飽くなき夢を。飽くなき理想を。愛のこもった理想郷を。
「おそらのずっとずっととおくにね、『でぶりのうみ』というのがあってね、そらのいらないものがね、すててあるのよ」
柔らかい声、どくどく聞こえる大好きないのち。どこか夢見心地のようで、おそらく半ば夢みたいなもので、けれども半ば忘れられない記憶。このぼやぼやしたの、なんて表現したらよかったんだろう。
―スフマート。どこか遠い星の、優しく温かい笑みをたたえた女の人。
柔らかい声は付け足した。
「―でもね、おかあさんはね、―」
なんと、言ったかな。
ああフラクタル、無限に広がるデブリの海。
目を覚ましたときに聞こえてきたのは、とたたん、という車輪の揺れる音、蛇のようにうねる鎖の金切り臭い音。はっとして顔をあげると、頭の少し上のところにある鉄格子の窓から、淡い橙色の光が差し込んでいた。一体何日こうしていただろう。この車は奴隷車といって、その名の通り奴隷を詰め込んで市をまわる、冷たい車。ぼくのいたウーデンという地区は治安が悪く、毎日のように家の前をこの車が走っていた。それを見るたびぼくは母の服の裾を掴み、母はこう言うのだ。
「大丈夫よ、こわくないわ。おかあさんがいるもの」
魔法の言葉だった。ぼくはそれを聞いたら嬉しくなるし、大丈夫だと自分を落ち着かせられた。ずっとそうして、外側だけを見ていた。内側なんて知る由もないと思っていたし、実際そうであって欲しかった。母もきっとそうだった。父も、同じようにぼくに微笑んだ。ぼくのつかの間の平和だった。ぼくは二人がすきだった。
母のお腹がふくれてきた頃、父も母も二人して通帳とにらめっこをするようになった。家は日を追うごとに淋しくなった。すっからかんだった。父と母がなんの仕事をしていたかは知らないけれど、家は貧しいわけではなかった。召使いが数人いて、ぼくが一人でいるには広すぎる子供部屋もあった。そんな家の窓の酸が放ったらかしにされているのを見て、ああもうだめなんだと悟ったのを覚えている。部屋の隅にたまるホコリはまるでぼくみたいだった。それから、ぼくは母が料理をするのをひどく怖がった。どうしてかはわからないけれど、それだけは恐ろしくてたまらなかった。
おかあさん、そんなもの持たなくていいから、ぼくがやるから、だから大事にしてあげてよ。
そう言うと母は残念そうに首を傾げて、ぼくのそばにいて一緒にご飯を作ってくれた。そのときだけは、ぼくは安心して笑っていられた。母も、ぼくの頭を大事に大事になでてくれた。
なんだかちょっと懐かしくなって、寂しくなって、うつむけば、手足に繋がれた鎖がぼくの未来を予言しているように見えて、じゃりりと片手を上げた。橙色に照らされた灰色は、光を吸い込んでいた。
「なに、…してんですか」
後ろから聞こえた声に思わず大きな声を上げ、勢いよく後ろを振り向けば、大量の書類を抱えてぽかんとぼくを見るホッフヌングがいた。
ホッフヌング。ホッフヌング・ゲデヒトニス。長いクリーム色の髪を後ろで一つにくくった、糸目で僕より少し背の低い男。ぼくとは小さい頃からの友人で、毎日勉強を欠かさないすごいやつ。だけどちょっと抜けてるところ―注意散漫なところ? もあって、この間ホッフヌングの飲めないブラックコーヒーを、透明なシロップをたっぷり入れたんだと嘘をついて飲ませたら、苦い香りしかしなかったくせしてシロップがたっぷりだと思い込みそのまま思いっきりむせていた。ただバカ真面目なのか知らないが、吹き出すかと思ったコーヒーは一滴も地面に落ちず、彼の意地みたいなものと変なプライドとで喉の奥に押し込まれた。そしてしっかり飲み込んでから彼はこう言うのだ。
『あのねえ、なんでこんなもん出すんですか。意味分かんないでしょう、ほんとに死ぬかと思って…げほん』
その真面目な顔といったら。
至って真面目ですと言い放ちそうな顔をして、でもそのくせ眉間にはしわがいっぱい。ぼくはおかしくっておかしくって、思わずお腹を抱えて笑ったら、今度同じことをしてやりますからねと宣言された。この言葉に嘘つけと笑ってはいけない。一度そんなわけあるかいと笑い飛ばしたら、本当に洒落にならないような仕返しを食らったのだ。
要約すれば、意外とぼんやりしている加減を知らないやつ、ってこと。
「え、いや、ほんとに、どうしたんです」
自室の窓に片手をかざしたまま静止するぼくに、ホッフヌングは、お前はようやく頭でもおかしくなったのかと言わんばかりの声色でよくわからない微笑を浮かべた。愛想笑いが昔から苦手なのだと言っていた。
「ううん、ちょっとね」
「…そう、ですか」
無理くり納得した彼は、そうそう、とぼくに書類の束を手渡した。
「こっちのが王宮の立て直しの設計図で、こっちのが今月の予定表、その下にあるのが仕事の割り振りの表。ざっとでいいから目を通しておいて」
タイプライターの苦手な彼は、お気に入りだという万年筆で書類を作るのが好きだった。丁寧で見やすい字は、ぼくも好きだった。
「いつもありがとう。助かるよ」
ぼくに書類を渡したホッフヌングは、ふうと息をついて、ぼくの部屋にある窓から、王宮の大広間を見下ろした。
「賑やかになりますね」
「そうだね」
スキア帝国建国からちょうど一年の今日、だんだんと数の増えた部下たちの粋な計らいによって、パーティーが開催されることになっていた。カーペットを引き直し、近くの家具屋特性の大きな机と、美しい装飾の食器類、天井にはシャンデリアがぶら下がる。軍人も農民も商人も、みんなで大広間を飾り付けてゆく。
「…良い夕焼けだ。ぼくらも手伝いをしに行こう。日没に間に合わないぞ」
貰いたての書類を引き出しにしまって、ホッフヌングを手招きする。ちらりと見た窓からは、シャンデリアの上でこちらに手を振るカラメラが見えた。そばにいたルストは、そのおかげで体勢が崩れ転げそうになったカラメラを支えるのに必死で、こちらには気が付かない。窓を開け、怪我しないでね、と叫ぶと、二人は微笑んでドームを降りていく。
「さ、ホッフヌング。こういうときの切り盛りは、きみの得意技だったろう」
ホッフヌングは腕をまくりながら、ええ、と部屋の扉を開けた。
はじめまして、野々(のの)と申します。こちらのサイトで小説を公開するのは初めてなので至らない点多々あるかと思いますが、何卒よろしくお願いいたします。
一年ほど前から誰に見せるでもなく、ちまちまと一人で書いていたこの作品を、ふと誰かに見てもらいたいと思い投稿してみました。物語を最初から書かず楽しいところだけ抽出して書いてしまうタイプなのでこの続きはしばらく白紙なのですが、なんとか頑張って書いてみようと思いますので、もしよければ、楽しく読んでいただけると幸いです。