第5話 飛縁魔の子守唄
たたりもっけに気付いた猫は、一瞬、顔を上げて牙をむいたが、うなだれるように地面に突っ伏した。
「僕を呼んだのは君かい?それとも、僕を呼んだんじゃなくて、世界中に伝えたい想いがあるのかい?」
猫は返事をしなかった。たたりもっけは掌を猫の身体にそっと当てて、魂に触れた。阿頼耶識により、猫の記憶が、走馬灯のように、たたりもっけの魂に投影された。
尾が2本の猫は遠くの村で他の野良猫と一緒にのんびりと暮らしていた。時々、猫同士で喧嘩することはあったし、野良犬といがみ合ったりもしたが、概ね平和な毎日を過ごしていた。穀物を喰い荒らすネズミの天敵として、村人の多くは猫を重宝し、餌をくれた。中でも、首に痣のある老婆はとても親切にしてくれた。何故か、一度も口をきかなかったが、膝の上に乗せてくれて、鼻唄で優しい子守唄を聞かせてくれた。干した小魚をくれることもあったし、いつも優しく背中を撫でてくれた。猫は、尻尾が2本あること、鬼火を扱うことができたことで、他の猫より目立ち、特にその老婆に可愛がられた。
ある晩、老婆の家に火の手が上がった。火事に気付いた尾が2本の猫は迷いなく老婆を助けに行ったが、火の回りは非常に速く、老婆は大量の煙を吸って意識を失いかけていた。猫は老婆の服を噛んで、必死になって出口まで引きずろうとしたが、猫の力で老婆を動かすことはできなかった。老婆はしっかりと猫の目をみて、最期の力を振り絞って、初めて言葉を発した。
「お前は、生きなさい。」
(どうしてさ。どうして僕と一緒に生きてくれないのさ。嫌だ。嫌だよ。お婆さん。また一緒に日向ぼっこをしようよ。またお婆さんの膝の上でお昼寝をさせてよ。またネコジャラシで遊んでよ。僕、頑張って人の言葉を覚えたんだよ。おしゃべりは出来ないけどさ。お婆さんのお話を聴かせてよ。お婆さん。お婆さん。また僕の背中を撫でて。また僕の首の下をかいて。お婆さん。また、あの優しい子守唄を聞かせて。)
尾が2本の猫はそんな風な想いを猫的な表現で目一杯に訴えた。
そこへ、全身に水を浴びた男が勢いよく家に入ってきた。男は思い切り猫をはたき、老婆を外に連れ出した。猫は炎に包まれたが、鬼火を自在に操る猫には熱が伝わらず、ただただ、はたかれた脇腹に痛みが走るのを我慢して、燃え盛る家を出た。老婆は息を引き取っていた。老婆を助けた男が猫を指差して言った。
「あいつだ。あいつが家に火を付けたんだ。俺は見た。あいつが、火の中で婆さんを喰らおうとしていたのを。」
村人はすっかり男の言うことを信じた。それからというもの、もう誰も尾が2本の猫に餌を与えなくなった。2本の尻尾は気味悪がられるようになり、疫病神と罵られた。追い払われ、蹴飛ばされ、石を投げられた。居場所はどこにもなかった。こうして、尾が2本の猫は村を出た。
幾つも山を越え、こっそりと船に忍び込んで海に出て、また幾つも山を越えた。そして、疲れ果ててしまった。もう、老婆の顔すら、靄がかかったようになり、鮮明に思い出せなくなってしまった。それでも、どれだけ時が経っても、どれだけ遠く離れても、老婆の子守唄だけは心の中で色褪せなかった。
たたりもっけは猫から手を離し、一息ついた。
「そっか。君は唄っていたんだね。子守唄を。」
猫は少し顔を上げ、じぃっと、たたりもっけの目を見つめた。たたりもっけも猫の目を見つめた。それは、世界で最も綺麗な、茶色い優しい目だった。そして、お婆さんの最初で最期の言葉を思い出した。
「それじゃあ、君は、生きないとね。」
たたりもっけは奥義 受肉改変により、両手の掌に乳腺細胞を集めた。じわっとしみ出してきたミルクを猫の口元にやった。
「大丈夫だよ。僕もたまに飲むんだけど、ちゃんと美味しい牛乳の味がするし、お腹を壊したことはないから。」
猫はくんくんと匂いを嗅いだ後、ぴちゃぴちゃと飲み始めた。たたりもっけは革袋からピーナッツを取り出し、粗く砕いて、ミルクに混ぜた。猫はがつがつと美味しそうに食べた。
「これも僕の身体から生やして、さっと火に炙っておいた物なんだよ。栄養満点だからね。たぶん。」
お腹いっぱいになった猫は、にゃん、と一言お礼を言って気持ち良さそうに眠り始めた。たたりもっけは猫を抱えて、山を登り、いつもの浅い洞穴の寝床に戻って、猫と一緒にぐっすりと眠った。
翌朝、猫がごろごろと音を出しながらたたりもっけの腕をふみふみし、たたりもっけは目が覚めた。
「おはよう。しっかりと眠れたかい?」
「にゃあ。」
「お腹すいた?」
「んにゃ。」
たたりもっけは再びミルクとピーナッツを猫に与えた。