【3】
「さて、出発するぞ。支度は出来ているんだろうな」
「出発って・・・母さんはもう行っちゃったじゃないか!お前も見ていただろう!」
「・・・おまえ、勘違いしてないか?出かけるのはお前だ」
「俺がどこに行くんだよ。ここに居て、母さんが帰るまで待っててあげなくちゃ。父さんにもはなすことが沢山あるし・・・」
「はぁ・・・もしかしてお前、何にも知らないのか?ライラ様に何も聞いてないのか?とにかく、儀式は終わったからさっさと行くぞ」
そういい終わると、クリスは勝手にドアをあけて家の中に入っていった。
部屋にはいるとさっと腕を一振りし、さっきまでとは打って変わった服装にアオーンが来る前に着替えていた。
「あいつ、何が言いたいんだ?」
今までのことを思い出してみても、生まれて初めての出来事に動揺している自分をどうすることも出来ない。朝食を食べ終わるまでの平和な日常。変わる事のない日常だと思っていたものが、何も残っていないのだから。
「一体いつまでそうしているんだ!」
イライラしたクリスの声で我に帰った。
「お前がそうしているうちにも、自体は変化しているんだ。いい加減にしてくれ。ライラ様は帰ってこない。ソウェイル様にも了解を得ているんだ。とっとと準備しろ」
逆らう気力もなくなってしまったアオーンは、仕方無しに家に入った。
見渡すと、母がいないだけのことなのにとても広く感じた。
「母さん・・・どこに行っちゃったんだよ・・・」
「ライラ様はミトラ神殿に向かわれた。そんなことも知らないのか?」
「知らない。。。何にも知らないよ!お前の事だってさっき会ったばかりだし、今日の母さんだって・・・初めて見た・・・・」
「もしかして、ライラ様は何も話してないのか?」
クリスの声は驚きで掠れていた。
「何のことだよ」
アオーンの返事を聞いて、クリスは困ったといわんばかりに頭を抱えている。
「とにかく、話は後だ。出発するからな。荷物を取って来い」
いつまでこうしていても、もうこれ以上説明してくれる気は無いらしい。そうわかると、アオーンは自分の部屋に行って、何日分かの旅の支度をしようと思った。アオーンの部屋は廊下の突き当たりだが、ドアに何か貼ってあるのが見えて駆け出した。
(アオーン、頑張ってね。母より)
それは母の走り書きだった。ドアのノブにはアオーンのリュックが掛かっていて、中には母が準備してくれた短い旅のための荷物が入っている。
「頑張ってって、何を頑張るのか解らないよ・・・」
リュックを開いて中を確認すると、見慣れない皮の袋が目に付いた。中には小さな石が入っている。これは必要ないかとも思ったが、折角母が入れてくれたものだから持っていく事にした。
少し持っていきたいものがあったので部屋にはいろうとすると、鍵が掛かってしまったらしくドアが開かない。
「おかしいな・・・鍵なんて掛かるわけ無いのに・・・」
「結界を張ってある。ライラ様が準備されたんだろう」
「どうして?ここは俺の部屋なんだぞ」
何でも知ってますといわんばかりのクリスに怒鳴り返しても、返事は返ってこなかった。
「何も知らないのは俺だけかよ」
頭の中で、アオーンは嘆いた。知らないだけならまだしも、それを一々確認するように責めてくるクリスの存在にうんざりしていたのだ。
「この家は森ごと結界で守られている。ライラ様の許可が無いと、誰も入って来られないようにな。お前の部屋はさっきの儀式の時に封印されたんだろう。旅立ちの儀式をやったあとにはいられては困る。だから荷物も全てライラ様が準備して、そこに置いて行かれたんだ。ほかに質問があるか?」
「母さんの許可が無いと入れないなんて嘘だろ。お前は来れたじゃないか!」
アオーンはやっとの思いで言い返した。
「ああ、そのことか。ライラ様も驚かれた様子だったな。多分これを持っていたからだろう」
そう言うと、クリスはポケットから何かを取り出してきた。
「それは・・・」
「そうだ。ソウェイル様から預かってきた。お前に渡すように言われてな」
クリスが手渡してくれたのは、父が大事にしている古びた短剣だった。使っているのを見たことは無いけれど、いつも身に付けていて決してアオーンにも触らせてはくれない、大事なものだった。
「これをもって、お前は旅に出るんだ。いいか、もうこれ以上話すことはない。行くぞ」
アオーンは無理やりとは言え父の大切な短剣を渡され、母に整えてもらったリュックを肩に掛けて、家を出る決心をせざるを得ない状況になっていた。
「やっぱりここで母さんを待つ。父さんだって帰ってきたときに誰もいないと・・・」
いつまでそうしているつもりなんだ、お前まだ子供だな。ライラ様もソウェイル様も、お前が旅に出ている間はここには帰って来れないんだぞ。何にも知らないんだったら、それらしく俺の言うことを聞け!」
とうとう怒らせてしまったらしい。しかしアオーンはまだ納得していなかった。どうして急にこんなことになってしまったのか。何とかしてこの男に説明させないといけないのだが、クリスは人の考えていることがわかるみたいなので、下手なことは出来ない。そんなことを延々と考えていると
「質問には答えてやる。しかし、それは歩きながらだ。それから、お前が考えている通り、俺はお前のことは全てお見通しだから、そのつもりでいてくれ。これからは、うるさくてかなわんな・・・」
しぶしぶ、アオーンは承諾した。
ここにいてもしょうがないことだけは解ったのだ。
質問には答えてくれるらしいので、これからゆっくり聞けばいいか。そう思ったのだ。母も父も心配だが、自分が旅から帰ってくるまでは両親とも帰って来れないというクリスの言葉が引っかかった。アザラの山なんて聞いたことのない山に行くなんて、想像しろというほうが無理というものだ。
何を考えても、何も考えなくても、時間だけが過ぎていってしまう。
アオーンは振り返って歩き出した。ドアに向かって。
「行けばいいんだろ。」
「そうだ。最初からそうしていればよかったがな」
「ちぇっ」
「言っておくが、俺はお前の『同行者』だ。俺がいなければ、お前はどこにも行けないし何も出来ない。そのことだけは肝に銘じておけ」
言われていることの半分も頭に入ってこなかった。
「アザラに向かう前に、少し済ませておきたい用もあったんだが、こんなに時間が掛かるとは・・・」
「で、どっちに行くんだよ」
アオーンはクリスの背中を睨み付けて喋っていた。
さっきまで母が立っていた場所に、今度はクリスが立とうとしている。
「そうだな・・・町に下りていくのは面倒だから、このまま山を越えるか」
アオーンの家は、町から離れた高台にあって、森の中におさまっているといっても良いくらいだ。それなのに、まだ奥に入っていこうとしている。
「これ以上奥に行っても、どこにもたどり着かないけど・・・」
山のことも森のことも知り尽くしているつもりのアオーンが口をはさんだ。確かに少し奥に行くと、崖に阻まれた場所がある。しかしその先には渡ることが出来ない。一旦森を抜け、川を渡ってから、町はずれの教会の裏山から行くことになる。それにはとても時間が掛かったし、このまま行くよりも明日の朝になってから出発したほうが良いくらいだった。
「行こうと思わなければ、道はみつからない」
そういい捨てると、クリスは表の庭を通り過ぎ、太陽と反対に歩き出した。
アオーンが知っている家の周りには、気分の良い景色が広がっていた。
木々の間に差し込んでいる光は、一日の内に何度も違う顔を見せてくれる。このあたりまでは猟師も入ってこないのでそれだけでも安全だったが、今となっては母が結界を張っていたらしいのでこんなに獲物が多いのに猟師が来ないことも納得が出来た。
最初は緩やかに上っている道も、時間が経つにつれてきつくなってきた。
しかしクリスは一向に構わずどんどん先に進んでいく。アオーンのほうが山道には慣れている自信があったのに、少し息が上ってきた。足元も最初は落ち葉が積もってやわらかかったのが、今では石が飛び出していたり倒木も増えてきたのでどんどん歩きにくくなってきている。
「どうした。疲れたのか?」
「そんなんじゃないけど・・・ちょっと水飲みたいだけだよ」
アオーンを気遣ってくれるなんて考えもしなかったので、振り返ったクリスと目があったときには驚いて立ち止まってしまった。そのとたん、疲れが急に襲ってきたのは間違いない。そういえば朝食を食べてから何も口にしていないのに、もう日も暮れかかってきている。
「そうか。この辺で休んでもいいが、夜になってしまうな」
「とりあえず、俺は水を飲むからな」
そういい残すと、父に教わった泉が近くにあることがわかっていたので、そこに向かって走り出した。山道から少しそれたところに、小さいけれども美味しい水が湧き出ている泉がある。アオーンは駆け寄って、両手で水をすくって一口飲んだ。次に顔を洗い、リュックからタオルを出して汗でべとべとする首も拭こうと思ったとき、
(シュゥ、シュゥ・・・・)
聞きなれない音が対岸から聞こえてくる。
じっと眼を凝らしてみたが、周りは夕暮れの薄暗さが増していてはっきりと姿が見えない。
こっちに近づいてくるのは感じられるのだが、アオーンには今のところ身を守る術がなにも無かった。
「な、なんだよ・・・水蛇がいるなんて父さんは言ってなかったのに・・・」
水蛇だったら岸まで上ってくることは無いから安心だが、さっきまで鏡のように静かだった水面が大きく波打っている。
「蛇の大きさじゃないぞ・・・」
そう解ると緊張で全身の筋肉がこわばってきたが、逆に金縛りにあったように身動きが出来ない。
(シュゥ、シュゥ、シュゥ・・・・シュゥ・・シュッッ!)
それはいきなり目の前に姿を現した。
水の中から飛び上がってきたそれは、クマほどの大きさもある生き物で、アオーンに向かって両手を挙げている。大きく開いた口からはどろどろしたよだれが流れ、真っ赤にただれた舌がだらしなく下がってきた。見開かれた目がアオーンの姿を捉えた。
「なんだよ!こんな奴見たこと無いぞ」
どうしていいかわからないアオーンは、とっさにリュックを手にとり、その場をなんとか逃げようとした。その瞬間、森の空気を揺るがすほどの雷が目の前に落ちて、あっという間に獣の体を焼き尽くした。
「助かった・・・」
ほっとして、その場にへたり込んでしまった。
「なんだ、腰が抜けたのか?だらしがないな」
そう声をかけながらクリスが近づいてきて、アオーンの腕をつかんで立ち上がらせた。
「だって、あんな奴見たこともないし、こんなところに獣が居るなんて父さんも言ってなかった」
ガクガクした震えが足に来ていたが、それを知られないように必死で答えたアオーンは、一瞬の出来事に頭が混乱していた。
「ああ、確かにここにあいつが居るのは変な話だ。あいつはこちら側には来られないはずだが、まあいい。用は済んだのか?」
アオーンはいつも冷静に返事をするクリスに腹を立てていたが、今はそれが助けになっていた。
クリスはあの獣の存在を知っているのだ。どこかで見たことがあるような口ぶりなので、自分がもう少し落ち着いたら聞いてみようと思い、今はだまってついていく決心を固めた。
「ああ、すんだよ。・・・あんな奴初めてだったからちょっとびっくりしたんだ」
正直なところ、びっくりしたどころではなかった。あの時雷が落ちてこなかったら、今ごろどうなっていたかわからない。思い出しただけでもじっとりと汗をかいてきた。