第25話 ある男の社会生活について
男はひどく痩せ細った身体に襤褸を纏い、青白い顔を眼下に広がる山裾の大地へと向けていた。何も感じず、何も考えることはなかった。視覚で感じとったバルプロ山脈の美しい情景は、男にとっては記号のようなものでしかなく、標高の高い山のつんとした肌寒さも、男にとってはぬめりとした質感でしかなかった。
マドリーナ王国からバルプロ山脈を超えて北側に位置するバルバレイ領で、昔、男は陶芸の仕事をしていた。職場には20名を越える労働者がいて、男は現場の責任を担う監督者として、誰よりも早く仕事を初め、誰よりも遅く帰宅する毎日を過ごしていた。
仕事場では、とにかく多種多様な問題が生じた。皿が割れる。色がのらない。土の質が悪い。釜の温度が上がらない。釜の温度が調節できない。誰それの仕事が遅い。誰それの私語が多い。誰それの態度がなっていない。その度に男が呼ばれ、男は何度も何度もそれまでの作業と思考を中断させて、問題の解決に当たった。
嫌になることが多分にあった。しかし、これもお願い、あれもお願いと言われている内が人生の華だと考えた。物事を主体的に取り組まないヒトに嫌悪感を感じた。しかし、ヒトとヒトの関係はお互い様なのだと考えた。
こうして、20年の月日が経った。男はくたくたに疲れていた。これまで、ひたすら自分を磨り減らして、やっとの思いで一日一日を乗り越えてきたが、男の心にはこれ以上、消耗できる余白は無かった。そして、ある晩、男はふと思った。この日々が、もう20年も続くとどうなるのだろうと。月を眺めながら男はぞっとした。
もう誰にも、自分に要求をして欲しくなかった。
そのように感じてしまって以降は、仕事にやりがいがなくなってしまい、ただ生きていく糧として作業をこなすようになった。
カゲツノハムシと巡り会ったのは、そんな色褪せた毎日を送っていた頃だ。家の前の道端に拳位の大きな黒い塊を発見した。それがカゲツノハムシだった。靴の先でこつんと体を押してみた。ぴくりともせず、数時間後には仰向けになって死ぬ様子が男の脳裏に浮かんだ。一方で、家に持ち帰り、餌と水をやると、元気になる映像も浮かんだ。男は後者を選択し、カゲツノハムシの両脇を片手で掴み、帰宅した。
それ以来、男とカゲツノハムシの共同生活が始まった。男は自分の想いの全てをカゲツノハムシに語った。カゲツノハムシが男の話しを聴くときは、カサカサと動くのを止めて、彫像のようにぴくりとも動かなくなるのが特徴だった。
男は気持ちを表現することで、徐々に将来の展望を描くことが出来るようになっていった。そして、カゲツノハムシと出会って半年で、仕事を辞める決断をし、独立して陶芸を続けることにした。貯め込んできた資金を全て使い、陶芸に必要な環境を整え、新たな生活を始めた。
男はカゲツノハムシに世羅潮と名付け、世羅潮に自分は櫂鳴だと名乗った。
仕事は驚く程、順調に進んだ。世羅潮はますます大きく成長していったが、毎日、顔を合わせている櫂鳴にはその変化は顕著に映らなかった。
ある日、櫂鳴が家を留守にしていた時、何者かに侵入され、仕事場兼住居を荒らされた。釜は崩され、陶器は割られ、道具はへし折られ、染料はぶちまけられた。その光景を見た櫂鳴は驚愕し、まず、世羅潮がどうなったかを心配した。世羅潮はぺちゃんこになった釜の奥側の地面にいた。無傷だった。櫂鳴は世羅潮が無事だったことに安堵し、同時に、家と仕事場を破壊されたことに、悲しみで打ちひしがれた。
櫂鳴は片付けに半月を要した。再び、以前のように無気力な心で満たされ、世羅潮にほとんど話しかけなくなった。そんな折、街で別の事件が起きた。櫂鳴の元同僚が殺されたのだ。その遺体は凄惨を極め、臓物と肉は喰い散らかされ、首は胴体から切断されていた。
一週間後に同じ事件が発生し、さらに一週間後にもう一度続いた。被害者は櫂鳴の元仕事場の経営者と同僚だった。街は震撼した。皆、不必要な外出を避けるようになった。櫂鳴は釜の復旧に虚ろな目で取り組み続けた。
世羅潮は餌を食べなくなり、しかし、体は異様な速度で大きくなり続けた。
その事件が起きた半年後、街はカゲツノハムシの群れに襲われた。ヒトも動物も植物も、有機物は等しく蟲の餌となった。櫂鳴は世羅潮を革袋に入れて、逃げた。その時、すでに櫂鳴の心に温もりはなく、悲鳴は強い風の音のように聞こえ、上がる血飛沫は如雨露から出るただの水のように見えた。逃げる時も、騒がしく、荒廃していく街では住み難いからという気持ちで、まるで旅行に出るかのように荷造りをして、街を出た。
カゲツノハムシは櫂鳴を避けて飛び回った。第三者から見ると、その光景は櫂鳴が蟲を指揮しているかのようであった。そうして、街は廃墟となった。
世羅潮が死んだのは、櫂鳴が南へと逃げ、バルプロ山脈の麓に至った頃だった。次第に衰弱し、動きも散漫になっていた。櫂鳴は世羅潮の死を予感した時、少しだけ心を取り戻し、久方振りに世羅潮に語りかけた。
「僕は、どこで間違えたんだろうね。ヒトに嫌悪感を感じた時かな。それとも、ヒトに激しい憎悪を抱いた時かな。感じたり、思ったりするだけなら、そんなこと全然構わないことだと考えていたんだけどね。」
櫂鳴は世羅潮の背中を撫でた。
「いつの頃からか、疲れがとれなくなって、もうどうでもいいやという気持ちが大きくなったんだ。そして、皆いなくなっちゃえと思うようになった。それを、君がとても純粋な気持ちで叶えてくれたんだね。ごめんね、世羅潮。ごめんね。僕に、もう少し、もうほんの少し、ヒトの友達を必要とする気持ちがあればよかったのかもしれない。」
櫂鳴は世羅潮の亡骸をバルプロ山脈の森林に埋めた。




