命だった。でも、負けるとは微塵も思わなかった。
自分を信じていたから。
巨大な口が迫って来るのを、段々と遅くなる時間の流れとともに知覚した。
牙の奥に舌が見える。その先が二股に分かれているのすら視認できた。
これは新しい感覚だった。
高揚感と共に、心地よい緊張が自分を動かしているのを感じた。
蛇の鎌首が、少し下を向く。それなら、俺は上に跳べばいい。
とても簡単な話だ。
ギリギリまで引き付けてから、左足を起点に跳躍し、蛇の突進を回避する。それと同時に舌を斬り飛ばす。
悶絶する大蛇。蛇には発声器官がないから、痛みに呻く声をあげることはない。
そのまま、尻尾をぶん回して俺を吹き飛ばそうとする。でもそれも回避した。
とにかく、全ての動きがスローに見えた。
世界の解像度が、まるまる一段階レベルアップしたかのような感じだ。
体も、全て思い通りに動いている。動かしたいように、手足が動いている。
俺は、自分を巡る『気』を感じていた。
『気』が『闘気』になり、俺の体を突き動かすのが分かった。
今までとは比較にならない、全く新しい一撃。全ての歯車が噛み合ったような、剣の一振り。
蛇の頭に向けて狙いをつけた。
ただ、剣を振る。
上から、下へ。
それだけの単純な動きが、大蛇の頭蓋を粉々に打ち砕くのを感じた。
『闘気』の乗った一撃だった。