第81話 伝説の聖杯
辺りがすっかりと暗くなり、月明かりでようやく周りを認識できる情景の中、ディープホールに近い無人島の砂浜に、海から上がってくる人影があった。
「もう嫌だ。もう海には入らない。もうあんな怖いのは嫌だ。」
赤の女王は波が届かない距離までふらつきながら歩いて、砂浜に大の字になって倒れた。
「何回、海蛇に食べられればいいの?はぁぁぁぁ、疲れた。喉が渇いた。ココナッツミルクが飲みたい。誰か、持ってきておくれぇ。」
ざぶん、ざぶんと心地の良いリズムで波の音が辺りを満たし、疲れきった赤の女王の眠気を誘った。赤の女王は右腕を目頭に置いた。
「ああぁ、眠くなってきた。もう、このまま寝ちゃおうかな。でも、あれがどうなったか気になるな。海に沈んだ感覚があったし。」
赤の女王は腕輪として装着している血液に末那を込め、遠隔にある血液をゆっくりと自分の元へと呼び寄せる操作を行った。それは、海面と砂浜を滑るようにして移動してきた。血液に纏わせた末那の動力によって運ばれてきた物体が赤の女王の足元でぴたりと止まった。
「血液を付着させておいて良かった。なんか嫌な予感がしたんだよね。どれどれ。」
赤の女王は上半身を起こした。そこには黄金の宝箱と、その上でぐったりとしているマシュがいた。
「ええぇぇぇっ。マシュ?マシュもいたの?ごめん、気付かなかった。」
赤の女王は驚きの声を上げた。讐怨亭のマグナに黄金の宝箱を返却させ、手に取った時に、赤の女王は血液を付着させていた。海蛇に喰われ、海中に引きずり込まれていた時に、その血液を通して、宝箱が海に落ちた感覚が伝わってきたため、ディープホールの本流に飲まれる前に移動させていた。
マシュは宝箱を必死に抱えていたが、血液は宝箱の底面に付着させていたため、赤の女王はマシュの存在を知覚出来ていなかった。また、その血液の遠隔操作に気を取られ、海蛇から中々抜け出せないでいたのだった。
「マシュ、大丈夫?マシュ。」
マシュは静かに目を開き、赤の女王を見た。そして、周囲を見回し、赤の女王に視線を戻した。
「ふぅ、良かった。無事みたいだね。」
赤の女王はマシュごと宝箱を膝に置いた。
「心配しないで。この宝箱を取ったりしないから。これはマシュのだよ。」
マシュは黒い目でじっと赤の女王を見つめた。
「もしかして、宝箱を追って、ディープホールに飛び込んだの?危ないことしちゃ駄目だよ。」
マシュは大事そうに宝箱を抱え直した。
「全く。そうだ。実はさ、マシュにお願いがあるんだ。マシュの島にあった海底洞窟を見学させてもらったでしょう?ほとんど讐怨亭に破壊されてしまっていたけど。おそらく、あの海底洞窟にエスペランザの財宝の多くが保管されていたと思うんだ。でも、少しずつ、洞窟が波で削られて、財宝は海へと流れ、最後にはディープホールに沈んでしまった。でもね、洞窟の最奥にあったマシュの隠れ家の壁面に、岩を削って作られた棚に置かれていた物は波にさらわれずにいた。」
赤の女王は小さな杯を取り出した。それはやや厚いプレートに、太めの短いステムが付いており、本体には11個の七芒星の模様が周囲にぐるりと刻まれていた。
「俺はこれまで世界を旅をしてきたんだけど、その中でこの杯を発見できたら嬉しいなと思っていた物なんだ。これは不思議な力が宿った聖杯なんだよ。マシュが良ければ、これを俺に頂戴。」
マシュは視線を赤の女王から聖杯に移した。聖杯を両手で挟んでみた。そして、くんくんと匂いを嗅いだ。
「きぃぃ。」
「あの、それって、くれるってこと?」
マシュはこくんと頷いた。
「ありがとう、マシュ。」
赤の女王は微笑んでマシュの前足を握った。
近くでずしゃりとした音が鳴った。誰かが空から砂浜へ降臨した様子を知覚した赤の女王はマシュごと黄金の宝箱を横に起き、立ち上がった。そして、その者が発する末那を探った。
「タタラか。」
「赤の女王。やっぱり無事だったんだね。君が海蛇に負けるなんてこと有り得ないと思っていたよ。」
タタラは、赤の女王の足元にいるマシュの姿を見て歓声を上げ、駆け寄った。
「マシュ?マシュじゃないか。マシュゥゥゥゥ。」
タタラはマシュをぎゅっと抱きしめ、頬擦りした。
「マシュ。良かった。君がディープホールに飛び込んだと聞いて、本当に悲しかったんだよ。茶々丸に伝えたら、とってもしょんぼりしてた。無事で良かったぁ。マシュ。マシュ。マシュ。マシュゥゥゥゥ。」
マシュは優しく、きぃぃ、と言った。
「ふふふ。マシュ、眠ってて良いよ。疲れてるでしょ。黄金の宝箱は僕と赤の女王で守っているから安心して。」
「きぅ。」
マシュはタタラの腕の中で身体を丸め、目を閉じ、眠り始めた。
「赤の女王がマシュを助けてくれたの?」
「偶然だよ。宝箱が誰かに奪われたり、海に落ちたりする心配があったからさ、血液を付けていたんだよ。それをついさっき回収すると、マシュが乗っかってた。」
「そうなんだ。ありがとう。」
赤の女王は、タタラがありがとうと言った意味を考えた。タタラはすっかり、マシュのことを身内のように想っていた。




