第2話 世界の夜明け
地上に出る前の晩、たたりもっけは、化石となった亀の甲羅の中心に移動した。自分が誕生するきっかけとなり、これまで、自分を守ってくれるように鎮座していた甲羅に深く感謝し、眠りについた。翌朝、とても気持ちよく目覚めた。しかし、しばらくして、とても寂しい気持ちになった。何しろ、1万数千年の時を過ごした寝床と別れるのだ。自我が生まれるまでの期間を考えると、途方もなく長い年月なる。
(今まで、ありがとう。)
そう言って、たたりもっけは甲羅の上に堆積した地層をくぐり抜け、上へ上へと移動した。そして、塞がれた龍穴からひょっこりと魂の半分を地上に出した。自身の魂が拡散していく気配はなかったので一安心した。阿頼耶識により、周囲に溢れる他者の魂を知覚し、末那識により、そこから発散される末那を知覚することで、辺りが無数の植物に囲まれていることを知った。その中でも、比較的しっかりとした魂に、たたりもっけは意を決して飛び込み、憑依した。
それはカラムシという植物であった。5感は無かったが、はっきりと太陽の温もりを感じた。風に揺られ、大気を感じた。冷やりとする大地の潤いを感じた。それは驚くほど心地の良い感覚だった。カラムシの魂は自分の魂と比べて、あまりにも小さく、たたりっけは自分の魂によってカラムシの魂が押し潰されないか不安に思うほどであった。
たたりもっけは、カラムシから飛び出し、ジャスミン、菜の花へと憑依しながら移動した。やがて、深紅色の葉を有する大きな楓の木に自身の巨大な魂をしみ込ませ、一息ついた。龍穴の中は感情が嵐のように飛び交い、両面感情の想いの渦や、金属のような固い意思が激流のようにぶつかり合っていた。しかし、植物の中では、善も悪もなく、正義も憎悪もなく、好きも嫌いもなかった。ただ、生きることへの使命感のような感覚で覆われていた。たたりもっけは、まるで自分が世界の一部になったような気がした。恍惚とした心地良さにたっぷりと浸った後、たたりもっけは憑依と移動を繰り返し、やがて、広い小麦畑で草取りをしていた人間の少年へとたどり着いた。
憑依した瞬間に、少年の5感を通して、世界が飛び込んできた。それはあまりに美しく、多様で、多彩で、驚きの音に満ちていた。世界が存在すること、それを知覚できること。それがどれほど贅沢なことか。今いる空間を未来に向かって動き、それより以前には過去があること。それがどれほど素晴らしいか。太陽の眩しさと、どこまでも広がる青く透き通った空に感嘆した。末那識と阿頼耶識で知覚していた世界とはまるで違っていた。曼荼羅に記されている数多の魔法や術よりも、5感ほど優れた機能はないと、たたりもっけは確信した。この時の感動をたたりもっけは生涯忘れることはなかった。
5感は第6感の心を揺さぶり、心の躍動は第7感の末那を大いに活性化させた。
(いけない。僕の末那が少年に流れ込むと、悪い影響を与えるかもしれない。)
たたりもっけは何とか自分を落ち着かせた。そして、少年の内側から静かに世界を堪能し、人の肉体と魂の在り方についてゆっくりと学ぶことにした。