第1話 たたりもっけアイデンティティー
あらゆる生命の残留思念や魂の残滓が流れる龍脈には龍穴と呼ばれる出口があり、そこから放出されるエネルギーは世界を巡り、生命に還っていく。
遥か太古、全地表凍結により星の初回文明が滅亡する以前の時代には超大陸が存在し、その東端には巨木の大森林で覆われた半島があった。そこには、世界に複数ある龍穴の一つがあった。龍穴の周囲だけは草原となっており、植生の遷移が起こらず、一年又は数年で生涯を終える植物が世代交代を繰り返し、龍穴を見守ってきた。
ある時、老齢の巨大なリクガメが龍穴のわずかな窪みにゆっくりと腰を下ろし、一息ついた。リクガメは、死にゆく時に、このような自分にぴったりの窪みを発見できたことに満足した。ひとしきり、亀的な物思いに耽った後、まるで風に流れる雲が静かに太陽を隠すように、ゆっくりと一生に幕を下ろした。その身は微生物や昆虫の糧となったが、特殊な鉱物と反応した甲羅は残存し、大地の一部となって、龍穴を塞いだ。その結果、エネルギーは放出されることなく滞留を続け、濃度を濃くし、質量さえ生じることになった。
長い年月が経過し、ヒトの文明が三度、滅んだ。その間も、世界の片隅にある閉ざされた龍穴では、死んでいったヒトや絶滅した生物種の念がエネルギーとなって貯留され続けた。わずかに生き残ったヒトは原始的な生活の営みの中で細々と命を繋いでいった。
最も悲惨だった三度目の文明の終末には凄惨な武器や奇怪な化物がいくつも創出された。生殖機能の無い、一代限りの生物として、動物の遺伝子を導入された人間までもが生み出された。しかし、生命の力強さは人知を遥かに凌ぎ、遺伝子操作された人間の間で子どもが産まれた。最後の文明滅亡のおよそ百年の後に、その者達は千家と呼ばれるようになった。
ちょうどその頃、閉ざされた龍穴で変化が生じた。膨大なエネルギーが圧縮を続けた結果、一つの自我が誕生したのだ。自我は欲求よりも先に、疑問を持った。第一の命題は次のようなものであった。
(僕は、何者で、どこから来て、どこへいくのだろう。)
自我は、龍脈に流れる膨大なエネルギーの中に潜む多様な生命の記憶の断片から情報を抽出し、理論を成立させていくかのように体系的に整理して、自身の魂に刻印することが出来た。それは、知識を保存し、活用するための幾重にも広がる無限の自動倉庫のようなものであった。自我はその英知の宝庫を奥義 曼荼羅と名付けた。そして、自身の存在と一致するような事例が過去に無かったか、曼荼羅を検索してみた。しかし、自分に当てはまる生物や事象は発見できなかった。ただ一つ、ある怪異に親近感が湧いた。それは、“たたりもっけ”という存在であった。生物のあらゆる負の感情が凝集して一つの意思が生まれ、ヒトを祟り、怖れを糧とする妖怪である。自分と多少の異なる点はあったが、自我は“たたりもっけ”という響きが気に入り、心の中で言ってみた。
(僕はたたりもっけである。世界から生まれて、今を生きていくんだ。)
たたりもっけは、すっかり満足して、第二の命題に取りかかった。
(何故、僕は存在できているのか。)
魂は肉体なしでは存在できない。それが、曼荼羅より得た知識であった。たたりもっけには身体がないのにも関わらず、魂があった。自分が魂だけの存在であることに、たたりもっけは少なからず不安を覚えた。
(明日にでも、僕は消えてしまうかもしれない。)
そう思うと、とても残念に感じた。たたりもっけは、しばらく陰鬱な感情に苛まれたが、悩んでも自分に有利に働かない考え方は生産的ではないことに気付き、次の命題に取り組むことにした。
このようにして、たたりもっけは来る日も来る日も思考を続けた。ある大陸では人間や千家が少しずつ文明的な生活を営み始めた。たたりもっけのいる大陸では、大気も大地も水も汚染された結果、生物が異形と化し、魑魅魍魎が跋扈するようになった。これによって、この大陸は黄泉と呼ばれることになった。これらの生命の躍動や世界の有為転変により、龍脈に流れるエネルギーが増大しても、たたりもっけは変わらずに塞がった龍穴の中で漂い続けた。
たたりもっけが龍穴の外に出ようと決心したのは、自我が生じてから実に1万3千年の月日が経過した頃だった。巨大な知識の網に変貌した曼荼羅は世界の光景をたたりもっけの意識の深層に刻み込んだ。それにより、たたりもっけは世界を体感したいという羨望を持つようになった。たたりもっけは第6感の意識を有していたし、優れた第7感の末那識、魂を知覚し、神羅万象の本質を捉える力である稀有な第8感の阿頼耶識を備えていた。しかし、身体を持たないたたりもっけには5感がなかった。そこで、たたりもっけは、憑依進化と受肉改変という二つの奥義を編み出した。これにより、たたりもっけは身体を得て、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識を獲得することができるようになるはずであった。
(体があれば、世界を見て、音を聴いて、香りを嗅いで、食物を味わって、物に触れることができる。海に潜って、川で泳いで、山を登って、空を翔けることだってできるんだ。楽しいことがいっぱいだ。僕は世界を満喫したい。目的と選択。目的はできた。次は選択だ。)
わくわくする気持ち。好奇心。それが、たたりもっけの原動力となった。