第37話 自分の命よりも大切なヒトの人生が世界の中心であるということ
ツバキが目を覚ますと、見慣れた自室の天井が視界に入った。木造の藁葺きで、黒く染まった梁に小さな蜘蛛がすたすたと歩いているのが見えた。
夕暮れ時のぼやけた朱い光が窓から射していた。隣の囲炉裏のある部屋で誰かが話をしている声が聞こえた。それはまるで自分のいる世界とは異なる空間から響いてくる異国の言語のようであり、ひどく幻想的な音として感じられた。
暫く、思考せずに、ただ天井の蜘蛛を見つめ続けた。ふと、身体が重いことに気付いた。強力な磁力の反発力によって、床に押さえつけられているかのような圧迫感が全身に及んでいた。
その時になって初めて、蟲との戦闘を思い出した。ツバキは腹筋に加えて、掌を床に付け、腕の力も合わせてゆっくりと上半身を起こした。いつの間にか、隣の部屋から会話が聞こえなくなっていた。木戸をコンコンと叩く音が響いた。
「タタラです。入っていいかな。」
「どうぞ。」
タタラが静かに戸を開けた。
「調子はどう?大きな外傷は無かったけど。」
「凄く疲れたけど、むしろ、すっきりした感じ。心地の良いしんどさ。あんたはどうなの?あんな大爆発を起こす魔法を発動させて、心臓を貫かれて死んで、蛇や竜に変身して、あの赤神家の者を倒して。こうして言葉にすると、何だか滅茶苦茶な話だよね。でも、実際にあんたはそれをやった。」
「そうだね。」
タタラは畳に腰を下ろして、話し始めた。
「実はさ、シヴァが君達兄妹にすっかり惚れ込んでいるんだよ。それに、僕も。君達をこの鱗の民の村に連れ帰った時、君は熟睡してた。そこへ、君の飛竜がやって来て、口元で君の肩に触れて、心配そうに匂いをくんくんと嗅いで、君のそばから離れようとしなかった。この家に君を運び入れた時に、その飛竜も入ろうとした位だからね。引き離すのが大変だったんだよ。それで、僕は、ああ、君達は飛竜と本当に良い関係を築いているんだなと思った。そんな君達にさ、是非ともマドリーナ王国の国造りを手伝って欲しいって思ったんだよ。君のお兄さんに声をかけたら、俺は妹と一緒にいるから、妹にも聴いてくれと言われたんだ。」
「国造りって言ったって、そんなの私には出来ないよ。私に出来るのは悪党を倒すことだけ。今までも、今も、これからも。私達兄妹はそのためだけに双剣を振るい、鱗を敵の血で染めてきたんだ。」
「それで十分だよ。悪い輩を倒せるだけの力と覚悟を有しているヒトは、そうはいない。」
タタラは少し言いにくそうに、上目遣いでツバキに言った。
「ただ、一つ、今の君の発言で気になったことがあるんだ。君達は悪党を倒すために、これまで、血を浴び続けてきわけじゃないよ。」
ツバキはムッとして、少し語気を強めて反論した。
「そんなこと、なんであんたが決めつけるんだ?本人である私が言ってるんだ。私達兄妹は、悪党を破滅させるために、戦ってきたんだ。」
「君はそうなんだろうね。でも、君のお兄さんは違うんだよ。」
ツバキは眉をひそめて、呟くように言った。
「兄貴は、違う?」
タタラは、声の音調を低くして、静かに、語りかけるようにツバキに伝えた。
「君達のご両親が亡くなられたことを聞いたよ。そして、弟さんのことも。」
「やめて。」
しんとした空気が二人の間に流れた。タタラの言葉でツバキの心にシュレイの姿が鮮明に浮かんだ。
赤ちゃんで、身体のどこを触ってもふわふわしていたシュレイ。
元気で明るくて、走り回っていたシュレイ。
飛竜にご飯をあげようとして、舌で頬をベロンと舐められたシュレイ。
病に倒れ、吐き気が止まらず、苦しむシュレイ。
歩くことも、立ち上がることも、上半身を起こすことすら出来なくなってしまったシュレイ。
そして、永遠の眠りについたシュレイ。
途端に、ツバキの胃腸はぎゅっと締め付けられ、全身に悪寒が走った。たまらなく悲しい気持ちになり、じわりと涙が目に溢れた。
「君は、弟さんことを心底、愛していたんだね。なくてはならない存在だった。そして、弟さんが亡くなって、君は心の支えを失った。」
ツバキは何も言わず、下を向いた。シュレイのことを想うと、少しも抵抗は出来なかった。
「でもね、君は一つ、とても大事なことを忘れているよ。」
「何?」
「君のお兄さんも、君に負けない位に弟さんのことを愛していた。お兄さんは弟さんを救えなかったことに、何度も何度も、何度も何度も何度も自分を責めた。家族を守れない自分など、この世界から消えてしまえと、今でも思ってる。」
ツバキは声が震えてしまわないように、慎重に、ゆっくりと、小さな声で言った。
「そうだ。だから私達兄妹は、弟が生きたかったこの世界で、外道を働く連中が許せないんだ。」
タタラはしっかりとツバキを見て、自分の気持ちを乗せて、事実を伝えた。
「でもね、君のお兄さんは弟さんと同じ位に、君のことも愛しているんだよ。」
ツバキは顔を上げて、目を見開いた。
「自分の何もかもを注いで、君を守ると、亡くなられたご家族に誓いを立てている。君が傷を負ってしまわないように。君がこれ以上、不幸になってしまわないように。君がいつか絶望から立ち上がれるように。君がいつか幸せになれるように。そのために、そのためだけに、お兄さんはこれまで君のそばにいて、双剣を振るい、敵の血を浴び続けてきたんだよ。」
ツバキの目からすっと涙がこぼれ落ちた。両膝を立てて、額をその膝に当て、両腕で足を抱え込んだ。ツバキは泣いた。声を立てずに、身体を震わせて、静かに泣いた。
話を終えると、タタラは辺りに蛙の声が響いていていることに気が付いた。時折、往来を行く人々の声と、飛竜の吠える音が交じった。夕日は空を朱く染め、バルプロ山脈の山影を黒く際立たせていた。




