[おまけ終]そして王太子妃は出陣する
「おはようございます、殿下。──おっと」
翌朝。ノック、誰何、名乗り、入室許可、と実に優等生的手順を踏んで王太子の私室に踏み込んだ側近(元シモンズ伯爵家勤務護衛)は、窓から射し込む朝日に浮かび上がる平和な光景に両目を一つ瞬くと、ニヤリ、とあまり育ちの良くない感じの笑みに口元を崩した。
「なぁに?」
昔のよしみで少しばかり彼に当たりが強い王太子妃は、側近がうっかり醸し出てしまったよからぬ気配を決して見逃してはくれず、責めるような鋭い視線を投げてくる。夫である王太子と向かい合って、甲斐甲斐しく身拵えを手伝ってやりながら。
側近は取り繕うことなく、くつくつと笑いを噛み殺した。
「いやいや。王太子ご夫妻におかれましては本日も睦まじくいらっしゃって、臣下の心はうっきうきのわくわくです」
「……よくもまあ、あなたの立場でその表情と物言いができたものねぇ」
「その点に関してはお互いさまと申し上げておきましょう」
「いやだわ、ちっとも臣下としての敬意ってものが感じられない……『下世話な言動は控えなさい!』とでも叱りつけてやるのが王太子妃の務めかしらね?」
「下世話、ねぇ……?」
側近は意味深な視線でちらと王太子を見、再び王太子妃を見、次いで寄り添う夫妻の全体像へと焦点を合わせる。
予定外の寝所の変更がありながら、翌朝にはしっかり侍従と侍女の手によって夫婦揃って身ぎれいに整えられている手回しの良さはさすがの一言。しかし双方ともお疲れぎみで心持ちくすんだ印象だった一日前と比べると、明らかに肌つやが輝くように改善している件については、下世話な方向に考えなければ説明がつかないだろうに。
などとつらつら考えている側近に、すぅ……と目を細めた王太子の冷笑が注がれる。笑っていない目からブリザードが吹き荒れそうな強烈なやつだ。
「……優れた想像力は、使い所を誤ると身を滅ぼすぞ?」
「はっ、肝に銘じます」
緩んでいた顔を即座に正して背筋も伸ばし、一片の瑕疵もない忠臣へと戻る側近(元シモンズ伯爵家勤務護衛兼王太子乳兄弟)。王太子夫妻の共寝の様子に想像力を働かせるのは、馬に蹴られるどころか当人の悋気に蹴り貫かれていろんな意味で消滅させられかねない自殺行為である。
「それで? 本日の予定に何か変更でも?」
妻に襟元を整えてもらった主は鷹揚にブリザードを解除して、いつもより少し早い側近の訪問理由を問うてくる。
「公爵閣下がまもなく到着されます」
「早いな。身内の管理はお粗末だが、足腰の軽さだけは相変わらず称賛に値するものだ」
「……って、もう呼び出し済みなの?」
固有名詞を出さずとも的確に主旨を察して呆れ声を上げる王太子妃に、側近は首肯を返す。
「ええ、陛下はできる限り早期の原状回復を望んでおいでになります。公爵閣下を最後に、主要人物が王城に出揃うことになりますので、殿下のご都合がつくようならば本日中にも決着を、と」
「呆れた。私が事のあらましを聞いたのは昨夜よ? 『やはり早々に事を決するしかないか』なんて言って、とっくに何から何まで手配済みじゃないの」
「それはそうさ。身辺にまとわりついてしまった汚れを素早く清めずして、巣の居心地が悪いと我が妻にへそを曲げられてはたまらないからね」
「むむ……」
王太子に腰を抱き寄せられつむじに口づけを落とされながら、王太子妃は実に微妙な顔で口をへの字にして呻いた。……よくわからないが、つまりは夫婦にしかわからないやりとりなのだろう、と側近は深くツッコまない。
口元を妻の頭頂部に当てたまま、満足げな王太子の視線が寄越される。
「私も早期解決を何よりも望んでいる。今日の予定は取りやめだ。すぐに御前に参りますと陛下に返答を頼む」
「は」
となれば、今日を境に貴族の勢力図は少なからず書き換わることになる。水面下で、静かに、かつ迅速に。
とある伯爵家に嫁いでいた公爵息女は実家に返され、二度と表舞台に上がることはないだろう。猫可愛がりしている妹を優遇するよう横暴な差配をした公爵嫡男は、爵位継承権を返上させて地方に左遷が妥当なところ。現公爵は監督不行き届きの責任をとって事後処理に奔走することとなり、全てを終えた暁に引退を許される。浮いた爵位は現公爵の縁故の薄い遠縁からすでに抜擢済みの俊英に任され、王家がその後ろ盾をすることになる。
これらの手筈をもって、伯爵家と公爵家の縁は徹底的に断ち切られ、一連の人員整理の漣に紛れて、公爵息女の産んだ伯爵家の子息は人知れずひっそりと姿を晦ますことになる。大人の都合やしがらみから幾許か解放された、新たな環境へと。
そうやって盤上の駒を丁寧に入れ替えるようにして、大きな波乱も周囲に漏らさず感じさせずに──公爵家という外側の枠組みは維持したままに、その陣容は丸ごと刷新される。
脱落するのはほんの三名。処理としては『引退する当主が「我が子を含む一族の人間に公爵の資質なし」として王家に後継の手配を委託した』という形になるだろう。
しばらくは社交界もざわつくだろうが、裏に王家の采配があることを見抜けぬ木っ端が炙り出されて終わりだ。割りを食うのは現公爵家との縁故に頼っていた家や、新たに後継者確保に迫られる伯爵家くらいのもの。それらの家も、情勢の変化に怠りなく対応すれば十分に取り戻しが効く範囲であり、結局物を言うのは貴族としての技量である。
すべて世は事も無し……とするには、一人だけ、割りを食うでは済まされない純粋な被害者はある。幼い『彼』に関しては手厚い援助でもって報うことで、現実を呑み込んでもらうしかない。幸いにして王も王太子も被害者の救済に意欲的であり、この様子では王太子妃も同様だろう。そう悪いことにはならないはずだ。
……ああ、他にもう一人ばかり、今後の展望に暗雲立ち込めている人物が、いるにはいる。
件の人物の未来は流動的だ。本日の「話し合い」の頭数からは漏れているものの、公爵家の尻拭いがどのように転ぶか、それに対して彼自身がどのような反応を見せるかによって、処遇もずいぶん変わってくる。まあ国際問題にならぬよう、少なくとも当国に滞在している間の身の安全だけは保証されるだろうが、新たな問題を起こそうというのならばもちろんその限りではない。まして何ひとつ己のしでかしたことの始末もつけずに素知らぬ顔で隣国へ帰国しようものならば……国境を踏み越えた後に起こる事象の面倒まで見る義理はない。
何はさておき、まずは関係者一同を集めて内々に沙汰を下さなければならない。王はすでに準備を整え、今日にも「話し合い」──すなわち断罪を為そうとしているのだ。
「君も同席するかい?」
「……そうね、最後の最後に少しだけ噛ませてもらおうかしら。私があなたの隣にいれば、公爵も無駄な夢は見ずに済むでしょうし」
ふふ、と小さく笑う王太子妃もなかなか人が悪い。
伯爵夫人の暴走を許してしまった一因として、拙速が専売特許だったはずの公爵がこの件に関してはやけに消極的だった、という一点は見逃せない。暴走する娘を叱りつけることも、娘に手を貸す嫡男を抑え込むこともできたはずなのに、一切動かなかったのだ。
一度は見放した娘が、今度は上手いこと王太子に取り入ろうとしている(ように見える)姿に、この期に及んで「あわよくば」という期待を懐いてしまったのだろう。その判断の甘さが、結局命取りだったわけだが。
公爵の読み違いを加速させたのが、誰あろう王太子夫妻の不仲仕草である。
幼い王孫を守るため。さらには、実のところ夫にベタ惚れであるが素直ではない王太子妃にできる限り気を揉ませない、という王太子の裏目標のため。囮役となった王太子が女狐に親しげに接する場面を繊細な時期の母子に目撃させないため。夫妻は距離を置くことになったのだ。
王城勤めの人間であっても、この真相をあらかじめ告知されていた者はごく少数。王族と、主要な役職の貴族の中でも口が堅い者、王族から信を置かれている側仕えや侍従らの一握りのみだ。もちろん公爵一門及び懇意の者たちはいずれにも含まれない。
真相を知らされなかった大多数の中には、それはもう好き勝手に王太子夫妻の不仲を腐して井戸端や酒のつまみに消費して囀る者のまあ多いこと。曰く、「王太子妃は泥棒猫に寵愛を盗られた負け犬」「王太子も人の子、子を成した妻に女を感じないのは男の性だから仕方がない」「所詮日和見伯爵家の娘などこの程度、未来の王母には公爵家の姫こそがふさわしい」などなど。
これらの心無いうえに知能指数の低い噂を主導したのが公爵一門の息のかかった連中であるのは言うに及ばず。その他、若干格の足りない王太子妃の出自に不満を抱えていたり、それでいてあっけなく王族業に順応して女だてらに王太子の補佐をそつなくこなす姿を煙たく思っていたり、単純に玉の輿への嫉妬だったり、単純に口の軽いゴシップ好きだったり……とさまざまな欲望も絡み合って下世話な中傷が密やかに王城のあちらこちらを賑わわせたものである。
おかげで来期以降の人事案作成が捗った、とは宮内長官の補佐をやっている別の乳兄弟の言である。悪意ある噂に迎合しなかった者たちは重用され、その他の者たちは罰せられることこそなくとも、口の軽い者、品性下劣な者に相応しい立場や仕事が回されていくことになるのだろう。
閑話休題。
自ら主導したわけではないにせよ、外堀を埋めてしまえとばかりに流言を広める一門の者たちの忖度を見て見ぬふりをしているであろう、未必の故意たっぷりの公爵が、いざ王太子夫妻が何事もなかったかのように仲睦まじく身を寄せ合って現れたとしたらいったいどんな反応をしてくれるのやら。なかなかに愉快な断罪になりそうである。
「ではそのように手配いたします。……ですが妃殿下、謁見の前に一度西棟に戻られますよね?」
「そうね、フレデリックに顔を見せないと」
「でしたら個人的には、迂回することをお勧めいたします」
「あら」
夫の側近の回りくどい進言に、王太子妃は愉快げに大きな目を見開いた。
「どなたかわたくしをお待ちなのかしら?」
「左様にございます。具体的には、金髪の巻き毛のご夫人が」
「おやおや」
呆れ声を上げて肩をすくめる王太子。妻と顔を見合わせて、小さく苦笑を交わし合う。
金髪巻き毛は、今話題の旬の人──元公爵令嬢、現カウリング伯爵夫人、すなわち例の女狐の特徴である。
おそらくは「王太子妃が王太子の私室を訪ったうえに一晩帰ってこなかった」という情報を得て居ても立ってもいられなくなった、といったところか。王太子妃の優勢に揺り戻されぬよう、帰宅時を狙った直接対決でマウントを取って精神的優位を保とうという算段だろう。
ようするに、姑息な待ち伏せだ。
普通ならば見えている地雷は避けて通るのが鉄則ではあるが……
「いいわね、面白くなってきた」
不穏なつぶやきとよからぬ目つきを垣間見せたかと思えば、瞬時にして、すっ、と王族の貫禄を取り戻す王太子妃。
「お客様にはわたくしが対応します。案内してくださる?」
「……かしこまりました」
側近は無難な選択肢を速やかに投げ捨てて、にこやかに頭を下げた。主の妻ときたら少々規格外な女性なのである。
「なんてことだ、陛下の召喚さえなければ、妻を颯爽と助ける夫になれる絶好の機会だったのに」
眉間に手を当て悲しげに頭を振る王太子の芝居じみていることよ。己の妻に助けなどいらないということを、この夫が最も理解しているのだ。
王太子妃はくすりと笑う。次期王妃の威厳を、しかと体の芯に通しながら。
「お気持ちだけ頂いておきますわ、殿下。ここから先は女の戦場です」
そして、扉へと踵を返す。
「経緯はどうあれ、私はもう自分の巣を選んだのよ。なら、大切な棲家を自分の手で清めなくてはね」
知的に輝く猫の如き瞳、凛と伸ばされた背筋、自然体の覚悟を宿した歩み。
己よりも生まれ貴き夫人からの危険で愚かな嫉妬も、自身を貶めんとする悪意も流言も、彼女の歩みを止められはしない。
己の『戦場』へ向かうその姿に、側近は国家の一員として、心密かに誇りを感じずにはいられない。
彼女こそは次なる王母。この国には長く無縁だった、王の傍らに立つに相応しい、王妃の中の王妃。
いずれ国の宝となるであろう原石を見出だした主のドヤ顔へと最大限の敬意を込めた敬礼を送ったのち、側近は戦地に赴く女傑の傍らに付き従うのであった。
End




