第80話 海坊主の物語
海坊主は刀身から手を離し、後退した。サーペンスは膝を付き、吐血した。サーペンスは震える手で身体から刀身を抜き、それを手に持ったまま、立ち上がり、海坊主の方へと歩もうとした。しかし、足を前に出せなかった。サーペンスは死を悟った。
「テチス海の戦いに終わりはありません。私が死んでも、後任が派遣されてくるだけです。次は、過激な人物かもしれません。私に支配されていれば良かったものを。」
サーペンスは刀身を手から離した。両腕を天へと上げて、空を見上げた。
「いと高き所に栄光あれ。」
サーペンスは仰向けに倒れ、絶命した。
海坊主は船の甲板に尻餅を付き、呆然とサーペンスの死体を眺めた。敵を打ち破ったことに、ひとかけらの達成感もなかった。マシュの死が心の中を駆け巡った。込み上げてくるものがあり、下唇が震えた。
サーペンスにはサーペンスの物語があり、家族があり、信念があったのだろう。しかし、彼の死に敬意を示すことは出来なかった。海坊主にとって、平等な命の尊さは主観的な愛情の思い入れによって個別に変化するものであった。決して命の価値に優劣があるわけではなく、上下でもなく、差異なのだ。
(それの何が悪い。それのどこが悪い。俺はピットが大切だった。自慢の息子だった。息子を殺した連中とその同類を地獄に落としてやる。)
これまで、そう考えていた海坊主はサーペンスやマグナの死に触れても、何も考えが変わることはなく、一方で、少しも気持ちが晴れることはなかった。しかし、ピットが愛したマシュを救えなかったことで、今まで自分がしてきた復讐は何の意味もないことのように感じられた。自分の意志も、自分の存在も、自分の人生も、自分に関する全てが無意味に感じられた。
海坊主は、本当は分かっていた。海賊を殺し、海賊船を沈めることに何の意味もないことに、初めから分かっていたのだった。それでも、息子の死を思うと、いてもたってもいられなくなり、破壊衝動に突き動かされた。そうすることが亡き息子への手向けになると信じていた。
しかし、マシュは違った。マシュは、ただ復讐をするだけではなく、ピットの目指していたものを追求していた。自らの命を投げ出して、ディープホールに沈んででも、ピットの夢を叶えるために全力で生きた。
それに比べて、自分はなんて矮小で、なんて弱いのだろうと感じた。海坊主はひたすら、己を卑下した。目の前に倒れているサーペンスはどうだったのだろうと思った。しかし、どれだけ想像しても、それはだだの想像でしかなかった。
「あんた。あんた。しゃきっとしな。」
時雨が海坊主の鮫肌の背中をバチンと叩いた。
「この船は時期にディープホールに落ちるよ。ボサッとしないで、自分の足で立って、歩いて、家に帰るよ。早くしな。」
時雨は海坊主の太い腕を持ち上げた。海坊主はのそりと立ち上がった。気絶しているリョウコを担いだタタラと共に、自分の船へと戻った。時雨は水の魔法、水妖を発動し、船の周りの海水を船ごと移動させることにより、ディープホールの海域から離脱した。
海坊主は東西からくる潮の境目にできる巨大な渦、ディープホールを見えなくなるまで眺めた。やがて、讐怨亭の船が沈んだ。まるで海が獲物を補食するかのように、船を飲み込んでいった。その光景は、取り返しのつかない不可逆的な理のようであり、マシュの死を実感するのに十分な根拠となった。海坊主は、涙を流し、腕でそれを拭った。
太陽が彼方の海にその身を隠し行く中で、赤く染まった夕暮れ時の空は、海坊主に一つの物語の終結を感じさせた。時雨は舵を取りながら、そんな海坊主の背中を、いつまでも、涙目で見つめていた。




