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身辺を清めてから出直してくださいませ  作者: ミナソコミナモ
コミカライズ記念番外編

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[おまけ2]幸福な光の庭、不穏な影ふたつ

「……またずいぶんと物騒なお題に手を出したわね……」


 中庭に響いていた麗しい声が語りを終え、大人しく耳を傾けていた子供たちが矢継ぎ早の質問攻めにも飽きてあちこちに駆け出したタイミングを見計らって、キャロラインは呆れ声を上げながらようよう中庭の東屋(ガゼボ)に歩み寄った。

 曲線と鋭角とを精緻に組み合わせた瀟洒な屋根の下の影の中で、数名の女性がキャロラインを振り向き、王太子妃の登場にも気負った様子を見せずに、気安い笑顔と軽い会釈や手振りを返してくれる。


「キャロラインさま。聞いていらしたのですか?」


「ええ、貴女(あなた)の声は廊下まで聞こえるもの。中身はちっとも『むかし(ロング・ロング・)むかし(タイム・アゴー)』じゃないし、一部は『今まさに(プレゼント・デイ、)この時(プレゼント・タイム)』って内容も混じってたけど。おっそろしいことするわぁ」


「はわわ……っ、最初から……っ」


 キャロラインがガゼボの椅子にかけながら肩をすくめてやると、語り聞かせをしていたホリー・オークレー子爵夫人は恥ずかしそうに両頬を手で覆った。

 くせのないミルキーブロンドを腰まで伸ばし、ふわふわとしたパステルカラーのドレスがよく似合う、おっとりと優雅な佇まいの夫人だ。少しばかり感情が表に出やすくて、時折怯える小動物のように見えてしまう愛らしさも、令嬢時代……というか、(くだん)の茶会の頃から変わらない。

 しかしこれでいて、貴族社会のなんたるかを骨の髄までしっかり叩き込まれており、立場にふさわしい生存能力を備えているのは、先の語り聞かせの内容を聞いてお察しのとおり。


 目を白黒させながら羞恥と困惑に悶えるホリーの姿に癒やされつつ、キャロラインはもう一人の知己へと視線を転じた。


「シナリオを書いたのはあなたかしら」


「あらすじだけね。だいぶ盛られちゃったわ」


 澄まし顔で茶器を手に取りながら、語尾にあからさまな含み笑いを(にじ)ませたのは、グロリア・メイナード次期侯爵夫人。

 赤褐色(オーバーン)(つや)を帯びた黒髪(ブルネット)を前下がり気味のボブに整えて、いかにも知的そうな瞳を余裕たっぷりに細める美女。昔から大人びた見た目をしていたが、それでも茶会当時はまだ少女らしさを残していた負けん気の強さが、今は大人のしたたかさへと置き換わり、さらなる魅力を花開かせている。

 実を言えば彼女の素地はホリーほど貴族向きの性格ではないのだが、紆余曲折の(すえ)に幼馴染の侯爵令息をガッチリ捕まえたようで、婚家でも上手くやっているらしい。知恵と努力と根性の人である。


 わきまえているようでいてわりと自由奔放な親友たちに、キャロラインは小さく苦笑する。


「王城の庭でよくやるわね。陛下や殿下(がた)は気にしないでしょうけど、忠臣連中の耳にでも入れば怒鳴り込んでくるかもしれないわよ?」


「大丈夫よ、本当にまずい部分は伏せてあるもの。何度かホリーが蒸し返しかけたけど」


「いえいえっ、ちゃんと踏みとどまりましたから、ええ!」


「そういうこと。あれくらいの『おはなし』程度で怒鳴り込んでこようものなら、かえって子供たちの不審と好奇心を煽るわよ」


 ……二人揃って完全に開き直りの体勢である。


 そう、ここは王城。日差しうららかにして緑豊かな昼下がりの中庭。

 オークレー子爵夫人とメイナード次期侯爵夫人──ホリーとグロリアは現在、今年二歳になる第一王孫の乳母として城に出仕している。先ほど開催されていた語り聞かせは、王孫とその乳兄弟たちに向けた余興である。


 話のモチーフはこの国の人間ならば誰もが知る、元王妃とその実家が零落した際の顛末。ほんの数年前の話だ。「むかしむかし」と他人事(ひとごと)顔で語るのはなかなかの胆力と言える。

 それに、本人たちの主張するとおり本当にまずい真相(辺境伯大暴れ)部分は伏せられてはいるものの、「王が第一王子失脚を狙って王命を発した(意訳)」といったあたりは結構スレスレである。いやまあみんななんとなーく察してはいるだろうけれども。


「大丈夫ですよー。この手の『おはなし』、城下ではもっとひどいのが面白おかしく流行(はや)ってますから」


 にこにこと悪意のないホリーの言い分に、キャロラインもさすがにこめかみを押さえた。


 そうなのだ。貴族のみならず平民も、有名人の醜聞(スキャンダル)は大好物なのである。

 それも決して手の届かない雲上人の転落劇となれば、最高級の嗜好品。王妃失脚の噂はすぐさま市井(しせい)を駆け抜け、夥しい尾ひれ背びれ胸びれ腹びれ尻びれまでついて、多種多様なパターンの物語へと派生しているのである。

 片や比較的現実に則した似非(えせ)伝記風。片やたっぷりと外連味(けれんみ)を効かせた宮廷醜聞群像劇。あるいは第一王子に焦点を絞った恋愛もの。もしくは第二王子の成り上がりストーリー。ひどいものになってくると第三王子のトンデモ冒険活劇や、「とある貴族令嬢がなんやかんや王家を引っ掻き回した挙げ句に玉の輿」とかいう()()()()(強調)のシンデレラストーリー、果ては「実は王妃は誰よりもいい人で、今回の失脚劇は彼女の(えが)いた王室正常化の計略である」なんていう逆転の筋書きなどなど。書店で、劇場で、各地を練り歩く商人たちの噂話で、街角の語り聞かせ(ストーリーテリング)で、玉石混淆な虚構まみれの『おはなし』が公然と蔓延(はびこ)っているのである。

 もともと王妃自身が評判の良くない人だっただけに、(みな)遠慮知らずのやりたい放題だ。民衆の娯楽に対する進取性とは、時にドン引きするほど凄まじい。

 だからと言って国からこれらに規制をかけるのは愚策中の愚策。民衆から王家へと向ける疑惑の眼差しがいっそう燃え上がること間違いなしである。放置が一番。


 かように非情なる現実から翻ってみるに、グロリア作・ホリー脚色の語り聞かせは、事実に(のっと)っているがゆえの危うさを含みつつも、かなり真っ当な内容と言える。貴族の子弟を訓導するための教材としては……まあ悪くはない……のか……?


「…………。そんな話うちの子に聞かせんじゃねぇ感はすごい」


「ひゃっ」


「あらやだ、お言葉が乱れていらしてよ()殿下」


 ちょっと黒いものを漏らしてしまったキャロラインにホリーが怯え、グロリアはオホホと笑って受け流してくれる。


 ……まあどの道、子供たちがいずれ学ぶことになる歴史の一部だ。教師は真実を避けてもっとマイルドに教えるだろうが、王城で育つ子らが興味を持って積極的に調べるようになれば、早晩真実の周縁にたどり着いてしまうだろう。

 あまり子供の目に入れたくはないお家騒動ではあっても、大人たちが一様に口をつぐんで黙っておくより、あらかじめ真実をなんとなく混ぜた『おはなし』という形の導入編を語り聞かせておけば、真相を知ったのちの衝撃や面倒な摩擦を緩和できるだろう。実際あの騒動はいろいろな教訓を含んでいるから、上手く調理すれば貴族向けの教材にできるかもしれない。機会を見て夫に相談してみるか……


「ははうぇー!」


 為政者モードに回り始めていたキャロラインの脳を、元気いっぱいの愛らしい呼び声が現実へと引き戻した。きつく煤けていた表情が反射的に笑み崩れてしまう。


 遠くから母の姿を見つけてはじける声を上げたのは、小さな男の子。中庭に散っていった子供らの中では一等幼く小柄だが、案外侮れないしっかりした足取りで、まっしぐらにキャロラインの元へと駆け寄ってくる。

 キャロラインは笑顔で手を振って(こた)えると、心得た乳母たちと侍女の連携によってほとんど瞬時にして装着させてもらった、ゆったりと足元までを覆うエプロンの裾で、男の子の体当たりを柔らかく受け止めた。

 子供は汚れていて当たり前だが、高価なドレスは税金の集積体。王太子妃のドレスともなればそう何度も着回しすべきではないにせよ、リフォームするなり誰かに譲る(≒恩を着せる)なりして有効活用するために、避けられる汚れは極力避けるのがキャロライン流である。

 わかっているのかいないのか、我が子はキャロラインの足に抱きついて、嬉しそうに汚れた頭をぐりぐりと押し付けてくる。キャロラインはくすくすと笑って彼を抱き上げる。やわらかくあたたかな子供の体から、故郷を思わせる土と太陽の匂いがした。


「まあフレデリック、午後も元気ね。お兄さんたちと何をして遊んでいたの?」


「んっとね……かぶとー!」


 母に問われた第一王孫フレデリックが、世界一愛らしい輝く笑顔で掲げて見せたのは、黒々つやつやずんぐりとした、立派な一本角の──甲虫(こうちゅう)


 グロリアとホリーを含む東屋の乳母たちが、悲鳴のなり損ないじみた呼吸を押し殺したのが、気配でわかる。さすが、それでも決して叫び声を上げない胆力はプロの矜持(きょうじ)のなせる(わざ)か。

 さしものキャロラインも一瞬ぴしりと動きを止めてしまったが、思い出の中から虫など怖くもなんともなかった子供時代の自分を引っ張り出してなんとか踏みとどまった。フレデリックがこの場でいたずらに甲虫を手放さないようそっと手を添えてやりつつ、もう片方の手でやさしく頭を撫でてやる。

 キャロラインに似た髪質の柔らかなくせっ毛は、今は()に透ける金色だけれど、陰に入ると暗い艶を帯びることがある。きっと長じるにつれて、父親に似た渋い色味へと落ち着いていくのだろう。


「凄いわフレデリック、こんな大きなカブトムシ! よく捕まえたわねっ」


「うー! あっちのね、きの、ねもと!」


「そう。じゃあ、この子はあの木の根元で生きていくのね」


「う?」


 母を見上げて不思議そうに首を傾げるフレデリック。きっと、捕まえたあとのことなどまるで考えていなかったのだろう。


「フレデリックはお城で暮らしているでしょう? 毎日あたたかいごはんと、おふろと、おふとんのおかげで気持ちよく過ごせているわね?」


「うんっ」


「じゃあ、『今日からあなたのおふとんはカブトムシと同じ木の根っこです、おふろは入れません、ごはんは樹液だけです!』……って言われて、生活できる?」


「うーうーっ」


 賢いフレデリックはたちまちむくれ顔になって必死に首を横に振った。そんなぶちゃ顔も世界一可愛い。


「そう。それはね、カブトムシも同じなの。カブトムシは人間と違うから、人間のごはんは食べられないものが多いし、おふろに入ったら溺れちゃうし、おふとんの中じゃきっと眠れないわ。人と虫は同じようには暮らせない。カブトムシにはカブトムシの、生きやすい場所があるの」


「……しょっかぁ。じゃあ、おへやつれてくの、だめだね」


 しょんぼりと肩を下げるフレデリック。キャロラインはうちの子世界一賢い、世界一優しいと脳内を沸かせつつも、乳母たちの手前、おもいっきり撫でくり回したい衝動を抑えて、賢母の顔を崩さずやわらかに息子の頭を撫でてやる。


「お庭で少しのあいだなら、一緒に遊んでも大丈夫よ。でも人間に触られるのは虫にとっては疲れることだから、あんまり触りすぎたりかまいすぎたりしないようにね?」


「あい!」


 元気なお返事でしょんぼりモードを振り払い、フレデリックは母のもとから駆け出した。小さな二本足でしっかりと大地を蹴って、瞬く間に子供たちの輪の中に溶け込んでいく。


「お見事でしたわ、キャロライン様」


 ほう、と安堵と賞賛の入り混じった声を、少し年嵩の乳母が上げた。先代乳兄弟の一人、今は王太子の側近をやっている食えない男の、よくできた妻である。

 キャロラインは苦笑まじりに笑みを返す。


「虫遊びって通過儀礼みたいなとこあるじゃない。子供のうちに遊んで汚れて虫と(たわむ)れておくのも勉強のうちってね。大人(こっち)としては虫なんか見るのもごめんだけど、だからって『虫なんて連れてきちゃだめ!』って叱るのもなんかね。まあ言ったところでそのうち飼いたいとか言い出すようになるんでしょうけど、素直な今のうちに予防線張っとこうかと思って」


「いっ、いえいえいえ本当に素晴らしいですキャロラインさまっ。うちの子にもお願いしたいくらい……っ」


 カブトムシを突きつけられてからこちら、ずっと息を詰めていたらしいホリーが青い顔で両腕をさすりながら力説する。どうやら鳥肌が止まらないらしい。ちなみにホリーの子は今まさにフレデリックと一緒に虫遊びをしている、育ち盛りの男児二人だ。


「私としては、女性に対しては虫を突きつけるなっていう教育も追加でお願いしたいところなんだけど」


 グロリアも少しばかりの動揺の余韻を見え隠れさせつつぼやく。彼女の子はフレデリックより二ヶ月ほど早く生まれた、少し人見知り()のある女児である。


「うーん。子供の頃のことを思うと、女の子だからって虫嫌いとは限らないし、一度拒絶されておくのも経験かなって。でもまあ余所様の子にトラウマ植え付けるのもよくないし、やったら嫌われるかもしれないわよっていうのはあらかじめ言っておいたほうがいいかしら」


 躾に悩むキャロラインのエプロンを脱がせてくれながら、年嵩の乳母は穏やかにうなずく。


「そうですね。でも、一度にいくつも禁止事項を詰め込んでも効果がないこともありますから。少し()を置いて一つずつしっかり覚えさせるのが良いかと存じますわ」


「あぁ……そうね。先に言われたほうばっかりに気を取られたりとか、新しいほうの情報に上書きされたりとか、あるわよねぇ。大人でも」


「むしろ大人になってからのほうがめちゃくちゃあるあるになりつつありますぅ……」


 グロリアとホリーがまだ若いのに己の老化に思いを馳せて遠い目をしているのが可笑しくて、キャロラインはついつい笑ってしまう。


「ええ、ですので、初めからあまり気負いすぎず、もし何かその手のアクシデント(おいた)をしでかしたとしたら、その時々にしっかりと対応することを心がけましょう。大丈夫、キャロライン様がフレデリック様のおそばにいらっしゃらない時は、わたくしどもを含む他の誰かが必ず補完いたします」


「子育てで『あれをしなければならない』『これをしてはいけない』なんていう正解なんてほんの一握り。少しずつ手探りで、我が子にとって何が一番いいのかを(たゆ)まず探っていくほかございません」


「けれど思い詰めすぎは禁物です。完璧を求めて多少の妥協も寛容できないのでは、子供にも自分にも負担をかけすぎてしまいます。それに我々の経験から言わせて頂けば、大人は少しおおらかにかまえていてくれたほうが、子供も安心してのびのびできますもの」


 ある者は汚れてしまった食器を下げ、ある者はカップに淹れたての茶を()ぎ、ある者は子供たちが帰ってきた時のための準備をしながら、次々に助言をくれるの他の乳母たち。皆、先代乳母の子や嫁──すなわち現在の王太子と弟王子の乳姉妹(ちきょうだい)自身や乳兄弟の妻にあたる。


 事実上失脚した第一王子だけを溺愛していた元王妃は、王太子とその弟王子をいない者の如く扱った。王は元王妃から二王子を取り上げ、身元のしっかりした(しょう)の良い三人の女性を乳母につけて育てさせた。彼女たちは三人で協力して、我が子と二王子を見事()()()()育て上げたのだ。

 乳母が三人もいれば乳兄弟は多く、彼らは男児女児の別なく賑やかなコミュニティの中で気の置けない関係性を築きながら育った。その子らが成長し、今度は乳兄弟(王太子)の子、つまりフレデリックのために協力してくれているのである。

 フレデリックの乳母は、ホリーとグロリアを含めて総勢八名。ここまで多いと常駐する必要も、(みな)が皆母乳が出る必要もないため、中にはまだ出産前だったり、逆に子育てが一段落したベテランなんかもいて、各々のスケジュールを融通し合って交代交代で乳母業に入ってくれている。時には先代乳母が飛び入りでやってくることもある。もちろん王孫フレデリックの養育が第一義ではあるのだが、全体的にはなんというか、気心の知れた母親同士が自身の子供を連れ寄って、互いに互いの子をそれなりに面倒見ながらおしゃべりに花を咲かせているような雰囲気だ。

 互いに補完しあい大役を果たした乳母たちを見上げて育った子らや、その妻たちの頼もしさときたら。新米のキャロライン、ホリー、グロリアも大いに助けられたものである。


「先達の言葉は沁みるわね……」


「ええもうほんと! 本当に本当に、涙が出るほど有り難いですぅぅぅ」


 グロリアがしみじみ呟き、ホリーに至っては手を合わせてしきりに拝み始める始末。二人とも乳母のお役目についたはいいが、我が子に振り回されてあまり余裕がなかったため、どちらかと言えばキャロライン同様、乳母コミュニティの受益者の側と言える。それでもキャロラインにとってはいてくれるだけで心強い仲間たちだ。

 この乳母たちがいてくれるからこそ、キャロラインたちは、王族や多くの高位貴族がそうであるように我が子の世話を人任せの投げっぱなし、なんてことにならずに済み、子育ての苦しみを適量、喜びを最大限に享受できている。

 元王妃デリラは確かに不心得な毒親だったかもしれないが、その副産物としてある乳母システムはかくも素晴らしい。元祖腹黒こと国王エグバートの先見の明には感謝に()えない。


「本当。ここは天国かしらねぇ……」


 穏やかな慈母の心地で視線を巡らせた先に。

 ──翻る、鮮やかな青の布地。


 ……中庭の先。木々の陰になっている渡り廊下に、見間違いようのない人影がある。

 遠目にも惚れ惚れさせられる、均整の取れた長身。威厳たっぷりに装飾された正装を、重すぎず華美になりすぎず、スマートに際立たせる着こなし。陰にあっては黒髪と見紛(みまが)う、清潔に整えられたダークブロンド。

 そして何より、その左肩を覆う天色(あまいろ)片掛けマント(ペリース)は、この国の王太子である証。


 王太子ブラッドリーは、まるでこちらのことなど気づいていないかの如く、何者かと朗らかに言葉を交わしている様子だった。

 相手の身元まではさすがに見分けられないが、キャロラインの目が唐突におかしくなったわけでないのなら、明らかに、ドレス姿の女性、である……。


「あらぁ……」


 ドレスの人影が不意にバランスを崩しブラッドリーが彼女を抱き留めたのを見ては、ホリーが困ったように呟き、


「あらあらあら……」


 王太子が彼女の顔を覗き込むような親密な距離感を見せれば、グロリアが含みのある声を上げる。


 さらにさらに、王太子が女性を抱き寄せたままちらりとこちらに笑みを含んだ視線を寄越してきたのに至っては、二人揃ってそっと傍らを覗ってしまう。


 先ほどまでの慈母の姿は、そこにあらず。

 眉間にきつーい皺を寄せて据わった目で二つの人影を見やる、厳しい王太子妃が、そこにいた。



***



 かくしてその晩、公務を終えて自室へと向かったブラッドリーは、予定通りの人物に待ち伏せされていた。


「やあ奥さん。ここに来てくれるのは久しぶりだね」


「ええ、お呼び出しのとおり、参りましたわ」


 まるで動揺など見せず、実ににこやかに妻を迎え入れる王太子と、一切不機嫌を隠さず棘にまみれた声音で夫に応手する王太子妃の姿を特等席で目撃してしまった王太子の側近(元シモンズ伯爵家勤務護衛)は、「うわぁ……」と遠い目で呟くのだった。

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