[おまけ3]少し物騒で日常的な夫婦の夜
燭台の赤みを帯びた灯火が夜闇を弱々しく押しのけて、ぼんやりと室内を浮かび上がらせている。
伝統に彩られ、しかし華美になりすぎぬようほどよく整えられた王太子の私室は、以前訪れた時から寸分違わぬ状態を維持しているように見える。まるで、キャロラインの不在などさしたる問題ではないと言わんばかりに……
「君がここに入ったのは久しぶりだね」
卓を挟んだ正面からワインボトルの口を差し出しつつ、まるで心を読んだかのように王太子が言う。微笑みは絶やさずに。
事実、キャロライン──すなわち王太子妃が王太子の寝所に足を踏み入れるのは、実に数週間ぶりのこと。キャロラインは白けた気分を隠さず、グラスで赤い液体を受け取りながら答える。
「そうでしたわね。どうやらわたくし、お呼びではなかったようですので」
他人行儀に棘のある妻の反論にも、王太子は笑みにかすかな苦笑を混ぜるばかりで、足を組んでソファに身を預ける姿は泰然としたものだ。
「フレデリックはどうしている? 今日中庭に見えた限りは元気そうだったけれど」
「ええ、元気いっぱい! あの時分の子供は日々成長ですもの、目が離せません。毎日毎日なにかしら目を見張るような変化が起き、一日たりと昨日と同じ日はないのです。あれほど尊い存在と四六時中ともに過ごせぬ我が身が歯がゆいばかり」
白け顔から一転、少々芝居がかった口調と身振り手振りで、自慢と陶酔を存分に織り交ぜて熱心に語り聞かせてやれば、王太子は形ばかりは綺麗に維持したままの笑みに、微妙な含みを滲ませた。わかる者にしかわからない、ほんのかすかなこわばりだ。
数拍の沈黙を挟み、続いて投げかけられる問い。
「……寂しがってはいないかい?」
「さて、何をでしょうか? なにぶんあの子も遊びに学習にお昼寝にと忙しくって……」
「…………だが、なかなか一家団欒とはいかない状態では、やはり父恋しさが募るものでは……」
「毎日乳母や乳兄弟の誰かしらがかまってくれますもの、寂しがっている暇さえありませんわ。──もちろんわたくしも! お務めの暇を見ては出来る限りあの子の傍に参ることを心がけておりますもの。寂しい思いなど決してさせませんわ、むしろ忘れさせてさしあげますとも、ええ!」
暗に、『母と乳母たちがいるので父親はいなくても大丈夫! なんなら父親のことなんて忘れちゃうかもね!』と力説すれば、ようやく王太子の口角が下がり、剥がれ落ちていく笑顔の下から真顔が現れた。キャロラインの勝利である。
……実のところ、フレデリックが近頃まともに顔を合わせていない父親を恋しがる瞬間がないこともないのだが。そのたびに乳母や年長の乳兄弟たちが上手く話を逸らして癇癪を起こさないように誘導してくれているので、「寂しがっている」という状態にまでは至っていない……と思うことにしている。……決して鈍くはないはずなのに毎度素直に誘導されてくれるあたり、実のところあの子はあの子で、幼いながら現状に思うところがあるのかもしれない。
ただ、それを美談にしていられるのも今のうち。巧遅が過ぎて、子供の我慢が爆発してからでは遅いのである。
よっぽど堪えたのだろう、王太子は眉間を揉みながら、はー……っ、と大きなため息を肩から吐いた。
「やはり早々に事を決するしかないな……」
空気に溶かすような呟きにはしかし、聴き逃がせない内容が含まれている。
キャロラインは猫のような目をぱちりとひとつ瞬くと同時に意識を切り替え、背筋を伸ばした。
「妙なタイミングでお呼び出しがかかったと思ったら。やっと見通しが立ったのね?」
「まぁね」
キャロラインが砕けた口調になってみせれば、王太子ことブラッドリーも気さくに肩をすくめてニヤリと笑った。
呼び出しと言っても、具体的な指示が伝達されたというわけではない。
本日昼下がり、中庭でどこぞの女性との逢瀬を楽しみながら寄越されたあの意味深な視線。あれが合図だと、直感したのだ。
読み間違いではないというそれなりの自信はあったが、一連のブラッドリーの態度が確信に変えてくれた。
疎遠のフリも、そろそろ引き上げ時ということだ。
「不便をかけてすまなかった。ようやく諸々の裏が取れてね。ずいぶん手間をかけてしまったぶん、調査段階から同時進行でいろいろと仕込んでおいたものが功を奏して、見込みより早く始末をつけられる段取りがついたのさ」
「あらまあ。今回の件に関しては、ほんっとーに、私には指一本触れさせてくれないわけね」
「それが今回の最適解だ、拗ねないでくれよ。それに、こういったものはあまり大っぴらに沙汰を下してもよくない」
「……だいぶきな臭そうね」
キャロラインが声のトーンを一段下げると、ブラッドリーはワインを含んだ笑みにうんざりとしたものを滲ませた。
「カウリング伯爵夫人の背後には、西国のラングショー男爵がいたよ」
「……ちょっともう、拷問直行コースじゃないのそれ……」
今度はキャロラインが眉間を揉む番である。
カウリング伯爵夫人とは、この数週間ほどブラッドリーにまとわりついていた女性──すなわち、昼間の逢瀬のお相手である。
ある日突然、幼い子息と共に登城した彼女は、自分こそが王孫の乳母に相応しいと主張した。本当に、まったく、なんの前触れも脈絡もなく。
フレデリックはもう二歳になる。乳母はすでに足りているし、そもそも最初から募集などかけていない。そう言って王太子妃の立場からきっぱりとお断りすれば、夫人は表向きはやんわりとした態度で、要約すれば「縁故主義がひどい」とか「臣下に対して不公平だ」とばかりの婉曲な嫌味を炸裂させてくれやがった。そのうえで、「狭量な」王太子妃が伯爵夫人を認めるだけの度量を見せてくれるまでは帰らない、と微妙に論点をずらし、実家の太さを最大限に利用して我が物顔でそのまま城に居座り始めたのだ。
……城に土足で踏み込んで、家人を狭量呼ばわりしながら、シッターの仕事をくれと強請る厚顔無恥な人間を、どこの誰が好き好んで雇うというのか。人格は愚か、おおかた必要な能力すら伴っていないであろう人間に役職を与えないことのどこが不公平だというのか。そもそも王族という公的な立場とはいえ、我が子の大事な大事な幼児期に接触させる人間を絞る行為に本人と家族以外の赤の他人──それも王家にも国政にもなんら寄与した実績のない、家柄と見てくれだけの性格ブス──の都合をいちいち斟酌して機会を公平に分配する必要性がいったいどこにあるというのか……!
……という、不平不満はもちろんその場ではしまい込み、その日の夜に夫に愚痴混じりに報告したところ、なんと仰天、夫は夫でカウリング伯爵夫人からあからさまな粉をかけられたのだと言う。
一般に、子を成すという義務を成し終えた王族にとって、愛人の需要が高いのは事実だ。相手が既婚者であればそれはそれで都合の良い面もある。しかし双方に幼子を抱えて秘密裏に姦通するのは……そういう王族も歴史的にわりといるわけだが……言わせてもらえばあまりにも状況が見えていない。己の手に余る争いの火種を撒き散らし、次世代に処理を押しつけて見て見ぬふりをするようなもの。
子が幼いうちはうかつな行いは避けるべき、王太子妃の立場としてせめてあと一人二人フレデリックのきょうだいを産んで、さらに全員の子育てが一段落するまでは待て、そのあとはキャロラインも好きにやるから逢引なり離縁なり好きにしろ……などとつついてやりたいいたずら心がちょっとだけうずいたりもしたが、口からまろび出る寸前で思いとどまったのはキャロラインの防衛本能の為せる業である。
この夫、これでわりと妻にベタ惚れなのである。我が子のことも、目に入れても痛くないとばかりに溺愛しているのである。心変わりなどありえないと、客観的に断言できるほどに。
なので、キャロラインが夫婦関係や家族について努めて割り切った物言いをしようとすると、その日の夜は問答無用でまあひどいことになるのがわかりきっているのである。まして夜、夫の私室で地雷を踏むなどまさに自殺行為。昼になっても寝台から起き上がれないような事態は二度と勘弁願いたい……
そんなわけで、妻子を遠ざけ、招かれざる客の相手をして、表面上は友好的態度をとりながら女狐の腹を探るという作業は、ブラッドリーにとってなかなかの苦行であったことは想像に難くない。
その成果として『隣国の干渉』というのっぴきならない陰謀を炙り出したのだから、夫の──否、夫婦の決断は間違っていなかったのだ。
もしブラッドリーの隣に立つのがキャロラインだけであったなら、もっと別の形での夫婦共闘もできただろう。
だが今はフレデリックがいる。王家に対して悪事を企む不埒者にとっては、一番の狙い目が幼い王孫なのだ。
敵が釣られていてくれるのなら、餌であるブラッドリーは家族からは一旦離れて単身囮になってしまえばいい。敵の思惑を頑なに突っぱねるより、ある程度脈があると思わせてしまったほうが、対処のしにくい搦め手や外堀を埋めるような余計な行動を起こされる確率が下がり、それはすなわちキャロラインとフレデリックの安全確保難度の低下に直結する。少しばかり王太子の評判は犠牲になるが、それも短期決着を見込んでのこと。
だから、キャロラインは断腸の思いで今回は身を引いたのである。……せっかくのロマンス小説じみた展開をこの手でぶっ潰せる貴重な機会を逃すのは惜しいことこの上ないが、仕方がない。
仕掛けられた誘惑に悪い顔をせず、しかも徐々に妻子を顧みることを怠っていくように振る舞うブラッドリーの姿に、カウリング伯爵夫人とその背後にいるであろう黒幕はさぞ喜んだことだろう。実際そうして生じた油断から、ブラッドリーは敵の内情を洗いざらい紐解いたのだ。
「背後関係は案外シンプルだ。ラングショー男爵は何者かの捨て石かとも思ったが、どうやらこいつが主犯で間違いない。婚家に不満のある伯爵夫人を籠絡し昔の野心を思い起こさせて、さらに王太子を籠絡させる。男爵は二重のハニートラップ越しに隣国王家を我が意のままに操れる立場を確立することで、自国における己の地位を上げる……そんなところだね」
「うっわ底浅っ」
拍子抜けするほどの小悪党。他国の王家に手を出そうというのだから、当然大きな組織なり権力者なりが影から状況を操っている可能性を警戒していたのだが、どうやら取り越し苦労だったらしい。
むしろごく個人的な企みだからこそ、本当に大きな陰謀が潜んでいないかの裏取りに手間がかかってしまったのだろう。何事も、存在しないことを証明するのは難しいものである。
このぶんでは侍女に紛れ込ませた護衛の数を少し減らしたほうがいいかもしれない。甘っちょろい任務で彼女たちの体や勘が鈍っては国家の損失だ。
「まあ、この手の阿呆はいつの時代にも一定数現れるものだ。とりわけ西国は年々教育の質が低下していて、人材の劣化が深刻だからな。問題は阿呆が国を跨いで二人連鎖して、本来ならどこかの段階で頓挫しておくべき杜撰な計画が半ばまで実行に至っているところだな」
「伯爵夫人……どうにかならなかったのあの人……」
「どうにもならなかったからああなっているんだろう。だからこそ、この件は二重の意味で表沙汰にはできないのさ」
第一に、主犯である男爵は隣国の貴族である。
事は国家間の外交問題だ。元凶は隣国にあるが、だからと言って声を荒げて率直に糾弾するのは短絡というもの。この程度の非難声明であっても、今の西国ならば国家間紛争の材料にしかねないからだ。
戦争なんてものは筋道立てて起こるべくして起こるとは限らない。人類の歴史を洗えば「どうしてその流れから戦争にもつれ込む?」と首をかしげたくなるようなくっだらない開戦経緯など山ほどあるのである。
内政にこけまくっている西国なぞ、すでにして周辺諸国を仮想敵として国威発揚を乱発してきた火薬庫だ。いずれ爆発は避けられないにせよ、なるべくは自爆の方向へと誘導するのが最善、こちらから刺激して我が国に向けて暴発させるのはいかにも悪手というもの。鷹派のお歴々だって、一男爵の間抜け極まる企みが開戦理由になるのは御免だろう。
それに具体的な被害が出ないことが確定している現状、この程度の個人的な陰謀なら、相手国の面子を慮って今回のことは表沙汰にしないでやる、という体で貸しを作っておくほうが建設的だ。……まあ正直なところこれを貸しとは思わないような国ではあるのだが、今後先方から何かくだらない難癖をつけられた時にでも「そういえば以前これこれこういう間抜けな男爵がおりましてなぁ」とでも返球すれば黙らせられる確率はまあまあ高い。有効な脅しの材料とするにはだいぶ弱いものの、あちらもこの件を無闇矢鱈に吹聴されたくはないだろうから、我が国の国益のためにもひとまず伏せておいて損はないのである。
第二に……こちらのほうが国内事情的に深刻なのだが……実行犯である伯爵夫人が実はまあまあの要人であるという点。
早い話、彼女の父親は公爵だ。……例のお見合い茶会で肉食令嬢筆頭として初日から第一王子に纏わりつき、例の暴言を経ても第一王子を見切ることなく、三日目に第一王子の姿が見えなくなってやっと第二王子(現王太子、つまり目の前にいるキャロラインの夫)に唾をつけ始めるという、かなり残念なムーブを披露した挙げ句に、城に乗り込んできた父公爵に頬を引っ叩かれて引きずり出されていった元公爵令嬢が、彼女である。
公爵は辺境伯に間接的に喧嘩を売った第一王子と、それを見抜けなかった自身の娘に見切りをつけて、王家への輿入れを早々に断念。公爵令嬢は強制的に、家格も内情も無難なカウリング伯爵家へと嫁がされたわけだ。第二王子が立太子される前にはもう一連の手続きは完了していたそうだから、公爵の動きは相変わらずの電光石火である。
過剰に膨れ上がった自信と自尊心と自意識の塊である公爵令嬢あらため伯爵夫人は、当然ながら格下の婚家に不満が満々。本当ならば美貌の王太子に国一番の幸福な花嫁として嫁ぎ、誰もが羨む王太子妃、果ては誰もが傅く王妃にまで上り詰めるという夢を見ていたのに、現実は冴えない風体の伯爵と無理やり番わされ、実家の暮らしより数段落とした生活レベルを強要されたとなれば、もとよりお可哀そうな性格がよりいっそう捩れてしまうのもやむを得ぬ流れであろう。……一切、同情できない。
結局彼女はその歪んだ自尊心を、愛人であるラングショー男爵に利用されたわけだ。
「本来なら貴女様にこそ相応しい王太子妃の地位に、伯爵家の小娘ごときが納まっているのは間違っている。貴女が王太子の目を覚まさせ、王家を正しく導かねば」
……などとでも吹き込まれて、その気になったのだろう。
事実上敵対関係にある隣国の、それも見下しているはずの下位貴族に首ったけになってしまったあたり、彼女の残念さもここに極まっている。ラングショー男爵なる男はよっぽどの色男か口八丁なのかもしれない。
どちらにせよ、もはや取り返しはつかない。腐っても公爵家の出自の女が外患を誘致し、よりにもよって国の未来そのものである王太子へと魔の手を伸ばしたのだ。王家に継ぐ地位、それも歴史的には王族との婚姻も幾度か経験している、国を支える立場であるはずの名家の姫が、国と王家に害をなそうと企んだのである。方々へもたらされる衝撃と影響は計り知れない。他家に嫁いでいるから公爵家の者ではない、などという詭弁は意味をなさないだろう。
であれば、国内の安寧のためにも、陰謀などそもそもなかったものとして処理するのが無難なのである。つじつま合わせに根回しに事後処理にと頭の痛いことこのうえないが、事が広く露見するよりはまだだいぶマシ。それにまあ、大方の責任は公爵家が被ることになるのだろうし、ある程度は高みの見物をさせて頂こう。
「すっきりしない結末になってしまって、すまないね」
頭の中で概ね今後の計算を終えたキャロラインに、ブラッドリーのため息混じりの気遣いがかけられる。少しお疲れのご様子。
キャロラインは肩をすくめて返す。
「別にいいわよ、そんなこと。ま、夫人にはイラッとはさせられたけど、結局それだけだし。直接被害は出てないし、事はまだ王家の内側で収まってるんだから、正しい罪状を詳らかにして法律どおりに裁く必要もないでしょ。結果のつじつまが合えばそれでいいわ」
民草は信賞必罰を求めるものだが、為政者の現実はそうとばかりも言っていられない。それに、法令どおりに裁かれないということが加害者を利するかと言えば、そうとも限らない。
少なくとも公爵は、このまま娘を野放しにはしないだろう。隣国と通じていたというのだから国としても見過ごせない。「拷問直行コース」と評したとおり、彼女を待っているのは律を度外視したぶんよりいっそう容赦なく合理的な、冷たい処断だ。
「──そんなことより! 私、これでもそれなりに腹は立てているのよ。伯爵夫人じゃなくて、あなたにね!」
景気づけにごきゅりとワインを豪快に飲み下してから、キャロラインが腰に手を当ててぷんすか怒ってやれば、ブラッドリーはふにゃりと顔面から力を抜いて苦笑した。こちらは本気で腹を立てているのに、なんだかやたら嬉しそうなのが釈然としない。
「昼間の、中庭でのことかな?」
「それよ! 何してくれてんのよほんと。あの時はたまたま子供たちは気づいてなかったけど、もしものことがあったら教育に悪いでしょうが!」
「わかっているよ」
穏やかにうなずいて、ブラッドリーはグラスを置いて優雅に席を立った。かと思えば卓を挟んだ対岸にやってきて、当然の摂理のように隣に座り、キャロラインの肩を引き寄せる。キャロラインの体温が瞬時に上がるが、不機嫌顔を崩すことも拒絶することもしない。
ただし視線は正面に固定したまま、意地でも夫と顔を合わせない。
「わかってる。実を言えばあれをやってしまってから、ちょっとまずかったかなぁと思っていたんだよ。君はこういったことの物わかりがよすぎるくらいだけれど、屈辱を感じないわけではないし、納得できるかどうかは全くの別問題だ」
「……ちょっと。そんなこと言ってないわよ、あくまで子供たちへの悪影響が……!」
「誓って言うけれど、カウリング伯爵夫人とは何もない。昼間もわざとらしく転んだふりをして抱きついてきたのを見ただろう? 彼女のやり方は徹頭徹尾あの調子でね。あれで元公爵令嬢、現伯爵夫人かと思うと、可笑しくてうっかり笑ってしまいそうになるんだ」
「それはまたずいぶんと使い古された手ねぇ……ってそうじゃなくて!」
「まああの手管にクラリと来てしまう男も多いのかもしれないが、女の色香の奥にある嫌な臭いを嗅ぎ分けられない人間は、王城での命脈も短いな」
ブラッドリーは抱き寄せたキャロラインの腕から肩をドレス越しに幾度かしっとりと撫でると、そのまま指の背で素肌の首筋を触れるか触れないかのかすかな感触でなぞり上げ、顎を越えて頬、への字になっている唇へと怪しい手つきでくすぐっていく。要所要所でぴくりぴくりと反応するキャロラインは、しかし決して夫の手を撥ね退けることはせず、それでいて互いの視線を合わせることもない。
「もちろん、私の奥さんはひとつも嫌なところがない、表も裏もとてもいい匂いだ」
ブラッドリーの手が、いよいよ指の腹でキャロラインの輪郭をなぞり始める。体内に入れたアルコールが、上昇していくキャロライン自身の体温と混ざり合い、ふわりと体の芯を浮き立たせていく。
「賢くて、度胸があって、度量も広い、可愛らしい、素敵な奥さん。今回は珍しく君の手を煩わせずに済んだけれど、それは決して君の存在が不要だからなどではない。王太子に必要なのは貴女で、ブラッドリーが求めているのも貴女だけだよ」
するりと顎に回った指に優しく導かれる。ついには向かい合い、絡み合う視線。焦れるほどにゆっくりと、二人の唇が近づいていく──
「……あの子はどうなるの?」
吸い込まれるように唇が重なる寸前、溶け切らないキャロラインの理性が言葉を紡いだ。
カウリング夫人が連れてきた幼子。顔立ちは悪くないはずなのにどこかぼんやりとして印象が定まらず、いつでも不安そうに所在なげにしている、伯爵子息。
彼の母親は罪を犯し、しかし真っ当な罪人として罰せられることなく、「存在してはいけない」人間として処理される。しかし幼い彼自身には罪はない。……罪はなくとも、生母と幼少期を過ごす幸福だけは、どうしても諦めてもらうしかない。
心情的には最も報われてしかるべき、純然たる被害者だ。だがその行く末はあまりにもおぼつかない。母との別離だけで済めばまだずいぶん救いがあると言える。
焦点を結べないほどの間近に、熱の籠もった眼差しを見つめる。突然の妻の疑問にも動揺どころかひとかけらの揺らぎすら見せない青玉の瞳が、複雑な影を成しながらキャロラインの瞳を捕らえて離さない。
「彼はカウリング家とは無縁の貴族に引き取られる予定だ。出自を巧妙に偽装たうえでね。……大丈夫、先年後継者を亡くされた、気の毒で心優しい夫妻だよ」
ブラッドリーが言葉を紡ぐほどに、互いの唇がかすかにこすれ合い、熱い吐息が体温に染み込むよう。脳髄を痺れさせる巧みな誘惑にすんでのところで抗うように、キャロラインの思考は脳裏のどこかを淀むことなく流れていく。
……では、少なくともあの子の血縁上の父親が隣国の人間ではないという裏が取れたのだろう。
王族ならまだしも、この国の貴族は特別直系にこだわりはしない。跡取りの都合がつかなければ親類縁者の子から見繕えばいいし、繋がりの薄い家からより優れた養子を迎え入れるのも一つの手だ。平民の血を入れるとなると心理的ハードルは一段上がるものの忌避感は人それぞれで、庶子を家に迎え入れる事例もほどほどに見受けられる。まあその場合だいたいは褒められた経緯でないことも多いが。
他国の貴族に対しても同じだ。あまりにも他国に肩入れするような婚姻は推奨されないが、政治的に問題のない範囲ならば、国外の血が交じるのもある程度寛容される。
だが現在形で係争を抱える西国の血統、それも国家転覆だか国家支配だかを企んだ阿呆男爵の実子となれば、災いの種以外の何者でもない。本人にその気はなくとも西国は利用する気満々だろうし、そうして生まれが吹聴されれば国内貴族からは疑惑と嫌悪の眼差しが向けられる。さりとて父親の国に送還すればそれはそれで結局公爵家の血筋を名目に利用されるであろうし、当国以上の迫害は必至。どうあがいても茨の道だ。
女が、実質上の敵国の男と通じるということは、つまりはそういうことなのだ。生まれてきた子には否応なく嫌疑がかけられる。両国との縁は悪縁となって子に絡みつき続ける。
だから、あのカウリング伯爵子息が平穏な人生を送るためには、まずカウリング伯爵家から徹底的に縁を切り、不貞疑惑を抱えるカウリング夫人とのあらゆる関係性を断ち切って、完全な別人として新たな人生を歩むことが最適解となる。これでひとまず隣国の悪縁と周囲の先入観から解放された「普通の」生活が確保できるはず。
それでも万が一出生が白日の下に晒され、その血統に疑惑の目が向けられた時、ラングショー男爵が父親ではないことを周囲が納得できるだけの証拠の類を用意しておかなければならない。
疑惑は呈されてしまった時点で真偽を問わず利用されるものなので、これは本当に万が一の保険だ。けれどこの最後の砦が用意できないのであれば……国王陛下は罪なき幼子すら、未来の火種として残酷に処断するほかなかっただろう。
幸いにして伯爵子息はこの最低条件をクリアできていたということだ。陛下の差配は本人の行く末を最大限慮ったものと言っていい。たとえそれが、実母はもちろんとして、父親ということになっているカウリング伯爵との別離を前提としたものであろうとも。
「……伯爵はなんて?」
「息子は間違いなく自分の子だから、このまま嫡男として育てると言い張った。だが陛下はそこまでうかつじゃない」
「夫人には他の疑惑があるということね」
夫にも婚家にも不満たらたらの夫人である。そのうえ第一王子の失態を見切ることができず、男爵の浅はかな国家転覆策に嵌まる浅慮の塊。愛人の一人や二人、他にいたとしても驚くに値しない。火遊びでうっかり出来てしまった子を、伯爵の子としてしれっと産み落とすぐらいの「嫌がらせ」ぐらいお手の物だろう。
ふふ、と零された失笑にも似たブラッドリーの微笑が、キャロラインの唇をくすぐる。
「ああ。今回の調査で裏付けられたのは、時期的に見て夫人が仕込んだ子種がラングショー男爵のそれではありえない、という事実のみだ。それ以外の可能性はなんら確証が得られていない」
「……御子息は、カウリング伯爵に似ていらっしゃる?」
「今でさえ、似ていなくもない、という範疇だ。今後長じて、彼の容貌が伯爵の望まぬ方向へと変容していったなら。あるいは時を置いてなんらかの疑心に囚われてしまったなら……」
「初志貫徹はしてくれなさそう、ということね……」
「母親があれだ、同情には値するが、だからといって信用もできないな」
我が子が己の子種であると信じられているうちはいい。けれどわずかなりともそこに疑惑を感じてしまえばどうか。きっと時が経てば経つほどに伯爵夫人の奔放な性質は鮮明に思い出され、伯爵の疑心に絶えず薪を焼べ続けてしまうだろう。
そんな残酷な可能性にのちのちになって突き当たってしまったとしても、カウリング伯爵は我が子のことを第一に考えて養育することができるか否か、疑惑に追い詰められて衝動的に子を虐げずにいられるか否か、子の出生につきまとう厄介な因縁や悪意に対して敢然と子を守ってやれるか否か……と問えば、「否である」というのが王太子と国王の共通見解ということだ。
もちろん最低限遺恨を残さぬために、カウリング伯爵が我が子にどの程度こだわるか否か、あるいは子息のほうが父親と引き離されることに対してどの程度抵抗を見せるか否かによって、各々に繊細な対応が今後求められていくだろう。無理に引き離して情が拗れる事態はできるだけ避けるべきだ。
とはいえ、そもそも伯爵には子煩悩という印象は全くと言っていいほどない。平時の言動に加えて、今回の夫人の暴走を知っていながらなんら対処もできなかった……すなわち子を犠牲にしても妻に頭の上がらない夫の役どころに甘んじてきた男である、というのが正味な評価だ。子育ても乳母や使用人にほとんど丸投げであるらしく、必然の結果として子息に懐かれている様子もない。
おそらくは抵抗も形だけ。今は悲劇の主人公のような状況に酔って瞬間的に我が子に執着しているのだろうが、王と王太子から正式に説得され、それなりの譲歩なり対価なりを提示されれば、案外あっさりと身を引く可能性が高い。それもまた伝統的な貴族仕草の一つではあるだろう。
そこで伯爵が心を入れ替えて身を引かなかれば、経過観察を義務として父子を引き離さない方針に舵を切ることもできるだろうが、果たしてそれほどの気概や情が彼の伯爵にあるかどうか……あまり期待はできそうにない。
「……実のところ、伯爵家の要求を呑んで見て見ぬふりをしてしまったほうが、現状面倒はないのだけれどね」
皮肉げに、ブラッドリーの笑みが深まる。
現在の都合、大人の事情を優先して──決して低くはない確率で潜在しているが今後本当に顕在化するかどうかもわからない出生にまつわる軋轢になど気づいていないふりをして、なあなあな対応で済ませてしまったほうが、間違いなく楽だ。采配を振るう王家の気苦労も、差配する事務方の手間も、実際に動く現場の労力も省け、何より面倒事を嫌うお歴々の同意も得られやすい。
一方で王と王太子が現実に進めようとしている計画においては、子息の出自を秘匿し、貴族たちの不信や不満を煽らぬよう、徹底して情報を操作しながら内密に事を運ばなければならない。膨大な労力と秘密を、ごく狭い範囲の身内で完結させる必要があるのだ。そこに付随する実務的、精神的負担を軽く見積もっただけでもため息が止まらない。
──だが、それでも。
「……ここで、私たちが踏ん張らなければ、問題が先送りされるだけね」
「ああ。座して待っていたところで、子息の出生に対する疑惑が消えてなくなることだけは絶対にあり得ない」
「遠くない未来、その尻拭いをさせられることになるのは、十中八九私たちの子供や、孫たち……」
「そうだ。だから美しい物語のように伯爵父子が力を合わせて危難を乗り越えていける……などという楽観的観測で構えてはいられない」
「現実はむしろその逆……あの父子が不正解を選び続ける最悪の可能性を潰さなくてはね」
「そこまですることが王家の役目とは言い難いが、今回は『隣国の介入』という都合のいい口実がある。できる限りの手は尽くしたいんだ」
キャロラインの背に回されたブラッドリーの手が、ゆっくりと動き出す。
大きな手から生み出される甘い熱に意識の縁をゆるりと溶かされながら、キャロラインは潤んだ瞳で目の前の夫へと微笑みかける。
「ええ、そうね。フレデリックと、まだ見ぬ子供たちのために。私たちの全力を尽くしましょう」
──その瞬間、もうほとんど触れ合っているも同然だった唇はいよいよ深く重なりあう。
淡い灯火に浮かび上がる二つの影は、互いに互いを貪り合うように、一つになった。




